第15話『ひと時の休息』

 俺は今、湖畔の乙女ウンディーネの力で王族専用の浴槽に水をためている。

 水面は波紋が広がって美しくきらめき、水上に浮遊するウンディーネはにこやかに微笑んでいた。

 あの激闘が嘘のような平穏だ。

 ゆっくりと水位が上がっていく様を見ながら、俺はウンディーネとの再契約を思い出していた――。



  ◇ ◇ ◇



『ふわわぁ~。おはようございます、マスター様』


 気の抜けた大あくびをするのはウンディーネだ。

 俺との再契約が終わった後、ウンディーネは暴走時の荒ぶりようが嘘のように穏やかになっていた。


『水ねーちゃん、大暴れだったんだぜ~』


『あらら……。まったく覚えていませんわぁ』


 ルドラが笑いながら彼女の周りを飛び回り、ウンディーネはただ首をかしげるばかり。

 するとセレーネが恐る恐る間に入ってきた。


「ローラン。精霊殿はなんと言っているのじゃ?」


「聞いてる感じだと、暴走中の記憶はないみたいだな……。今は見ての通り、穏やかなもんさ」


 その話を聞いたのか、ようやく兵士たちは安堵の表情を浮かべた。

 ……まあ酷い目にあったんだ。それも当たり前か。


 ウンディーネはというと、空中に浮かびながら猫のように丸まってうたたねし始める。

 まったく、精霊っていうのは気ままなもんだなぁ。


 それにしても魔界の瘴気とは恐ろしいものだ。

 毒無効のウンディーネにも影響があるぐらいだから、近いうちに情報収集を始めなくては……。



 この後もウンディーネに色々と話を聞いたのだが、気になったのは聖女エヴァが大鐘を使った時の話だった。

 大鐘の音で契約が断ち切られた後、ウンディーネは見えない力で吹き飛ばされたらしい。


 エヴァの魔法が「強化」だったとして、大精霊ほどの存在を吹っ飛ばすのは違和感がある。彼女は強化魔法以外にも何かを隠し持っていたのだろうか?

 もしそうだとしたら、ラムエル王子よりもよっぽど脅威だ。

 人間界に戻れない今となっては知りようがないが、俺の最大の弱点として注意せねばと思うのだった――。



  ◇ ◇ ◇



「……ーラン、ローラン!」


 考え事をしていた俺は、セレーネの声で現実に呼び戻された。

 ……そうだ。

 今、俺は浴槽に水をためているところだった。

 ウンディーネはもう暴走した様子はなく、ニコニコしながら水を生成してくれている。その表情はまさに女神の微笑と言っても過言では――。


「ローラン、いい加減にせい。わらわを無視するでない」


「う……。いや、無視してたんじゃないんだ。……むしろ、何か考え事をしてないと正気でいられないというか、何と言うか……」


「それが無視というものじゃっ! わらわも恥ずかしいのじゃから、そなたも恥ずかしがってくれぬと不公平じゃ」


 そう言って、セレーネは俺の背中に密着したままプリプリと怒っている。


 ……一体俺たちが何を話しているかって?

 もちろん、ウンディーネに水を生成してもらう作業に関してだ。

 決してやましいことはないぞ?


 とにかく無から有を生み出すにはたくさんの力が必要なのだ。

 暴走してた時のウンディーネは化石森の山と繋がってたので膨大な水を生成できたわけで、俺と契約している今は俺が力を提供しないと魔法は使えない。

 とはいえ俺には魔力がないわけで、ウンディーネに水を出してもらうためにはセレーネの協力が不可欠だ。

 そして魔力をもらうには肌の密着が必要なわけだから……もう分かるだろう?

 背中に密着する弾力に、意識が持っていかれそうだ……。


「も……もう終わりにしていいんじゃないか? そろそろ浴槽からあふれるし」


「汲み出す仕組みを作ってもらったゆえ、心配せんでよい。管を伝って中庭の樽にたまる手はず。これは町に送る水なのじゃから、いくらあっても困ることはない」


 そう。

 今、俺たちは魔王城の近郊にあるギムレーの町で使われる水を準備しているところなのだ。

 飛竜に壊された施設は徐々に復旧しており、農場ではそろそろ作物の植え付けが始まるらしい。農業用の貯水池も飛竜に壊されていたため、急いで水を調達する必要があった。


「……うぅ。頑張るしかないか……。元を正せば飛竜の被害もウンディーネのせいだもんな。ウンディーネにはしっかり働いてもらわないと……。……実際に力を使うのは俺なんだけど」


