雨の男は再び武術を追い求める
雨天紅雨
王位継承権の放棄
第1話 彼は武術家である
自意識――と言えば語弊があるかもしれないが、まともに頭が回りだすのは三歳を過ぎた頃からだと、そんな気付きがあった。
あらゆる得物を扱い、あらゆる得物の使い手に勝る、そんな武術に心血を注ぎ、長い刻を生き続けた自分に、まさか続きがあるとは思いもせず、最初は驚いたものだ。
いや。
仮に驚いていたとしても、意図的に目を丸くするくらいで済ますのが、いつもの自分だ。感情の制御なんてものは、もう忘れてしまったくらいの昔、最初期に教わったもので、表現はするけれど心の内に波紋なしと、そう言われるくらいだった。
前世の記憶がある? いや、そうは思わない。
躰が幼くなり、新しい生命だとしても、こうなってしまえばただの地続きだ。今までやってきたことが、これからも続いていく。
――ウンザリだ、と娘なら言いそうだなと、かつての記憶を思い出せば苦笑もする。
まだ三歳だ。
躰を動かすこともままならないなら、頭を動かそう。これからどうすべきか、そしてここはどこなのか。
時間をかけてゆっくりと、答えを出そう。
自分の名は、レーゲンというらしい。いくつかの名前を使って生きていた彼にとって、新しい名に馴染むことはそう苦ではないし、親に名づけられることの意味を知っている以上、大切なものとして受け取った。
兄弟もいない一人息子で、父親は村の警備を仕事にしており、母親は裏庭で小さな畑を作っているが、基本的には家にいた。
裕福な家庭ではないが、金に困るほどでもない。普通の、と言えばこれも表現が正しいのか首を傾げたくなるが、少なくともレーゲンから見て、悪い家庭ではなかったが、両親から見た自分はきっと、普通ではなかっただろう。
五歳になってから、レーゲンは鍛錬を始める。
かつては自分の息子も含め、三人ほど育てたことがあるし、自分も雨天の武術家として育てられた経験から、何をすれば効果的なのかは、よくわかっていた。
無理はしない。
躰ができていないうちは、武器を手に持つことさえ禁じる。走り込みや筋力トレーニングなど、まだ後回し。最初は何よりも自分の躰を把握することであり、それを自在に扱えるようになることだ。
ここから先にある鍛錬に耐えうる基本を積み重ねる時間だ。基礎ではない、基本である。
たとえば、走ること。
走り込みはしないにせよ、走り方は躰に染みつかせた方が良い。では走ることとは何か。
漫然と、足を前に出すことだけ考えているようでは駄目だ。前へ進むためには、足の裏で地面を蹴る必要がある。かといって、上へ蹴っては跳び上がるだけだ。
足を前に出し、かかとをつけ、つま先まで動かしながら地面を蹴る。それを交互にやって人は走る。この時に膝を軽く曲げておくと良いのだが、この軽く、というのは感覚だ。明確な数値ではなく、自身が持つ感覚を磨くのも、基本の内。
何故って、かかとをつけずに地面を蹴ると、動きは変わるし、時にはつま先だけで蹴ることもある。すると躰の反応が変わり、瞬間速度も持続速度も違う。それを扱うための感覚だ。
今は足だけの話だが、実際にはひざ、腰、背中、そこを繋げる骨を捉える。
実際に走らず、ゆっくりとその動作を繰り返すことで己のものとし、感覚を磨く――そんなことをやっていれば、すぐに変人と呼ばれることになった。
それもそうだ。
子供たちの遊びといえば、あちこち走り回って泥だらけになるようなものばかり。そこから外れて一人、そんなことをしていれば、変人に見えよう。
――ただ。
村にいるレーゲンも含めた七人の子供のうち、もう一人、変人がいた。
躰と比較すると大きく見える本を、いつも木陰で広げている少年だ。お互いに面識――というか、会話はしなかったし、干渉はしなかったが、ふと。
その日は、うっすらと雲が広がっているような天気だった。
肌寒さはまだ感じない季節であり、けれど夏場は終わろうという頃合いであったし、温度がどうであれ陽が当たるところでの読書は好ましくない。
ただ、気付いてしまったからには、無視するのもどうかと思ったレーゲンは近づく。
お互いに知っていたが、ここがファーストコンタクト。
それなりに大きな木だったが、レーゲンが足をぴたりと止めたのは、三歩の距離。木陰になっている境界線。何故って、そこで相手が顔を上げてこちらを見たからだ。
やや目つきの悪い――そして。
レーゲンはそれを、知っていた。
だから一度、そこで周囲に視線を投げてから、誰かが近くにいないことを確認し、確認したことを相手に伝えてから日陰に踏み込み、立ったまま木に背中を預ける。
相手が本を閉じ、そのまま立ち上がるより前に。
「――傭兵か」
小さく、短くそれを伝えれば、相手は腰裏に伸ばそうとしていた手を止め、しばし考えるような間を置いてから、肩の力を抜く。
「同郷かね」
