第三章:二十九話

 ここであいつの名前が出てくるなるなんて、どうして想像できただろう。予想外な展開に、俺はしばらく言葉を失った。


夏川って? 


あいつが俺の、夢治療の担当研究者?


「夏川くん、もちろん分かるよね? 私も昔、蛍琉から時々彼の話を聞いてたけど、すっかり忘れてた。というか、蛍琉の話す夏川くんが、後輩の夏川くんと同一人物なのか、私には最初分からなかった。蛍琉が話してた夏川くんの下の名前は知らなかったしね」


「……」


「最初は私が蛍琉の担当研究者だったの。でも、私の判断で、担当を夏川くんに変えた」


「……なんで?」


「私はずっと、蛍琉を目覚めさせたいと思ってた。そのためにきっと私はここに配属されたんだって、思っていた時もあった。でも、夢治療は研究者の数がまだまだ少ないのに反して、希望者は多い。被験者は毎回抽選で選ばれる。蛍琉が夢治療を受けるまでに三年近くもかかったのはそのせいなの。その頃、私は研究センターで働き始めて四年目で、後輩が付くことになった。そして、私のもとに来たのが夏川くんだった」


「うん」


「夏川くんの指導開始から少し経った頃、私は蛍琉の夢治療を開始したの。さっき夢治療の過程は説明したよね? 私はまず、蛍琉の一年間の記憶を見た。びっくりしたよ。だってそこに、私が毎日指導している夏川くんがいるんだもん。彼が蛍琉の言ってた夏川くんのことだったなんてさ。しかも、その夏川くんは蛍琉にとって特別な友達だったでしょ?」


「特別って……」


「高校生の頃から。見てたら分かるよ。ずっと、そうだったんでしょ?」


そう言われて、俺は上手く言葉を返せず口をつぐんだ。俺にとって特別。そう、特別な友人だった。今も昔も。でもあいつにとっては。


「映像を一通り見て、実際に蛍琉の記憶の世界に一回入って、私じゃないなって思ったの。蛍琉を夢の世界から連れ出してあげられるのは。私じゃなくて、夏川くんだって。その彼がこの研究センターにいて、私の後輩として夢治療の研究をしてるなんて、もうこれは奇跡だと思った。だから、私は夏川くんに、蛍琉を託すことに決めた」


「それで、俺の担当を夏川に?」


「うん。だから実際に蛍琉の記憶の世界に入って、そこでどんなことがあって、今日蛍琉が目覚めたのか、本当の記憶はどんなものなのか、それは夏川くんの口から語られるべきなの」


「あいつは、今どこにいるの?」


「今日は休み。蛍琉の治療、本当は昨日終わったの。でも、昨日の時点で蛍琉は目覚めなかった。だから、私はてっきり失敗したんだと思ってた。夏川くんもそう思ったみたいでね。私に報告してくれた時の顔色が、それはもう酷くて。もう一回やらせてくれって言うんだけど、それならまずはその顔色を直してもらわないと。そんな状態でもう一度治療をしても、上手くいく訳ないからね。無理やり休みを取らせたの」


「そっか……」


「蛍琉。蛍琉が何に悩んで、何に一番苦しんでたのか、姉さん、完全には分かってあげられない。でもね、夏川くんのことに関してなら、一つ、私から言えることがある」


「何?」


「夏川くん、蛍琉が眠りについてからずっと、入院先の病院に通ってくれていたみたいなの。私も最初は、というか夏川くんのことに気がついて色々調べるまでは、ちゃんと分かってなかったんだけどね。定期的にずっと」


「……」


「それからね、私、夏川くんが後輩になったばかりの頃、どうしてこの研究室を選んだのか、聞いたことがあったの。そしたら彼、こう言ってた。『俺が、目覚めさせたい人がいるんです。俺は、彼の傍にずっといたのに、救えなかった。でも、大事な人なんです。だからもう一度会って、話がしたい』って」


「その、が、俺?」


「うん、そうだよ。それを伝えた上で、ここからが本題なんだけど。蛍琉はさ、昔から夏川くんのこと大事だって、特別だって思っているわりに、夏川くんのこと信じてないでしょ?」


「そんなこと」


「昔、蛍琉から聞いてた話を思い出したあとも、今回蛍琉の記憶を改めて映像として見たあとも思ったの。蛍琉、、そっちはちゃんと考えたこと、なかったんじゃない?」


「夏川にとって、俺がどういう存在か?」


「そう。蛍琉はあれだけ近くにいたのに、夏川くんとちゃんと向き合っていない。蛍琉が夏川くんのこと大事なのは分かった。でも、自分の気持ちばっかりで、相手の気持ちに向き合うことをしていない」


「それは……」


「相手が本当に大事なら、逃げたらいけないよ。蛍琉は自分が傷つくのがこわかったんでしょ? 自分が持っている大事って思いを、相手が同じだけ返してくれなかったら、傷つくのは自分だから。だから向き合おうとしなかった。でも、それってすごく狡いし残酷だよ」


「残酷?」


「だってそれじゃ、相手がどれだけ蛍琉のこと大事に思ったって、相手はその気持ちを、最初から受け取ってもらうことすらできない」


姉さんの言葉に、俺は何も言い返せなかった。本当にその通りだったから。そんなことにも、俺は気がついていなかった。いや、違う。無意識に、考えるのを拒んでいた。


「もっと夏川くんのことを信じてあげて。自分の大事な人にはちゃんと向き合って、その人からの思いも、受け取ってあげてよ。この世界には、蛍琉が思っている以上に、蛍琉のことを大事に思ってくれてる人が沢山いるんだよ。私だってそう。夢の中なんかに逃げてないで、ちゃんとそのことに目を向けて」


「ごめん。姉さん」


「……ねぇ蛍琉、その言葉は違う。人はね、誰かから、その思いを受け取った時は、って言うの」


「……うん。ありがとう。ありがとう姉さん」


「じゃあ、あとは夏川くんと蛍琉、二人で明日話すってことでいい? 夏川くんから説明聞いた方がいいでしょ?」


「……そのことなんだけど。先に姉さんから全部聞かせてほしい」


「え?」


「明日、あいつはここに戻ってくるんだろ? その前に、俺、姉さんに頼みたいことがある」




*** ***




 あの日、俺は姉さんから全ての話を聞いて、その上で自分の記憶の映像も見せてもらった。そうして俺が忘れていた部分も含め、全ての記憶を取り戻した。


あの日の出来事も。記憶に靄がかかってどうしても思い出せなかった、その先の出来事も。


それから、俺は無理を言って、もう一度記憶の世界に入る許可を貰った。もうその時点で俺は純粋な被験者ではなかったから、俺も記憶の世界と現実世界を自由に行き来できるようにと、研究者用ヘルメットを使用することになったのだ。


研究者用と被験者用で、見た目はほとんど変わらないから、研究室で夏川にバレることはなかった。そうして入った記憶の世界で、俺は夏川の思いを知った。俺の思いも伝えることができた。


やっと互いの心に一歩踏み込むことができたのだと思う。これはきっと俺に、俺たちに必要な過程だった。だいぶ遠回りをしたけれど、それでも。


俺はベッドの上に無造作に置かれたヘルメットを手に取り、頭にかぶった。


今、全てが終わろうとしている。


そして今度は、目覚めた世界で、また、新しく始まろうとしている。

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