転生少女は引きこもりたい

無月彩葉

転生少女は引きこもりたい

1.

 透き通るような清々しい青空にも、庭を彩る優雅な花たちにも、頬を撫でるような心地いい風にも、興味はない。

 知識を得るための学園や、穏やかな香りが漂う大通りや、物静かな公園のベンチにも、行きたくはない。

 ふかふかなベッドと本棚、それから紅茶の香り。それが私の世界の全てで、他は何も知る必要がないの。

 外に出たらきっと酷い目に遭うって分かっているから。私は全部知っているから。

 たとえ引きこもりお嬢様だと揶揄やゆされたって構わない。

 心身の安全が第一。

 それなのに。

「アリーセお嬢様、紅茶をお持ちしました」

「ありがとうございます。そこに置いてくださ……」

「ベランダのテラスに置きますね。今日は涼しくていい天気ですよ。さ、外へ」

 私の元へ新しく来た新米執事。彼はすぐに私を外に連れ出そうとするから困る。

「そこに置くなら今日は紅茶は飲みません」

「そんなこと言わないでくださいよー。折角淹れて来たんですから」

 執事は……ハーロルト・ヴェーベルンさんは子どものように口を尖らせて抗議した。

 そろそろお父様に執事を変えてくださいってお願いしないと……ダメかな。

 私の心身の安全のために。



「もう、どうしてお嬢様は頑なに外に出ようとしないんですか」

 意地を張る私に観念したのか、室内のテーブルの上にティーポットとティーカップを置いたハーロルトさんが尋ねる。

「……そういう気分じゃないからです」

 気分じゃない。いつも、そうやって答えている。

 いろんな人から何度も同じ質問を受けたけれど、正直に答えたことは一度もない。

 言ったってどうせ信じてもらえないか笑われるだけだ。

 私には前世の記憶があって、そこで酷い虐めを受けていたから外に出たくない、なんて……そんなことを口にしたら頭がおかしくなったと思われて医者を呼ばれてしまう。

 前世の記憶がなかった幼い頃は外で無邪気に遊んでいたけれど、二年前にふと記憶を取り戻してしまってからは、外に出ようとすると足が震えるようになった。

 このコデレーション王国では王の次に権力を持つと言われるアインホルン家の末の娘。そんな高貴な身分の人間が引きこもりだなんて世間にバレたら恥晒しもいいところ。私が引きこもりであることは屋敷の外には漏らしてはいけない決まりになっているけれど、いつどの使用人が口を滑らせるか分からない。

 本当は外に出なければいけないって分かっている。学校にも通った方がいいだろうし、舞踏会やお茶会にも少しは顔を出した方がいいと思っている。でも、人の目に触れるのはやっぱり怖い。

 「ブス」とか「死ね」とか汚い言葉を浴びせられ、こちらから話しかけると無視をされ、物を隠されたり机に落書きをされるだなんてに日常茶飯事。おまけに教師や親は「いじめられるのには何か原因があるんじゃない?」って言って助け舟を出してくれない。確かに私が鈍臭くて、貧弱で、周囲に迷惑をかけてばかりだったのが原因かもしれない。それでも……辛いことには辛かった。誰にも助けを求められなかったことを含めて全部。苦痛で苦痛で仕方がなくて、ある日校舎の屋上から飛び降りた。それ以降の記憶はないから、多分私はそこで死んで、この異世界に転生したのだと思う。 

 自殺から始まる異世界生活だなんて望んでいない。

 もしも神様に会えるのなら、そうやって訴えたい気持ちだ。


「十五歳になる前のお嬢様はどちらかといえば活発な性格で、今とは別の意味で使用人たちを困らせていたとお聞きしました。二年前……一体何があったんですか?」

「……本当に、何もないんです。そういう気分になれないだけで」

 前の執事にも何度も同じ質問をされたけれど、口を割らなかったら諦めて辞めていった。ハーロルトさんも近いうちにいなくなっちゃうかもしれない。私が仕事を奪ったみたいで心苦しいけれど、それでも外に出る気持ちには到底なれなかった。

