第一章 エピローグ 誰にとっての“運命”か


 帰蝶からクマ料理をごちそうになったあと。あまり長く居城を空けるわけにはいかないので信長は早々に尾張へと帰ることにした。


 帰蝶と別れる直前、


「この子に手紙を持たせれば私の元に持ってきてくれるから。こういうとき、男の子の方から手紙を出すものなのよ?」


 そう言って渡されたのは一羽の小鳥だった。

 帰蝶いわく『使い魔』というものらしい。


 こんな小鳥が手紙を運べるのか、とか。正確に美濃と尾張を行き来できるのか、とか。そもそもいつの間に呼び寄せたのだとかの疑問は尽きなかったが……『帰蝶だものな』と納得する信長であった。


 ……せっかくこれからも交流を続けてくれそうなのだから、余計なことを言って臍を曲げられても困る、という想いもあるにはあった。


 帰蝶が信長のことを気に入ったように、信長も帰蝶のことを気に入ったのだ。


 帰蝶と別れ、隠していた馬に乗り、那古野城への早駆けをする道中。小休止を挟んでいると森可成が声を掛けてきた。


「いやぁ、若様。今日はずいぶん楽しそうだったじゃないですか」


 一応は敬語ではあるが馴れ馴れしさは隠しきれていない可成。だが、信長が今さらそんなことに苦言を呈したりはしない。身分は違うし、年齢も離れているが、それでも二人の間には確かな友情が存在するためだ。


「……で、あるか」


 不機嫌そうな声を上げる信長。

 しかし、それが照れ隠しであることは友人である可成には分かっていた。……可成以外の、大部分の人間には『不機嫌だ』と誤解されてしまうのが難点であるが。


 いつも機嫌が悪く。理解しがたいかぶいた言動をして。何を考えているか分からない。

 それが織田信長という人間だ。


 しかし。

 そんな分かりにくいはずの信長が、帰蝶の前では忌憚なく笑っていた。童子のように目を輝かせていた。あの姿を他の者にも見せれば、信長の『誤解』も溶けていくかもしれない。


 そういった意味でも可成は帰蝶に期待していた。


「普段もあれだけ素直ならこっちもやりやすいんですがねぇ」


 なにせ初対面の女性を口説くような発言をしていたのだ。あの信長が。あの信長が。あの信長が。


 自身の発言が今さら恥ずかしくなったのか信長が不機嫌そうな照れ隠しの声を上げる。


「……ふん。あの女が特殊なだけだ」


「と、いいますと?」


「あの『真法』とやらももちろんだが……山の中を女一人で歩き、見上げるほどの大きさの熊を倒し、しかも解体してしまった。姫のくせに料理まで作って……なんというか、濃すぎる」


「……えぇ、たしかに濃ゆき姫ですね」


「ふん。『で、あるか』で表現しきれる範囲を超えておるわ」


「…………」


 確かにその通りだ。

 けれども、たとえどんな状況であっても『で、あるか』で済ませようとするのが信長という男であったはずだ。


 可成は先ほどの信長と帰蝶のやり取りを思い出す。




『……あなたねぇ。何でもかんでも『で、あるか』で済ませようとするんじゃないわよ。人間なんだからちゃんとした言葉を喋りなさい』


『で――、……わかった。気をつけよう』




 あれほどに素直な信長は初めて見た。傅役である平手政秀がどれだけ注意しても態度を改めることはなかったというのに。


 きっといきなり頬をつねったのが効いたのだろう。織田家の次期当主であると父信秀から扱われ、性格が短気で過激な信長に意見をする者など限られているし、制裁するなどもってのほかだ。


 信長を物理的に叱ることができる存在など父信秀しかいない。そんな信秀も近年は体調が思わしくなく、信長が成長したこともあって拳骨を落とすこともなくなった。


 故にこそ。

 帰蝶とは、おそらく唯一、信長を『叱れる』人間になるだろう。間違ったことを間違っていると指摘し、正道を説くことができるだろう。


 だからこそ可成は期待する。


 帰蝶との交流が続けば、信長はもっと『分かり易い』人物に成長してくれるのではないかと。

 可成自身は信長の才覚に惚れ込んでいるし、一生仕えるつもりだ。が、織田家中の大部分は信長の分かりにくさ(あるいは誤解のされやすさ)によって弟・信勝 を後継者にと考えてしまっている。


 きっと、この現状を変えることができるのは……。


(……帰蝶様。どうぞ、よろしくお願いいたす)


 彼女がいるであろう方角に向け、可成は深く頭を下げた。




 織田信長と、斎藤帰蝶。

 二人の婚約が成立するのは、もう少し先の話である。



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