The Dramatic Lovers

そうざ

ドラマティック・ラヴァーズ

 夜の地下鉄構内。煤けた壁に身を預ける苦悶の男と、傍らに寄り添い続ける女。

 男は、額に浮いた汗を拭いながら息絶え絶えに呟く。

「俺に構わず行ってくれ……」

 女は、顔を歪めながら応える。

「そんな見捨てるような真似は出来ないわっ」

 二人に残された時間は僅かだった。だが、その切迫感が却って二人の絆を堅く結ばせているようだった。

「俺に付き合ってたら、君に迷惑が掛かる」

「気にしないでっ」

「君は何て馬鹿な人なんだ」

 男は抜き差しならないところまで来ていた。

 女は男の身体を支えながら言う。

「まだ間に合う。貴方ならきっと出来るわっ」

「……分かった。ここで祈っていてくれっ」

 女の真剣な眼差しに打たれた男は微かに破顔し、意を決して歩き出した。女は、よろめく男の背中を黙って見送る。

 男は振り返りもせずに呟く。

「もし……もし五分経っても俺が戻らなかったら、その時こそ一人で行ってくれっ」

 頻りに時計と発着案内表示とを見比べる女の心には、焦りと苛立ちが入り混じっていた。

 ――どうしてもっと早く言ってくれなかったの――

 男は、人気ひとけの絶えた薄暗い通路を進む。脂汗が男の気力を奪うように纏わり付く。もう直ぐ一日が終わろうとするその時にこんなわざわいが降り掛かろうとは、朝、目覚めた時には想像すらしなかった。しかし、人生とは総じてそんなものだろう。人は皆、一寸先の事さえ分からないタイトロープを目隠しで渡る道化師なのだ。

 闇の彼方に列車の灯りが現れる。男が戻って来る気配はない。

 ――下らないプライドなんかの為に――

 それが最悪の事態を招いたのは間違いない。それでも男は思う。女の前で虚勢を張れない男に、どんな生きる価値があるというのか。

 男は、冷えた体躯を丸めるようにして項垂れた。脱力する意識のまにまに、羞恥も後悔も流れて行く。

 頭上から轟音が聞こえて来る。最終列車が着いたらしい。


 もう終りだ――で、問題はこの後だ。


 予想通り、駅のトイレは温水洗浄便座どころか洋式でもなかった。やっぱり会計前にレストランのトイレを借りておくんだった。自宅までそんなに距離はないしと高を括ったのが失敗だった。初デートの最中に腹の調子が悪くなったなんて言い辛い。増してや、僕って温水洗浄便座でなければ用を足せない人じゃないですか〜、なんて事は、オラオラ系を気取ったばかりに余計に言えやしない。結局、切羽詰まって最後の最後に打ち明ける羽目になるなんて、もう本当に最低、最悪の何て日だ。


 発車のベルが鳴り響くホームにもう人影はない。

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The Dramatic Lovers そうざ @so-za

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