第133話 織田信長・3


 ――どこかの城であろうか。


 御殿の寝所らしき場所に信長はいた。どことなく見覚えはあるのだが、どこであるのかは分からない。あるいは幼少の頃に来たことがあるのかもしれないが……。


 そんな寝所で眠っているのは、まだ年若い男性。息の荒さから病気であろうと察せられる。


 父・信秀によく似ていた。

 しかし、どこか違う。

 もちろん信長は信秀の若い頃の姿を知らないが、それでも、何かが違うと確信を抱くことができた。


 この男は、もしや――



「――兄上」



 寝所に別の男が入ってくる。

 年の頃は二十代の前半くらいか。こちらもまた、信秀によく似た男だが、どことなく病床の男よりは穏やかそうな雰囲気が漂っている。


 …………。



 ――勘十郎?



 弟だと。織田勘十郎信勝だと。信長はどうしてか確信を抱くことができた。信長の知る『勘十郎』とは年齢も十歳は違うというのに。勘十郎は、こんなにも大人ではないというのに。


 間違いなく勘十郎であるとの確信。


 であるならば、勘十郎が見舞いに来た、病床のこの男は……。

 勘十郎から『兄上』と呼ばれる、この男は……。


「……来てくれたか。勘十郎」


「まだ、勘十郎と呼んでいただけますか」


「儂にとってはいつまでも勘十郎よ。大切な、大切な弟である」


「兄上……」


 勘十郎と呼ばれた男はゆっくりと病床に近づき――



 ――背後の襖が開け放たれた。



 入ってきたのは信長にも見覚えのある人物だ。父信秀に仕える河尻と青貝。だが、信長の記憶にあるより幾分か年を取っているような……。


 河尻と青貝はすでに抜刀していた。“主”の寝所であるにもかかわらず躊躇いなく踏み入ってくる。


「おぬしら! 何のつもりだ!?」


 勘十郎が河尻らに身体を向け、腰元の短刀に手を伸ばす。


 そんな勘十郎の無防備な背中に、布団に隠されていた刃が突き立てられた。


「ぐっ! あ、あにうえ……?」


 病床にあるはずの兄から、背中を刺された。ここでやっと勘十郎はすべてを理解する。


 騙された。

 謀られた。


 怒りに身を震わす勘十郎が短刀を握りしめ、せめて一太刀と兄に向かい合う。

 だが、勘十郎がその短刀を振るうことはなかった。


 返り血を浴びた兄の、その表情を見てしまったが故に。



「…………。……あもう、ございますな……兄上」



 勘十郎が力なく膝を突き、這いずるようにして兄に近づいていく。ゆっくりと、されども確固たる意志をもって。


 青貝が首を刎ねようとするが、河尻が押しとどめる。もはや勘十郎は短刀を取り落としており、たとえ手にしていても、人を殺せるほどの力は残されていなかったから。


こんなこと・・・・・、家臣に任せれば良いのです。某が稲生での戦を柴田らに任せたように。相手の恨み言を直接受け止める……そんなこと、せずともよいのです」


「…………」


「兄上は、甘うございます」


 拳を床に付き、最後の意地を振り絞って勘十郎は僅かに頭を下げる。



「――お勝ちくだされ」



 息も絶え絶えに。もはや瞳の焦点すら合わぬまま。勘十郎は呪いをかける・・・・・・。この甘い兄が逃げ出さないように。途中で諦めてしまわぬように。


「お勝ちくだされ。拙者が負けた兄上は強かったのだと。――織田信長・・・・は強かったのだと。後世に広く伝わるくらい、勝ってくだされ」


 織田信長。

 そう呼ばれた男が手を伸ばす。実の弟に向けて。自分が致命傷を負わせた男に向けて。


 しかし、その手が弟に届くことはない。


 息絶えた勘十郎の身体が、信長の手から逃れるようにして倒れてしまったために。


 …………。