「僕は辞めないですよ」

「え?」

「なんかそういう諦めの目をしていたので。僕はアリーセお嬢様がお外に出られるまでずっとお仕えしますよ。まあ、僕の生活もかかっていますし」

 ああ……やっぱりそうだよね。私に仕えるのはハーロルトさんのお仕事。そう簡単に辞めて欲しいだなんて言ってはいけない。でも、それなら私をわざわざ外に出そうとしないで必要最低限のことだけお手伝いしてくれればそれでいいのに……お父様に命じられているのだろうか。私を外に出すようにって。

「そうだ、そろそろ本棚の本も全て読み終えた頃ではありませんか?」

「ああ……そうですね。すみません、またいつものように……」

「離れにある書庫から適当な本を見繕って持って来て欲しい、ですか?」

「……はい」

 また思ったことを先読みされてしまった。うちの書庫は屋敷の中にはなく、庭を通って五十メートルくらい行ったところにある離れにある。私はその五十メートルすら出るのが嫌で、先代の時から執事さんに頼んでいた。

「今日は天気もいいですし、一緒に行きませんか? アリーセお嬢様が何を怖がっているのかは分かりませんが、この距離なら小動物一匹すら出会うことはないでしょう」

 確かに、この距離で外部の人間に会うことはまずないだろうし、怖がる必要もない気がする。でも、一歩踏み出したらまた一歩、もう一歩と催促されそうで怖い。そもそも外行きの靴に足を通すことすらできない。そこに画鋲が入っているのではないかと怯えてしまって。

「すみません、私……」

 やっぱりお断りしようと口を開きかけた時、強めにドアをノックする音が聞こえた。

「アリーセ、入るぞ」

「お、お父様?」

 聞こえて来たのはお父様の声だ。高位の伯爵として厳しい面もあるけれど、なんだかんだで私の引きこもりを容認してくれる甘い一面もあるお父様。彼が私の部屋まで来るなんて珍しいけれど、一体どんな用事だろう。

 ガチャリと扉を開けて入って来たお父様は眉間に皺を寄せ、なんだか険しい顔をしている。

「あの、どうされたのですか?」

 嫌な予感がして、姿勢を正す。紅茶を注ごうとしていたハーロルトさんも、ティーポットを置いて背筋をピンと伸ばしている。

「単刀直入に言う。アリーセ、明後日行われるお茶会には必ず出席をしろ」

「……え?」

 一切前置きのない、本当に単刀直入な話に耳を疑う。

 この二年間、私は体調不良と偽っていつもお茶会を欠席していた。それを許されていた。それなのに何故、突然必ず出席しろと言われてしまうのだろう。

「明後日のお茶会にはコデレーション王国の王による視察も兼ねている。伯爵家として完璧なもてなしをしなければならない」

 王家とも繋がりがあるアインホルン家だけれど、国王が直接来るというのは珍しい。でも、そんな大層なお茶会なら一層行きたいとは思えない。

「その……いつもみたいに体調不良、という訳にはいかないのでしょうか?」

「噂が広まっているんだ」

「え?」

 嫌な予感がして、背中を汗が伝う。噂ってまさか……

「アリーセ・アインホルン。伯爵家の末の娘が引きこもりだ、という噂だ」

 ああ、それは噂ではなくて事実だ。バレるのも時間の問題かもしれないという予感はあったけれど、まさか王家に噂が流れていただなんて……一体どこから漏れたのだろう。

 いや、誰かが漏らした訳ではないかもしれない。

 舞踏会もお茶会も、ずっと体調不良と偽ってお休み。それが二年も続けば誰だって怪しいと思い始める。

「も、もしも……私が拒んだ場合は?」

「身分を捨て、この屋敷から去ってもらう。そうすれば余計に引きこもりなどできない身となると思うが」

 いつもどこか私に甘いお父様の姿はここにはない。

 平民になったら……否が応でも働かなければならなくなるし、生活するための買い物だって必要だ。お屋敷でぬくぬく過ごすだけの今とは大きく世界が変わってしまう。そのことだけは確か。

