第三章:二十七話

*** ***




 夏川と別れ、俺はこの世界にある自分の家へと帰っていた。玄関を開けて、中に入る。


「ただいまー」


ここで過ごすのも今日が最後だ。そういえば、現実世界で俺の家はどうなっているんだろう。そのまま放置されていたらと思うと、見るのが少しこわい。


いや、さすがに年単位で放置されているなんてことはないか。また姉さんに聞いてみないと。


それにしても、こんな日が来るなんて、思ってもみなかった。ずっと眠っていた俺には、あの暗闇に落ちた日が、つい昨日のことのように思えてしまう。


それが実はかなり昔の出来事で、俺はあれからずっと寝たままだったなんて。


そして今、こうして過ごしている世界は偽物で、これから俺は、数年先の未来に帰ろうとしているだなんて。


そっちの方が夢みたいじゃないか。



 現実の世界で目が覚めて、姉さんから話を聞いたあと、俺はほとんどまる一日かけて自分の記憶を整理して、これからどうするかを決めた。


そして俺は、再びこの世界へとやって来た。まるで噓のような話だが、やはりこれら全ては紛れもなく現実に起こったことらしい。それを証明するように、今、俺のベッドの上には見慣れない機械が置いてある。


ヘルメットの形をしたそれは、夢治療で使用されるもの。その形の通り、頭に装着して使用する。姉から聞いた話によると、このヘルメット型の機械には種類が二つあるのだという。


一つ目が、今、俺の目の前にあるこの機械。これは研究者が夢治療で使用するもので、これを装着することによって、好きな時に記憶の世界と現実世界との間を行き来できるらしい。


このヘルメットは研究者がどちらの世界にいる場合にも視認でき、使用可能となっている。使い方は非常にシンプルだ。記憶の世界でそれを装着し、outと記載されたボタンを押せばそこから出ることができる。逆に研究室で装着し、inと記載されたボタンを押せば、記憶の中に入れる仕組みになっていた。


もう一つは被験者が使用するヘルメット型機械。これは現実世界で、被験者を記憶の世界の中に連れて行くために使用する。こちらは研究者用の物とは違い、二つの世界の行き来を想定された作りにはなっていないため、記憶の世界の中で、被験者はそのヘルメットを視認することはない。



 今、俺の前にあるのは研究者用のヘルメットだ。なぜなら俺は今回、ただの被験者としてここにいる訳ではないからだ。


既に一度、俺は眠りから覚めていた。だからもはや、研究者が夢治療で救う対象ではないのだ。


それでも俺がこの世界に来た理由、それは俺を救ってくれた夏川を、今度は俺が過去から救い出すためだった。


今日まで、とても長かった。俺は、あの見慣れぬ研究室で目覚めた日に、思いを馳せた。




*** ***




 誰かの気配を感じて瞼を開く。目を開けた俺を迎えたのは見知らぬ景色。無機質な部屋。天井から降ってくる蛍光灯の光が、目に刺さって痛かった。


あれ、ここはどこだっけ。


寝起きで鈍くなっている思考を働かせようとした時、突然聞こえた大きな声に、それを遮られた。


「蛍琉!?」


声のした方へ目を向けると、そこには姉さんが立っていた。これまた見慣れない服を身につけている。あれは……白衣、だろうか。


「ねぇ! 蛍琉!? 目が覚めたの?」


かなり動揺しているようで、姉さんは手に持っていたペンと紙を床にとり落とした。しかし、それらには目もくれず、俺の名前を呼びながら一目散にこちらに駆けてくる。


「蛍琉!」


「……姉さん? なんで、いるの。今、何時?」


「何時……って。何寝ぼけたこと……。あんた、ずっと何年も眠ってたのよ!」


「……は?」


姉さんは、俺が寝ているベッドの側までやってきて、床に膝をつく体勢で俺の顔を覗き込んだ。その姉さんの目に、みるみるうちに涙の膜が張る。


それをぼうっと見ていると、ついにそれが一粒こぼれて、頬を伝った。


あぁ綺麗だな、なんて場違いなことが頭に浮かぶ。


でも、たとえいくら綺麗でも、姉さんの泣き顔なんて見たくはない。だから俺は、そのこぼれた涙を拭うため、腕を持ち上げた、つもりだった。


しかし俺の腕は、姉さんの頬に届く前に、ベッドの上に落ちた。腕が、いや、腕だけではない、体全体が、鉛のように重かった。それを見た姉さんは、俺の手を取り、優しく握ってくれた。


「ごめん。ちょっと取り乱したね。まだ記憶がはっきりしないのも、無理ないか」


「姉さん、大丈夫?」


「うん。大丈夫。蛍琉、あとでちゃんと説明するから。ちょっと待ってて」


姉さんはそう言うと、先ほど握った俺の手をそっと放し、自分で涙を拭った。そして、俺にここから動かないよう伝えて部屋を出て行った。


残された俺は一人、見知らぬ部屋で待ちぼうけをする羽目になる。姉さんが戻ってくるまで、とりあえず俺は自分の状況を思い出すことに専念した。


しかし、俺が最後に覚えているのは自室のベッドに寝転んで、夏川からスマホに送られてきていたメッセージを開いているところで。


どうしても今、自分がこの見慣れない部屋で寝ていることに記憶が繋がらない。


そもそもここはどこだ?


姉さんが白衣を着ていたということは、ここは姉さんの職場なのだろうか。


研究者の道を選んだ姉さんは、確かどこかの研究センターで働いていたはず。


なんて名前だったっけ。


まだ意識がぼんやりしていて、はっきりと思い出すことができない。瞼が重くて、今にもまた眠ってしまいそうだった。

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