第131話 織田信長・1


 ――疾風のような馬だった。


 信長とて武家の人間だ。日々たゆまぬ鍛錬をしていたし、当然乗馬にも励んでいた。野を駆け、山を駆け、夏場などは馬に乗ったまま川を渡る訓練もしてきた。父の有する駿馬を乗りこなし、『馬』というものをそれなりに理解したつもりでいた。


 そんな信長が、容赦なく振り落とされそうな加速。手綱で操る余裕などないし、きっと操ろうとしてもこの馬は言うことなど聞かないだろうと確信することが出来た。


 見た目だけでも他を圧倒する馬力があることは察せられたが、実際に乗ってみると笑えるほどの力だ。もはや『馬』であるとは信じられないほど。


(こんな馬に素手で勝ったのか、あやつは……)


 感心するべきか呆れるべきか。信長がついつい頬を緩めていると、馬が急に立ち止まり、信長は勢いに任せて地面に放り出されてしまった。


 普通の人間であれば大ケガ間違いなし。だが、日々鍛えている信長は大地を転がりつつ落下の衝撃を殺してみせた。



≪――ほぅ、やるではないか≫



 脳内に直接響いてくるかのような声。周りには誰もおらず、目の前にはこちらをじっと見つめてくる白馬。信長が訝しみつつ周囲を見渡すと――


 ――不意に、視界がブレた・・・


 風景が変わる。見慣れた尾張の原野から、ドロドロとした薄暗闇へ。


 白馬がいななく。馬とは思えぬ大声量で。天から落ちる雷のような激しさで。


 思わず信長が視線を白馬に移すと、白馬が変化へんげした。


 日本馬特有の短い首は留まることなく伸び始め、耳の後ろからは鹿のような角が生えてくる。

 口は耳元まで裂け、隙間からはサメのような鋭い歯が幾本も覗いていた。どことなく馬としての面影を残しつつ、もはや“竜”としか表現できない顔つき……。

 いつの間にか胴体も巨大に太く長く伸び。絵巻の中にしか存在しないはずの“竜”の姿を誇っていた。


 空中でとぐろを巻きながら、なおも視界に入りきらない威容。尾張とは思えない異境。少し前の信長であったならば腰を抜かしていただろう。


 だが。

 良くも悪くも。すでに信長は『帰蝶』に出会っていた。


 女だてらにクマを倒し。即座に大桟橋を作る技を見て。堺から尾張まで一瞬で移動させられた。そんな経験をしてきた信長だからこそ、ひどく冷静に眼前の怪異に対処することができた。


 乱れた着物の襟を正し、正座。そしてそのまま地面に両手を突いた。


「――さぞかし名のある竜神様とお見受けいたす。拙者、織田弾正忠が嫡男、織田三郎信長で御座る。これまでの『馬』としての粗雑な扱い、面目次第も御座らぬ。織田弾正忠家を代表して謝罪させて頂きたく」


 竜神と呼ばれたのが効いたのか玉龍が愉快そうに喉を鳴らす。



≪ほぅ、若いのに立派なことよな。これまでの無礼は不問に付すとしよう。……だが、のぉ≫



 玉龍が信長に鼻先を近づける。――あまりに巨大。生物としての“格”が違いすぎる。牙一本でさえ信長の前腕より長いだろう。



≪さて? これより数万十数万の人間を虐殺する『魔王』を、『神』として見逃すべきであろうか?≫



「数万……十数万……?」


 あまりにも現実味のない発言に信長は下げていた首を上げるが――視線の先には、いるはずの玉龍の姿はなかった。場所すらも変わっていた。


 ――寺。


 信長は寺にいた。深遠なる森に囲まれた、いかにも歴史と権威のありそうな建築物の数々。彼は直接目にしたことはないが、きっと王城鎮守で名高い『比叡山延暦寺』などはこのような偉容を放っているのだろう。


 寺には物々しい雰囲気が漂っていた。経典を抱えた僧侶や武装した僧兵たちが慌ただしく動き回り、本来なら寺院にいるはずもない女たちは避難場所らしき大講堂に押し込まれていく。寺社でありながら、まるでこれから合戦が起こるかのような光景だ。


 そんな寺社の一角が、燃え始めた。

 火事が起こったならすぐにでも火を消さなければならない。それがお堂であれば何よりも優先されるべきである。


 だというのに、坊主や僧兵たちは消火活動をすることなく逃げ出した。恥ずかしげもなく門から山を下っていく。罵詈雑言を吐きながら。転んだ者を踏みつけて。……大講堂の中に女たちを残したまま。


 しかし、彼らが下界の土を踏むことはなかった。山道で待ち構える武士たちによって次々と討ち取られていったからだ。


 武士の背中にある指物(旗)に記された家紋に見覚えはない。だが、山の麓。攻め手・・・の本陣らしき場所に立てられた旗の家紋を目にして、信長は言葉を失った。


 ――織田木瓜紋。


 父信秀が、尾張守護である斯波氏から下賜された家紋。ゆえにこそ、あの紋を使えるのは織田弾正忠家だけ――



「――おのれ信長っ!」



 不意に怒鳴りつけられた信長は思わず首をすくめてしまう。

 だが、それは『信長』に対するものだったが、『信長』に対する・・・ものではなかった・・・・・・・・


 信長のすぐ近くに僧侶が連行されてくる。武士二人に拘束されながらも、僧の顔に恐怖はない。


 これだけ近くにいるのに。僧も、武士も、信長に気づいた様子はない。まるで信長がここにはいない・・・・・・・かのように。


 唾を吐き散らしながら僧侶がまくし立てる。


「ゆめゆめ忘るるな! 王城鎮守たる比叡山を焼き討ちした足利義教も! 細川政元も! 最後は家臣によって殺されたのだ! 信長もいずれ仏罰の炎に焼かれ――」


 僧の言葉が、止まった。

 武士の一人がためらいなく首を刎ねたがゆえに。


 切り口から鮮血が吹き出す。

 その血が、信長の頬に当たった。


 ――生暖かい。


 それだけで、これが『現実』であると理解させられてしまう。


 捕らえられた僧や僧兵たちが次々に首を刎ねられ、女、子供は縄を打たれて麓に降ろされていく。


 そんな中、ついに大講堂へと炎が燃え移った。未だ多くの女たちが詰め込まれているというのに。


 燃え移ったことに気づいていないのか、大講堂の中にいる女たちが逃げ出す様子はない。


「えぇい! なにをしておるか!? さっさと逃げ――」


 信長は考えるより先に駆けだした。大講堂の入り口に繋がる階段を駆け上り、扉を開け放つと――



 ――潮の香りがした。



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