「……分かりました」

 もう、私には頷く他術がなかった。いきなり一国の王が参加するお茶会なんて荷が重すぎるし、もっと小規模なお茶会に参加しておくべきだったかもしれないと後悔しても遅い。

「頼んだぞ」

 というお父様の声をぼんやりと聞きながら、ドクドクと煩く脈を打つ胸を押さえた。


「ハーロルトさん、私……どうしましょう」

「どうするも何もお茶会に出るしかないんじゃないですか?」

「でも……」

 ずっと引きこもっていたから、屋敷での私の評価なんて地に落ちているはずだ。誰に何を言われるか分からないし、前世と同じように無視をされたり意地悪をされたりするかもしれない。そうなったら私は……また、この身をどこかから投げ出してしまうかも。

「大丈夫です、アリーセお嬢様のことは僕がお側でお守りするので」

 前世でも、私と友達になろうとしてくれた人は何人かいた。けれどその人たちも周囲の同調圧力に負けて離れてしまった。ハーロルトさんだっていつ私の元を離れたくなるか分からない。実際、先代の執事さんだっていなくなっている。

「……ありがとうございます」

 私はハーロルトさんの目を見れないままお礼を言った。

 できれば「守る」だなんて無責任なことは言わないで欲しかったな、と思いながら。



2.

 お茶会といえばお菓子。お菓子といえば……あまりいい記憶がない。

 高校一年生の時、調理実習でお菓子を作る機会があったのだけれど、班の皆からは冷たくあしらわれて、皆がやりたくない洗い物などを無理矢理押し付けられて……いや、それはいつものことだったからいい。問題はその後。出来上がったお菓子を切り分け、皆で食べている時、席が近かったクラスメイトにふと

『ねえ君、随分美味しそうに食べるんだね』

 と、声をかけられたのだ。

 私の分が用意されたことだけでもありがたいのに、それを大してありがたく思わず、甘いお菓子に舌鼓打って食べていたことがなんだか悪いことのように思えて、急に恥ずかしくなった。私はただ「ごめんなさい」と謝ることしかできず、声をかけてくれた彼の顔を見ることもできずに俯いて、なるべく黙々とお菓子を口の中に運んだ。そんな記憶。

 こういうよくない思い出はお菓子に限った話ではなく、いろんなものに関連して山のように出てくるから嫌になる。


 お茶会の会場はアインホルン家の庭だった。庭師により丁寧に切り揃えられた薔薇の垣根が囲う開けた場所に丸テーブルと椅子がいくつか置かれ、それぞれに色とりどりのお菓子や紅茶が用意されている。イチゴの乗った定番のショートケーキに、サクサクの底生地にとろけそうなチーズ生地が乗ったレアチーズケーキ、淡いピンク色をしたプルプルのババロア、ナイフを入れると溶けたチョコレートが溢れ出すフォンダンショコラ。紅茶も他国から輸入した最高級の茶葉を使っており、ティーポットの中からもいい匂いが漂ってくる。

 空は雲一つない晴天で、時折吹き抜ける涼しい風が心地いい。前世でいうところの秋晴れという感じ。

 三十人ほど集まった参加者は、ドレスやタキシードで着飾っていて会場を華やかにしている。私も、昨日大慌てで用意された黄色を基調としたドレスを着ているけれど、なんだか場違いな場所に来てしまったような気がしていたたまれない気持ちになる。身分としてはこのアインホルン家の末娘なのだけれど、学校の最下層にいるいじめられっ子だった記憶を所持しているからこそ、気後れしてしまう。

 テーブルに並べられたお菓子や紅茶に手を伸ばすことなんてできなくて、つばの長いハットで目元を隠しつつ、垣根の合間に植えられた庭木の下でじっとしていることしかできない。年の近いお姉様さえもお茶会慣れしていて、他のご令嬢たちと仲が良さそうに話をしている。ろくに外に出なかった私は話し相手すらいない。

