69.天の光はすべて星
「………………」
「チ、チーちゃん。ごめんってばぁ。そんなに怒らないでよぉ」
湯船でむくれた顔をして、そっぽを向く俺――
流石に趣味の悪い遊びをしている自覚はあったようで、こちらが怒っている態度を明確にすると、レイは大慌てで此方に謝罪をしてきた。
普段は余裕綽々な態度を崩さない従姉弟が、困り顔で縋り付いてくるのは中々興奮――間違えた。中々貴重な経験である。
その姿に溜飲が下がった俺は、ガリガリと頭を掻くと溜息を一つ吐いた。
「……はぁ、わーったよ。許してやっから、もう気にすんな」
俺の言葉に、レイは露骨に表情をぱぁっと明るくする。
……まあ、正直そんなに怒っていなかったし、むしろ良い思いをしているのは俺の方だったのだが、それを素直に表に出すのは、男としての自尊心が許さなかった。あと、あんまり甘い態度をとっていると、レイはどこまでもエスカレートしてきそうだし。
「ってか、実際のところ何しに来たんだよ。お前」
「ん? それはもちろん、チーちゃんのお背中でも流そうかなーって」
レイの言葉に、俺は深いため息を吐く。
「お前なぁ……さっきまで俺が何にヘソ曲げてたのか、もう忘れたのか? 男をからかって遊ぶのも大概に……」
「そ、そういうのじゃ無いってば!」
レイが俺の言葉に慌てて首を横に振ると、彼女の手がそっと俺の右肩に触れた。
「――つッ」
微かに痺れるような痛みに、俺は小さく呻き声を漏らす。
その声を聞いたレイが、眉根を寄せて心配そうな表情を作った。
「やっぱり。お昼の時だよね? 少し捻っちゃったのかな……」
「別に大したことねぇって。明日には治ってるよ」
「……ごめんなさい。
「いや、それは……」
……その悲しそうな顔を見て、咄嗟に上手い言い訳が出来なかった俺は、自分の口下手を呪った。
昼頃、レイと二人でキャンプエリアを散策していた時の事である。
木の根にでも足を取られたのか、転びそうになったレイを咄嗟に支えた時に、俺は本当にほんの少しだけ、腕の筋を痛めてしまったようなのだ。
普通にしている分には何の問題も無いし、こんなことで家族やレイに余計な心配をかけたくなかった俺は、何ともないフリをして黙っていたのだが……
「お前、よく気づいたな」
「分かるよ。チーちゃんの事だもん」
「……あっそ」
当たり前のように告げる彼女に、俺は胸が締め付けられるような心地になる。
彼女が、そんな些細な事にも気づく程に自分を見てくれていた事実に、筋の痛みなどよりも余程、胸が甘い痛みを告げていた。
「……あー、心配させたのは悪かったけど、マジで大したことないから。レイが気にする必要は無いよ」
これは本心である。
レイが大げさなだけで、この程度の怪我とも言えない負傷なんて、体育や部活をやっていれば日常茶飯事の事だ。しかし、レイは俺のそんな言葉に納得しなかった。
「気にするよぉ。私ね、チーちゃんが思ってるよりも、ずーっとチーちゃんの事が大事で……好きなんだからね?」
「すっ……! お、お前、本当にさぁ……」
親愛以上の意味は無いと分かっていても、ストレートに好意を告げてくるレイに、俺は顔の火照りを誤魔化そうとそっぽを向く。
「――とにかく」
そう言うと、レイは湯船から上がって、洗い場まで歩いていく。
シャワーと鏡が設置されたスペースに座り込むと、彼女はチョイチョイと此方に手招きをした。
「今日のチーちゃんに、これ以上無理はさせられません。その腕じゃ、身体洗うの大変でしょ? 私が洗ってあげるから、こっちおいで?」
「い、いやいやっ! だから本当に大丈夫だって! ガキじゃねぇんだから一人で――」
「……だめ?」
……悲しそうに上目遣いで首を傾げるレイに、俺はそれ以上何も言えなかった。
「……お願いします」
「うん!まっかせて!」
洗い場の椅子に座った俺の後ろで、レイが喜色満面にボディタオルを泡立て始めた。
水着姿の好いている女に身体を洗ってあげると言われて、首を横に触れる奴だけが俺に石を投げろ。
***
チーちゃんで遊ぶの
ワシャワシャと彼の頭をシャンプーで泡立てながら、私の剥き出しの歯が月明りを浴びてギラリと輝いた。
こんばんは、
毎年恒例、夏の味覚ことチーちゃんのグチャグチャに乱れた情緒を、うめぇうめぇウマ過ぎるンゴと味わっている所である。
「かゆい所はありませんかー?」
「へ、へーき……」
「前から思ってたけど、チーちゃんって髪サラサラだよね。うらやましー」
「別にそんなことないだろ。俺なんかよりも、レイの髪の方が、その、キレイだと思う……」
「私はこれでも色々とお手入れしてますから。チーちゃんは別にそういうのしてないんでしょ? いいなー」
雑談を交えながら、さり気なくボディタッチする度に、チーちゃんの身体がビクッと僅かに震える。
その打てば響く純情男子っぷりに、私は顔がヒソカみたいにならないように、懸命に表情筋を制御する。
「はい、頭流すから目つぶって下向いてー」
「俺は幼児か。過保護だっての」