「体力が減っておるわけでもないのに、ため息をつくでないっ。そなたに力を分けておるのは、わらわなんじゃぞ」


 まったく、お姫様は無茶言うなぁ……。

 背中に柔らかさを感じながらも平常心で淡々と仕事する……そんな度胸が俺にあるかよ……。

 まったく、顔が火照ほてってしょうがない。


「くふふ。勇者といっても無敵ではないのじゃな。わらわがおらぬと、どうなっていたことか。これでは文字通り、そなたはわらわから離れられぬな」


「それは……すまん」


「あ~~嫌じゃ嫌じゃ。こんな恥ずかしい目にあわされて、困ったもんじゃ」


 嫌だと言いながら、むにむにと胸を押し付けてくるのはなぜなんだ。

 本当、セレーネのことがよくわからない。


「はぁぁ……。聖剣さえあれば魔力がもらえるのにな……。あれがあれば、君に恥ずかしい想いをさせずに済むんだが……」


「えっ? ……わらわがいらぬようになるのか?」


「まぁ……きっと。…………。……なんか残念そうな声に聞こえるんだが、気のせいか? 嫌なんだろ?」


 なんだか拗ねたような声色を感じたので背後に視線を送ると、セレーネはブルブルと首を振った。


「も、もちろん嫌じゃともっ! しし、しかしっ。ほれ、今は聖剣がない上に人間界に戻れぬのじゃろ? それはもう仕方がないわけなので、これは大事な公務なれば、魔力をくれてやるにはわらわも我慢するというわけじゃぁっ! …………本当は嫌なのじゃが!」


 ……なんか、言い訳みたいだな。

 めちゃくちゃ早口でまくしたてられてしまった……。



 と、その時。

 背後でレースのカーテンがひらめく気配がした。


「姫さま~。ご報告に上がりましたですっ」


 なんだか間の抜けた女性の声が浴室に反響する。

 俺とセレーネが振り変えると同時に、その女性は硬直してしまった。

 整った身なりから察するに、セレーネに使えている侍従かもしれない。


「あっすみません。お楽しみのところを失礼しましたです~」


「お、俺はたた、楽しんでなんかないぞっ」


「そそそうじゃ。これはれっきとした公務! 遊んでるわけではないのじゃっ」


 俺たちは声を揃えて訂正するが、侍従らしき彼女は深々と頭を下げ、すぐさまカーテンの向こうに引き下がる。


「いいんですよ、姫さま~。ごゆるりとご堪能下さいませです~」


「待てぃ! 誤解したまま去るでないっ。……ほ、報告とやらを聴こう。申せ!!」



  ◇ ◇ ◇



 俺とセレーネは赤面しながら衣服を正し、報告とやらを聴くことになった。

 やってきた少女の名はマリヤ。

 14歳と随分と若いが魔王城で侍従を務め、現在はギムレーの町の復旧工事の監督をしているらしい。

 彼女はセレーネに書簡を手渡すとともに、口頭で仔細を説明している。

 しばらくしてセレーネはうなずき、口元に笑みを浮かべた。


「うむ。これで農地も無事に復旧というわけじゃな。マリヤよ、大儀であった。そなたを登用してよかったと、心より思うよ」


「えへへ……。家柄とかがないわたしが動きやすいのは、姫さまのお計らいがあってのことなのですっ」


 そんな二人のやり取りを見て微笑ましくなると共に、俺はマリヤという女性がうらやましくなった。

 俺自身は命がけで人々を守っても、ラムエル王子に認められるどころか殺されてしまったのだから。

 セレーネのような人が勇者パーティーの仲間だったらよかったのにな、と切なくなってしまう。


 そんな俺の想いをよそに、二人は楽しそうに談笑している。


「ところでマリヤよ。随分と嬉しそうじゃが、それは仕事のことだけではあるまい?」


「さすがは姫さま、わかっちゃいますか~。はいです。今回も碑文が発掘されたので、研究が進みますです。現場監督ならではの役得なのですよ~」


 きゃっきゃと嬉しそうなマリヤさん。

 その彼女が言う『碑文』という言葉が気になったのは、冒険者としての血が騒いだからだろうか。

 俺はいつの間にか二人に歩み寄っていた。


「碑文ってなんだい?」


「む? ローランも興味があるのか? 古い石に文字が掘られたものでな、『失われた年代記』とも言われておる」


「そうなのですっ! 現在の魔界とは異なる世界のお話が綴られてましてですね、魔界創生前の歴史を伝えてくれている……と言われてますです。この魔王城近辺では特に多く出土してまして、わたしもこのために移り住んだと言っても過言ではないぐらいなのですっ!」


 マリヤさんは目を輝かせながら饒舌じょうぜつになっていた。

 歴史や伝承がよっぽど好きなのだろうな。


 彼女のそんな姿を見て、俺は聖王国のことを思い出した。

 勇者の補佐役として様々な儀式をサポートしてくれていた女性……聖王国の王女、ルイーズ殿下のことだ。

 彼女も精霊学の研究に熱心で、こんな風に目を輝かせていたことを思い出す。

 公務がない時はいつも俺のそばにいたぐらいなので、精霊によっぽど執着してたんだろうな。


 久しぶりにルイーズ殿下を懐かしんでいると、いつの間にかマリヤさんは落ち込んでいるように見えた。


「ん? どうしたんだ?」


「えっと……。碑文が沢山見つかるのは嬉しいですけど、残念なこともあるのです。どの碑文も欠損が多くって、研究が遅々と進まないのが悩みなのです……」


 そして俺の方に視線を移したマリヤさんはモジモジしはじめる。


「そんな時に人間界の方がいるのは何かのご縁! 違う文化の方のご意見が欲しいのです! 要するに、手伝ってほしいのです!」



 ……この後に出会うことになる碑文。

 それは俺の運命を決定づけることになる。

 しかしこの時点の俺は、まだ何も気づいていなかった――。

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