 信長は勘十郎の手にしていた短刀を拾い、その短刀を、勘十郎の胸に突き刺した。覚悟を決めるように。自らの逃げ道をふさぐように。



≪血の繋がった弟すら殺すか。とんでもない鬼畜よのぉ≫



 いつの間にか現れた白龍が、信長の身体に巻き付くようにとぐろを巻く。少し力を加えるだけで信長を絞め殺せる状況にあって、玉龍が信長の顔を覗き込む。



≪貴様など、ここで命を絶った方がいいのではないか? そうすれば坊主たちも殺されずにすむであろう。あの民たちも死なずにすんだだろう。――弟も、生き長らえることができるだろう≫



 嘲るような声をぶつけてくる玉龍に対して。怒るでも、恐れるでもなく、信長はただ一言を返した。



「――是非に及ばず」



 信長とて命は惜しいし、無駄に散らすつもりはない。


 だが。玉龍の機嫌一つで絞め殺されかねない状況において。なおも信長に恐怖はなかった。


 なぜなら、彼は確信・・しているから。


 自分より遙かに強大な竜を前にして。信長は恐れることなく真っ直ぐと玉龍の目を見た。


「……竜神様は、不器用・・・であられるな」


 この状況でかぶいてみせた信長に、玉龍は怒りを通り越して笑ってしまう。



≪ほぉ。我はそれなりに長く生きておるが、『不器用』と言われたのは初めてとなるな。――問おう。矮小なる人の身で、この我を不器用と評してみせた理由わけを≫



「……竜神様ほどの力があれば、わしを殺して終わりにすることもできたはず。ですが、竜神様はわしの辿るであろう“道”を見せ、わしに“道”を選ばせようとしてくだされた。何とも優しく、何とも不器用な御方でありまするな」


 確信を抱いて信長は口を動かした。そんな『不器用な優しさ・・・』を持った人間をすぐ近くで見てきたからこそ。



 あの女・・・は、後先考えず放火しちゃダメだと注意してきた。

 おそらくは、先ほど信長が見た焼き討ちと、坊主共の討伐を知っていたからこそ。



 あの女は、投降してきた敵を火縄銃で皆殺しにするのもいけないと警告してきた。

 おそらくは、先ほど見た城攻めの際の虐殺を知っていたからこそ。



 あの女は、いくら戦国時代とはいえ弟と争ってはいけないと説教してきた。

 おそらくは、織田信長・・・・の未来を知っていたからこそ。



 もっと詳しく説明すればいいのに。

 いっそ、そんな『未来』など変えてしまえばいいのに。あの女であればそれすら容易いはずだ。


 にも関わらず細かな説明をせず、遠回りなのだか直接的なのだかいまいち判断に困る物言いをして、あくまで信長自身の意志で未来を変えさせようとした帰蝶あの女は……どうしようもなく不器用で、どうしようもなく優しいのだろう。


 そして、目の前の玉龍も、また。



≪…………≫



 不器用という評価が不服なのか、あるいは思い当たる節があるのか、悩ましげに額へ手をやる玉龍であった。



≪……見誤っておったわ≫



 深々と玉龍がため息をつく。



≪おぬしなど『運命さだめの破壊者』の添え物。この国を変える力はあるが、しょせん道半ばで力尽きる存在。あの女をこの世界・・・・につなぎ止めるための都合のいい『くびき』でしかないと思っていたが……≫



 軛とは、牛を牛車やすきに繋ぐための器具のこと。何とも雑な道具扱いである。


 あまりにもあまりな物言いに信長が文句の一つでもつけようとするが、すんでの所で我慢した。帰蝶と出会ったことによって信長も空気を読めるようになったのだ。……押しに弱くなっただけとも言う。


 そんな彼の様子を見て玉龍が息を吐く。



徒人ただびと(凡人)にあの女の『夫』が務まるはずもなし、か。類は友を呼ぶ。同気相求。蓑の傍へ笠が寄る。類同じければ相招き、気同じければ則ち合い、声比すれば則ち応ず。割れ鍋に綴じ蓋……≫