「アリーセお嬢様、いつまでそこにいるおつもりですか?」

「……お茶会が終わるまでは」

 一応ハーロルトさんは側にいてくれるけれど、自分の執事とばかり話をしているお嬢様というのもいかがなものなのだろう。

 お茶会は夕方までを予定しているけれど、太陽はまだ真上にあって、日が暮れる気配なんて全くない。

「それでは、何かお菓子を取ってきましょうか。お嬢様は確か……」

「あらぁ? 見慣れない顔がいると思ったら引きこもり疑惑のあるアリーセ・アインホルンお嬢様じゃない」

 ハーロルトさんが気を利かせて提案をしてくれていると、それを遮るように高慢な声が響いた。

 私の目の前に立つ、真っ赤な花飾りをあしらった白いドレスの美人さん。彼女は確か……

「アリーセお嬢様、この方は?」

「フライシャー家のご令嬢、ディアナ・フライシャー様です」

 小声で聞いてくるハーロルトさんに小声で答える。フライシャー家はアインホルン家と並ぶ名家。ディアナ様は私と同い年で、二年前まではそれなりに交流があった。

 相手はどこか私を敵対視してくるような節があったけれど、私の方は大して気にしていなかったと思う、前世の記憶が、なかったから。

 記憶を取り戻した今は……こういう人が怖くて仕方がない。自分に自信があって、その代わりに他人を見下して、隙があれば蹴落とそうとしてくる。そういう人が、私は一番苦手。

「失礼ですが、アリーセお嬢様はここのところ病気がちでお外に出られなかっただけです。引きこもりなどでは……」

「いいのよ、嘘を吐かなくても。だってこちらには証人がいるんですもの」

「……え」

 ディアナ様が振り返ると、そこには燕尾服を着た長身の男性が立っていた。その人は……見覚えのある顔をしている。

「エトガーさん……」

 彼はエトガー・ゲッフェルトさん。私に愛想を尽かして辞めていった元執事さんだ。何故ディアナ様と一緒にいるのだろう。

「こんにちは、アリーセ・アインホルン様。ディアナ・フライシャーお嬢様の執事を務めます、エトガー・ゲッフェルトと申します」

 エトガーさんはどこか他人行儀な冷ややかな視線を私に向けてくる。一緒にいる期間はそれなりに長かったはずなのに、まるで初めて会ったかのような対応には少し傷つく。エトガーさんがまさかディアナ様の執事になっているとは思わなかった。

 彼なら、私が引きこもりだということをよく知っている。もしかしたら王家に私が引きこもりだという噂が流れたのも、彼のせいかもしれない。味方だと思っていた人に裏切られる寂しさはよく知っている。知っているけれど……何度経験しても辛いことだった。

「彼から全て聞いたわ。あなたが一切外に出ようとしない引きこもりだということをね」

「ディアナ様、あまり大きな声で言ってしまうのは少々酷かと」

「あら、そうかしら。嘘を言っている訳ではないのに何故コソコソとしなければならないの? それにしても意外だわ。もっとぶくぶくに太っているかと思いきやそうでもないし……むしろ細すぎるくらい。ふふ、お外に一切出ていないなんて嘘みたい」

 エトガーさんがやんわりと止めるも、ディアナ様は声のトーンを落とさない。やがて周囲にいた人たちが私たちの方に目を向け始める。まずい、このままではアインホルン家の汚点がバレてしまう。でも、私が引きこもりなのは紛れもない事実だし、どう挽回すればいいのだろう。自分達とは違う、奇怪なものを見る目。憐れむような、蔑むような目。いろんな目が脳裏に焼き付いて離れない。これは前世の記憶? それとも今起きていること? 分からない。分からなくて……眩暈がする。


「ええ……嘘みたいでしょう」

 何も言葉を返せないでいると、私の真横にいたハーロルトさんが一歩前に出た。

「ハーロルトさん?」

 いつものハーロルトさんとは違う、凛と引き締まった表情。一体、何を言うつもりなのだろう。

「確かにアリーセお嬢様はこの二年間お外に出られませんでしたが、そのことになんの問題がございますか? 日に当たらなかったことにより透き通るように白くなった肌は明るい色のドレスがよく似合いますし、外に出られなかった間も手入れを怠らなかったおかげで、ブロンドの髪は輝くような美しさを保っています。学園に通わずとも自主的に勉強をして知識を身につけ、毎日三時間は読書のお時間として使っていました。アリーセお嬢様は執事である私にも敬語で接してくるくらいに優しく、繊細で、品のあるお方。何も知らない他者から馬鹿にされるような筋合いはございません」

 いつもの人懐っこい彼はどこへやら、背筋をピンと伸ばして朗々と言ってのけるハーロルトさん。皆がハーロルトさんの言葉に聞きいる中で、私も呆然と彼の言葉を聞いていた。

「帰りましょうか、アリーセお嬢様。ここでは居心地もあまりよくないでしょう」

「で、でも……」

 どれだけ綺麗な言葉を並べても、私が引きこもりだという事実が知れ渡ってしまったことには変わりない。お父様の姿を探すと、国王の隣に立って険しい視線をこちらに向けている。