「さあな。少なくとも俺とお前は、以前の記憶があるッてことだろ。俺は一種の戦闘狂――武術家ッて言葉で通じるか?」
「本人を見たことはないが、聞いたことはある」
「俺がそれだし、これからもそうだ……が、お前は違うみてェだな」
「傭兵の生き方を否定はせんよ。だが僕は、違う生き方を望んだ」
「地続きだろ、環境が変わっただけだ。それに傭兵が魔術を学んで何が悪い」
「わかるのかね」
「手にしてる本を見ればな。この世界の魔術は、まだまだ遅れてる。特に座学だ、あれこれ理屈を整えるッてことをしねェ。目の前にあるものを使うだけじゃ、魔術師とは言えねェなァ」
「なるほど、詳しいな。確かレーゲンだったかね」
「そうだ。お前はリムリア――ああそうだ、三十分もしねェうちに雨だぜ。それを言いに来たンだ」
「雨?」
「わかるンだよ、こと雨に関してはな」
「そうか、なら撤退だ。レーゲン、君が何をしているのかも気になる。また話そう」
「おう」
その日から。
二人は二日に一度くらい、天気や状況を見て話をした。
「躰を鍛えるのは十歳頃からで充分だと、そう思っていたがね」
「当たり前に考えるならそうだぜ? こいつは昔の友人の話だけどな、そいつは何事においても準備ができているかどうかで結果が変わると、そういう信念を持ってた。たとえば、走り込みをしたとしよう。せいぜい1キロくらい走れば、俺らは疲れちまう」
「今の僕でも結果は同じだ。躰も満足にできていない」
「たとえ話だけどな、この結果に対してそいつは、準備不足の一言で済ます。つまりだ、2キロ走れなかったのは、以前に1キロ以上の距離を走って体力をつけていなかったからだと、そう言うわけだ」
「ほう……一見、乱暴のようにも思える理屈だが、筋は通っているな」
「俺も同じ見解だ。それに倣うッてわけじゃねェが、身体能力を向上させる前の段階で、躰の把握ッてやつは大きな運動が必要ねェ。右腕を水平に上げろと言われて、きっちり水平にできるヤツの方が少ねェンだよ」
「ふむ、道理だな。それに関しては僕も興味がある、やり方を教えてくれ」
「地味だぜ?」
「空き時間にできるなら嬉しがるものだ」
「具体的なものはともかく、結論だけ言えば、躰の動きを完全に把握――いや、掌握しろ。あらゆる全ての動きを、己の意識下、無意識下で正確に動かせるようにする」
「指先に至るまで全てかね」
「そうだ。だから骨への意識は必要になる」
「……面白いやり方だ。僕は現場で覚えたがね」
「どこだ?」
「ヴィクセン」
「少なくとも俺の知ってる傭兵の中にはいねェな。まあ、同じ世界から来たとは思っちゃいねェが」
「そのあたりの考察はしているのか」
「ある程度はな。六人くらいの傭兵団だが、俺は
「じゃあ生粋の魔術師ッてわけでもねェのか」
「仕事のついでで研究はしていた」
だから、今は研究だけをしている。
「やっぱりお前だって地続きじゃねェか」
「雇われ兵になるつもりはないがね」
そこで、近づいてくる大人の気配に気づく。
「お前、どうしてる」
「うちの中じゃこのままだな。外なら、多少は猫を被る」
「なるほどな」
そして。
「おう、珍しい二人だな?」
「ああ、こいつ本ばっか読んで躰を動かさねェから、どうなんだッて」
「そういうお前も、少しは落ち着いて本を読んだらどうなんだ」
「ああ言えばこう言う典型じゃねェか」
「はははは、家の仕事を手伝えと言われないだけ、いいじゃないか。お前ら二人はほかの子とちょっと違うところがあるから、二人で行動するなら安心するけどな」
怪我はするなと言って、彼は離れていった。
「……リムリア」
「なんだ」
「結界系の術式、どのくらい扱える?」
「範囲と効能によるな。現場で人避けの結界くらいは使っていたが」
「ふうん? ちなみに、最高の結界ッてのは何だ?」
「僕が知る限り、壊せない結界か、気付かない結界の二種類」
「……来年だな。場所は確保するから、術式は頼んだぜ」
「おい」
「いちいち人が寄り付くのは面倒だが、どっかに雲隠れするようじゃ心配をかける。どっかに隠れ家があることは知っていても、そいつがどこにあるのかわからねェ――ほら、丁度良いだろ?」
「……都合は良いが、可能かね」
「不可能だからやりませんッてのは、大人だろうがガキだろうが、言い訳としちゃ笑い話だぜ?」
「む」
「といっても、これから冬だ、急ぐ話じゃねェよ。春を過ぎてからこつこつと、半年がかりの悪だくみだ。できねェなら、そう言え」
閉じられた本を片手に立ち上がったリムリアから、ため息が一つ。
「まったく……」
軍人がそうであるよう、傭兵であってもそれは禁句だ。
そんなこともできないのか? ――そう言われて、できないと答えられない人種が、世の中にはいるのだ。
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