第二章:十六話
*** ***
秋を迎えた頃から少しずつ忙しさが増していた。ついこの間まで栗だ、芋だ、紅葉だとテレビが騒いでいたのに、気づけば街にはもうクリスマスソングしか流れていなかった。俺はと言えば、朝も昼も夜も音楽。季節なんてそっちのけで、音楽ばかりが俺の時間を埋めていた。だからだと、言ってもいいだろうか。俺は何にも気づけなかったのだ。いや、やっぱり違う。それは音楽のせいなんかじゃなくて。
ずっと無自覚だったのは
気づかなかったのは
俺がちゃんと、見ようとしなかったから。
だから、これから語られるのは
向き合うことから逃げ続けた
他でもない
俺自身が作り出した
とある悲劇の物語
その一ページ
*** ***
「あ、雪加くん」
「ねっしー? おつかれ」
正確な日付はもう覚えていない。でもその時の情景はありありと鮮明に思い出せる。
それはきっかけとなった日の出来事。大学で、その日最後の授業が終わって、俺は教室を出たところだった。そこで同じ音楽学科で学ぶ友人、ねっしーと鉢合わせたんだ。
「今、授業終わり?」
「あぁ。お前は?」
「僕も同じだよ。さっき終わったところ」
「何の授業受けてたんだ?」
「音楽史の授業だよ」
「坂前先生の? あれ、眠たくならない?」
「子守唄みたいってよく言われてるよね。僕的にはなかなか面白いんだけど」
「うーん。内容はいいとして、坂前先生のあの喋り方で、九十分丸々話されるとちょっと。眠気に抗えないというか……」
「僕、あの先生の授業他にも結構取ってるからかな、慣れたよ」
「慣れるものなの……」
「フフッ。まぁ、実を言うと、寝不足の時はきついかな」
坂前先生というのは音楽学科の授業を担当している大学教授の一人だ。いつも白いシャツにニットのベストを身につけた、見た目に特にこれといった特徴のない初老の先生。主に音楽の歴史や、音楽と政治、社会の相互作用などについて広く講義を行っている。
音楽学科の授業と言うと実技の方を想像されやすいが、こうした座学で音楽に関する知識を得ることも学生にとっては大きな糧となる。なるのだが、坂前先生はその喋り方に少々難がある。
まず声量があまりにも微弱だ。加えて話に盛り上がりもオチもない。極め付けに、ただでさえ弱々しい声から講義中は一切の抑揚が消し去られる。
そんな感じで授業の始まりから終わりまで淡々と話が紡がれるものだから、途中で夢の国に旅立つ生徒が多数発生してしまうのだ。
「でもさ、音楽そのものを形作る背景とか、輪郭みたいなものを知ることって、自分の音楽を磨く上で重要なことだと思うんだ」
「そういうところ、純粋にすごいと思うよ」
「取り込めるものは全て取り込む、それが僕のやり方だからね」
ねっしーとはこの大学に入学してから知り合った。音楽学科は定員が二十人と少ないから、今ではほとんど全員が顔見知りみたいなものだ。
ねっしーの最初の印象は物静かなお坊ちゃん。それから彼を知るにつれ、その印象が半分正解で半分間違いであることを知った。
正解だったのは彼がお坊ちゃんだという点。両親が俺も知る世界的に有名なピアニストだと聞いた時は驚いた。でも、彼が音楽を続けているのは、決して両親の敷いたレールがそこにあったからではない。
音楽を始めたきっかけはそれだったのかもしれない。
しかし、彼は寧ろ、それに”抗う者”だ。
かつて彼はこんなことを言っていた。
「僕はさ、時々自分が何をやっているのか分からなくなる」
と。
黙って話の続きを促すと、彼は困ったように眉を寄せた。おそらく言葉を選んでいるのだろう。ゆっくりと口を開く。
「僕が演奏で失敗すると、ある人は言うんだ。『ご両親はあんなに才能があるのに』って。そして僕が上手く演奏してみせると、今度は別のある人が『さすが彼らの子どもだ』って言う。演奏を失敗したのも成功させたのも僕で、僕は僕の音楽を奏でたはずなんだけどさ」
俺は黙って頷いた。
「両親のことは人としても、演奏家としても大好きだよ。尊敬もしてる。けれど、僕は別に、目指す音楽の道の先に、彼らと同じゴールを見ている訳じゃない。僕は僕として、歩んでいたつもりだったんだけどな」
それは確か、プロを目指すアマチュアたちの、比較的大きな演奏会が都内で開かれた直後のこと。その演奏会を取り扱った記事が、ある音楽雑誌に掲載された日のことだった。その中で彼は、有名なピアニスト二人の二世として、特集されていた。
「僕は一体何をやっているんだろうね」
寂しげに笑った彼の顔が、今でも瞼に焼き付いている。
いつもは穏やかな微笑みに隠された彼の一片の悲しみを、その瞳の奥に、見た気がした。
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