 何か言わなければならないと思った。もしかしたら無視をされるかもしれない。心無い言葉を言われるかもしれない。それでも黙っているだけでは……唇をぎゅっと噛み締めて耐えているだけでは何も変われない。私は、目元を覆っていたハットを外し、ハーロルトさんに預けた。それから、胸に手を置いて深呼吸をする。

「ある時……夢を見たんです」

 声が震えないようにぎゅっと手に力を入れて、周囲を見渡す。正直、目を開けているだけでも辛い。でも、なんとかこの場を切り抜けなければいけない。

「私は一平民……いえ、平民よりももっと低い身分の人間で、周囲から蔑まれ、馬鹿にされ、無視をされ……散々な扱いを受けていた。頼る人もいなくて、惨めで、孤独で……そんな夢を見て以来私は人が怖くなって、外に出られなくなりました」

 本当は夢ではなくて、もっとリアルな「記憶」。でも、今は夢と例えるのが精一杯だ。

 周囲の沈黙が怖くて俯きそうになるのを堪え、無理矢理口角を上げる。昨日鏡の前で必死に練習した社交的な笑顔。ちゃんと、様になっているだろうか。

「でも、それも今日でおしまいにします。二年間公の場を離れた私ですが……どうぞ皆様また仲良くしていただけると嬉しいです」

 ドレスの裾を持ち上げ、頭の中で描いた完璧な淑女を模倣して深々とお辞儀をする。すると、どこからか小さな拍手が聞こえた。

 その拍手はたちまち周囲に伝播して、やがて大きな拍手となる。お父様の方を見れば、どこかほっとした表情でこちらを見ていた。事情を説明しただけだけれど、なんとかうまく切り抜けられたみたいだ。ずっと力を入れていた両手は震えているし、喉もカラカラ。ふとハーロルトさんの方を見れば、見たことのないような優しい視線をこちらに向けていてドキリとした。

 今日はハーロルトさんの知らない面を見てばかりな気がする。



3.

 お茶会が終わり部屋に戻ると、どっと押し寄せてきた疲れに抗えずベッドに座り込む。窓からは西日が差し込んできており、白を基調とした私の部屋をオレンジ色に染める。

「何かお飲み物をお持ちしてますね」

 そう言って部屋を出たハーロルトさんを見送って部屋着のワンピースに着替えると、そのままベッドに倒れ込んだ。

 よく考えたらこんなに長時間立ちっぱなしだったのも久しぶりで、足が棒のようになっている。外に出るってこんなにも疲れることだったっけ。

 ふかふかなベッドの触り心地を堪能しつつ、少しうとうととしていると、扉の向こうからハーロルトさんの声が聞こえ、慌てて姿勢を正す。

「失礼します」

 入ってきたハーロルトさんの手にはお盆があり、ティーセットとレアチーズケーキが乗せられていた。

「そのケーキは……」

「お茶会の余りです。アリーセお嬢様は結局一度もお菓子に手をつけられませんでしたし、疲れた時には甘いものが一番です。それに……チーズケーキ、お好きですよね?」

「え……何故ご存じなんですか?」

 引きこもるようになってから、甘いものは控えてきた。動かないのに食べてばかりいては太ってしまうからと、ずっと断ってきたのだ。なのに、何故ハーロルトさんが知っているのだろう。チーズケーキは前世の頃からの好物で、それを食べている時だけは、いつも嫌なことを忘れることができた。こんがりと焼いたベイクドチーズケーキも、とろけるような甘さのレアチーズケーキも、どちらも好き。だからといってチーズ単体が好きかと言われるとそうでもなく、あくまでもチーズを使ったお菓子が好きだった。