 うんうんと訳知り顔で頷く玉龍であった。さすがの信長も帰蝶と同類扱いは抗議せねばなるまい。


 信長が声を上げる直前、玉龍が信長の顔を覗き込んできた。



≪それはともかくとして、だ。――おぬしは、いかにするのだ?≫



「いかにする、とは?」



≪我の不器用さは置いておくとして。このまま進めばおぬしはあの道・・・を進むことになろう。今ならまだ間に合うぞ? もはや命を絶てとまでは言わぬが……織田家など捨てて、僧にでもなれ。さすればこれからは誰一人殺さずに済むだろう≫



「…………」


 信長に竜の表情変化など分かるはずもないが、それでも、玉龍が何かを期待するような顔をしているのは分かった。どことなく、帰蝶に似ていたから。


(帰蝶の同類であるか……)


 帰蝶と同じ系統タイプが増えた。その事実を前にして信長はついつい遠い目をしてしまう。


 しかし尋ねられたからには答えなければなるまい。人としての礼儀であるし、そもそも人よりも高貴なる竜が相手なのだ。先ほどのような無礼が二度三度と許されるとは限らない。


「……竜神様。わしはもう決めたのです。惣無事令を発し、この国から無用な争いをなくしてみせると」



≪そんなこと、できるとでも?≫



「何度でも交渉しましょう。何度でも相手の言い分を聞きましょう。何度も提案し、話し合い、それでもダメならば――天下に武をくまで」



≪……平和を乱すならば、僧侶すら斬って捨てると? 城に篭もる一揆勢の虐殺も厭わぬと? ――実の弟すら、殺してみせると?≫



「……それが必要であるならば、是非もありませぬ」



≪いずれは戦乱の世も終わりを迎えよう。おぬしが動かずとも、いずれは『英傑』が現れ日の本を統一するであろう。……おぬしでなくとも、いいのではないか?≫



「わしは、一刻も早く乱を治めたいのです。民が戦に怯えることなく平和に暮らし、盗賊に襲われることもなく移動することができて……天気のいい日に畑の横でのんびりと昼寝をすることができる。そんな国を、作りたいのです」



≪…………≫



 迷いなく断言してみせた信長を見て、玉龍は静かに目を閉じた。その口元はどことなく緩んでいるように見えて……。どうやら期待通りの答えを得られたらしい。



≪――――、――見事≫



 玉龍の身体が光に包まれる。人工的な発光体などない時代に生まれた信長にとってその光はあまりに眩く、強く目を閉じて――、再び開けたとき、もうそこには『竜神』の姿はなかった。


 代わりにいたのは――、まだ年若い女性。


 おそらくは信長と同い年程度。突如として現れたその少女の美貌に信長は思わず感嘆してしまう。


 若い女性には珍しい白髪は白山に積もる雪のようであり、ただただ美しい。

 帰蝶とよく似た髪色だが、やはり違う。帰蝶の髪色はもはやこの世のものとは思えないほど綺麗で、その滑らかさは唐糸よりなお優れ、その香しさはきっと音に聞く蘭奢待を超えているのだから。


 目は僅かにつり上がり、意志の強さを伝えてくるかのよう。帰蝶もときどき眼光鋭いときもあるが、それだけではない。彼女の場合は何だかんだで甘いところがあり、その性根を表現するように垂れ目がちであり、そんなところも可愛らしいのだが。


 肌は日本人離れした白さであり、帰蝶に匹敵するほど。しかし触れがたさのある目の前の女性よりも、望みさえすればいくらでも触れさせてくれる帰蝶の方がいいだろう。絵に描いた餅よりも手に届く餅だ。いや帰蝶を餅に例えるなど失礼か。帰蝶の肌は――



≪…………、……色惚けも大概にせんか。そろそろ殴るぞ?≫



 疾風怒濤の惚気を聞かされた少女――人の身に変身した玉龍は怒りを通り越して呆れてしまうのだった。


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