A
雨乃よるる
A
キスで魔法が解けるらしい。
目の前の青年をA、わたしをBとする。目の前の青年は、深い眠りについている。彼は永遠に目覚めないといわれている。
わたしの指が震える。ここはどこだろう。どこかの公園だ。とにかく暗い。街灯の周りで虫たちが舞う。ゆっくりとしゃがんで、倒れている彼に近づく。
とにかく暗い。
背後に気配を感じて振り返ると、人影があった。ヒールの靴をはいた、ロングヘアの、化粧の濃い女。わたしは彼女を知っている。そして彼女は、わたしを知らない。
「あんた、誰?」
彼女がわたしに尋ねる。
「彼は姫のキスがないと目覚めないらしい」
わたしは質問には答えず、そう言った。
彼、目の前の青年は、永遠に目覚めない。彼は愛されることを必要としていないから。永遠に誰からもキスされずに終わるだろう。やがて体も朽ちて。
振り向いて彼女をにらむ。暗闇でもにらまれたとわかるように。
「何言ってるの?とりあえず彼を助けないと」
彼女が動揺しているのが伝わる。
「脈はあるよ。体温が下がってるだけ」
わたしは淡々と返す。
「あなたはどうして彼を助けないの?」
彼女が苛立っているのが伝わる。
「彼は眠っているだけ。助ける必要は無い」
助ける方法もない。
「でもこんな道端に寝るのなんておかしいじゃない」
「魔法とは、そういうものよ」
わたしの一言で、彼女は、何かを理解したように口を閉ざした。
重い闇に沈黙が降りる。きっともう解けない魔法は、私たちではどうすることもできないのだ。
「姫」
唐突にわたしはつぶやいた。彼女が、「あたしはは姫じゃない」とつぶやき返す。でもわたしは知っている。
彼女の声は、子守歌みたいだ。その声で、全ての出来事が夢の中へ消えてしまうような。あとになって、小さな現実が胸の中にさびしくのこるような。
そんな彼女の声を、聞き違うはずがなかった。彼女をもう一度にらむ。
「もういい加減思い出してよ。あなたは姫。ここにいる彼は王子。もう彼は100年経っても200年経っても目覚めることはないの。」
わたしは彼女にそう言い捨てたあと、唇の裏を噛んだ。街灯の光が頼りない。
「あたしが姫で、彼が王子なら、あんたは何なの」
彼女の声がわたしの耳を通り過ぎる。わたしは何。わたしは誰。
なんだか夢を見ているみたい。
こんな景色を見たことがある。
夜。
公園。
木の下。
街灯。
友達。
さみしい虫たちの声。
優しい姫の子守歌。
王子の寝顔。
夢うつつ。
好きだったことを思い出す。
彼の笑い方。青空にはじける花火みたい。
彼女の声。わたしを優しく包んでくれる魔法。
わたしは、二人とも好き。
二人はいつか結ばれるんだとばかり思っていた。
わたしは誰からも必要とされないんだと思っていた。
でも、彼は彼女と結ばれることはなかった。
「やっと目が覚めたの」
彼女がいた。姫、じゃないのか。王子のいない姫は姫じゃないのか。
くちびるにかすかな感触があった。
彼女が視界で笑っている。
「魔法が解けたみたい」
彼女はそう言って、もう一度わたしにキスをした。
彼をA、わたしをBとするなら、彼女はLか。
A 雨乃よるる @yrrurainy
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