「なんとなく、ですよ。今紅茶をお淹れしますね」

 ティーポットからカップに注がれる紅茶を眺めながら、ハーロルトさんは勘がいいのだなあと疲れた頭で考えていると、

「そういえばアリーセお嬢様は……前世って信じます?」

 と、唐突に聞き覚えのある単語が聞こえ、心臓が飛び跳ねるような感じがした。

「え……」

 どうしてハーロルトさんの口から「前世」なんて単語が飛び出すのだろう。それは私だけの秘密のはずなのに。

「頭がおかしい奴って思われるかもしれないんですけど、僕には前世の記憶というものがあるんです」

「……ハーロルトさんにも?」

「にも、ということは、やっぱりお嬢様にもあるんですね。前世の記憶」

 なんだか墓穴を掘ってしまったような気がするけれど、それよりもハーロルトさんにどんな記憶があるのかが気になる。それに……何故こんなタイミングでその話をしだしたのかも。

「そこでの僕はごく普通の……いえ、かなり非力な一般人でした。自分のクラスに酷いいじめを受けている女の子がいるのに見ていることしかできず……結局、その子は投身自殺をしてしまった」

 どこかで聞いたことのあるような話だ。でも、まさかそんなことは……

「彼女はいつも俯きがちで暗い目をしていたけれど、食事をする時だけはそうではなかった。とりわけ調理実習……授業の一環でチーズケーキを作った時にはキラキラと輝く顔でそれを食べていた。僕は今でもその笑顔が忘れられないんです」

「ハーロルトさん、それは……」

「思わずそのことを口にすると、何故か悲しそうな顔で謝られて……笑顔は見れなくなってしまいましたが」

 調理実習、チーズケーキ、それから……声をかけてきた彼。

 カチリと、何かが噛み合うような音がした気がした。

「今度こそ僕はその子を守りたい……笑顔になってもらいたい、そう思っているんです。ね、アリーセお嬢様」

 ああ……前世の私は、ずっと孤独だと思っていた。誰にも理解されず孤独のまま生涯を終えたのだとばかり思っていた。

 でも、もしかしたら違っていたかもしれない。


『ねえ君、随分美味しそうに食べるんだね』


 そう声をかけたその人は私をからかうつもりはなくて……もっと別のことを伝えたかったのかもしれない。

 それなのに私は深く考えず、あの場を何事も起こさず乗り切ることだけを考えていた。顔を上げたら、何かが変わっていたかもしれないのに。

「あの、どうして私だと分かったんですか……?」

 私は前世と容姿が全然違う。癖のある黒髪は綺麗なブロンドの髪に変わったし、陰鬱な垂れ目は少し釣り上がった大きな瞳に変わった。声色だって違う。それなのにどうしてハーロルトさんは、そんな断的的な口調で言えたのだろう。

「寝言です」

「え?」

「アリーセお嬢様はよく勉強の合間にうたた寝をしては魘されているじゃないですか。その時の寝言で僕もよく知っている人たちの名前を上げているので、それで確信しました。確信した時には運命かと思いましたよ」

 魘されている自覚はあったけれど、まさか寝言を言っているとは思っていなかった。なんだか恥ずかしい。

「それに、容姿は変わっても根本的な中身の部分は変わりません。繊細で、謙虚で、自己主張が苦手で……心無いことを言われても言い返しはしない優しい心の持ち主。それがあなたです」

 私は、あまり人から褒められたことがない。むしろ貶されることの方が多くて、自己評価なんて地に落ちていた。

 だから改めて他者から長所を口にされると恥ずかしくて仕方がない。でも、心の奥がむずむずして、嬉しいのもまた事実で。

「さて、夕食まではまだ時間がありますし、一服したら書庫に行きましょうか。もう、お外に出られますよね?」

「……はい」

 お茶会に参加したくらいなのだから、書庫に行くのはどうということはない。誰かと出会う可能性の少ないたった五十メートルくらい平気で乗り越えられるかもしれない。

 ただ……一人で行くのはまだ怖い。

「その、ハーロルトさんが一緒なら大丈夫です」

「お嬢様……ええ、是非一緒に行きましょう」

 ハーロルトさんが満面の笑みを浮かべる。先ほどの凛と立っていたハーロルトさんもかっこよかったけど、やっぱりこっちのハーロルトさんの方がなんだか安心するな。


 転生して第二の生を受けたところでいいことなんて何もないと諦めていたけれど、世界は案外捨てたものではないかもしれない。

 だから、もう少しだけ頑張ってみよう。

 引きこもってばかりではきっと、世界を彩る大事なものを見落としてしまう気がするから。

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