「ふふ、さっきも言ったでしょ? 私はチーちゃんの事をとーっても大事に思ってるの」
これは嘘偽りの無い本心である。私はチーちゃんの事を心底大事に思っているのだ。
それはつまり、余計な情報を与えないという事である。言うなればキッズフィルターみたいなものだ。私がチーちゃんを脳破壊要員のおやつとして見ていることなど、彼が知る必要は無いのである。なんて思いやりに溢れているのだ。私。
「はい、次は身体洗うから、こっち向いてー」
「ば、ばかっ! 前は自分でやるからいいって言ってんだろ!」
しかし、チーちゃんは本当に技術点高いなあ。
血縁として幼少期から積み上げてきたエピソードの数々に、適度な馴れ馴れしさと初々しさ。私に対する隠しきれない好意と、それを素直に告げられないツンデレ具合。斬拳走鬼の全てにおいてそつが無いオールラウンダーNTR要員である。
だが、それでも私はチーちゃんを間男枠に加えるつもりは無い。
彼をチャートに組み込むのが難しいというのは勿論だが、これまで散々おやつ枠として彼を扱ってきたのに、急に『気が変わったので、やっぱり間男枠に組み込みます』なんていうのは、あまりにも誠意に欠けている。たとえ、チーちゃん本人が預かり知らぬ事だったとしてもだ。
つまりは一貫性の問題なのである。その時その時の思いつきで、主義主張をコロコロと変える奴はかっこ悪い。
まっすぐ自分の言葉は曲げねェ。それが私の忍道なのだ。
「……なあ、レイ」
「なぁに、チーちゃん?」
泡立てたタオルでチーちゃんの背中を拭いながら、私は彼の言葉に耳を傾ける。
「お前、やっぱり進学は地元の高校に行くのか?」
「ん、一応そのつもりだよ。御影学園って所に行くつもりなんだけど、知ってる?」
「あー……バリバリの進学校だったっけ。すげえ所行くんだな」
「あはは、そこまで言う程でも無いよ。言い方は悪いけど、全体で見たら中の上ぐらいだもん。自分の学力と相談したら、そこかなって」
「ふーん……御影、か……」
まあ、それでも学区が離れているチーちゃんが知っているぐらいには有名校ではあるが。
ユウくんやユリちゃん達でも本腰を入れて勉強すれば、十分狙えるラインがそこだったのだ。中学校生活も折り返し地点である。そろそろ本格的に彼らの学力サポートに向けて動き出さないとな。
……ん? というか、この話の流れって……
「でも、急にどうしたの? チーちゃんはまだ一年だし、進路について考えるのは早すぎるんじゃ――」
「……決めた。俺も御影に行く」
「…………え???」
おっほーー!! マジかよこいつ!!
「ど、どうしたのチーちゃん? そんな急に……」
「別に急じゃねえよ。前々から考えてたんだ。……俺も、その、レイの近くに――い、いやっ、都会の方に進学したいってな。将来のこと考えたら、そっちの方が色々と選択肢が広がるだろ?」
「そ、そう、なんだ……」
私は口角が吊り上がり過ぎて、うしとらの白面みたいになるのを必死に抑え込んだ。
これは完全に誤算だった。嬉しい方の、であるが。
チーちゃんが私にどれだけ好意を抱いていたとしても、所詮は中学1年生のお子様である。地元を離れるような決断は出来ないだろうと高を括っていたのだが、ここに来てまさかの男気を見せてくるとは。たまんねェぜ!!
……勿論、彼の選択が順風満帆に行くとは限らない。
親元を離れることを、両親に説得しなければいけないし、そもそも受験が上手く行くとも限らない。
先程はああ言ったが、それでも御影学園は難関校の部類だ。チーちゃんの努力が足りなければ、普通に落ちる可能性も十分に有るだろう。
……だが、それでも、だ。
確保を諦めかけていた年下間男枠に、チーちゃんという超強力なカードを確保出来るというならば、賭けに出る理由としては十分過ぎる!!
「チーちゃん……」
私は掠れる声で呟きながら、後ろからチーちゃんを抱きしめた。
「は……!? な、ななな、レ、レイ!?」
「……私、待ってるから。絶対、絶対に来てね?」
ボソリ、と彼の耳元で囁く。
「
「…………ッ!?」
という訳でチャート変更である。
年下間男枠として、チーちゃんを採用する方向で動くことを私は決定した。
一貫性など思考停止の言い訳だ。大事なのは臨機応変な柔軟性なのである。
「レイ、お前……覚えて――わぷっ!?」
チーちゃんの言葉を最後まで聞かずに、私は彼の頭にお湯を流し掛けた。
「はいっ、おしまい! 湯冷めしちゃうから、私は先に上がってるね?」
「けほっ! お、おい! 待てよ、レイっ!」
「待ちませーん。チーちゃんは、ちゃんと身体拭いてから上がるんだよー」
これ以上はニッチャリ歪んでいる顔面を隠しきれないと判断した私は、照れ隠しをするようにサッサと浴場を後にする。
空に輝く満天の星空が、私の剥き出しになった歯を眩く輝かせる。
それはまるで光溢れる私の前途を、星々が祝福しているかのような美しい光景だった。
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