第7話 逆さ男。


 ぎーぎーぎー。


 夜の公園のブランコが揺れている。


 ぎーぎーぎー。


 誰かが、ブランコを漕いでいる。やる気がなさそうに。或いは、命をかけて漕いでいる。

 それは異様に大きい人間に見えた。全ての光を飲み込むような真闇の躰を持っていた。輪郭が夜にぼやけて判然としない。誰もいない、誰も存在しない真夜中の住宅街の公園で、それはブランコを漕いでいた。ブランコが一つ。鉄棒が一つ。砂場が一つ。パンダの乗り物が一つ。それだけの小さな枯れた公園だった。それは、ブランコを漕いでいた。男の周囲の空気が腫れぼったく、重い。真夏の重さを通り越し、熟しすぎて、腐敗した秋を思い起こさせた。その男はブランコに座っていたが、異様な身長の高さは明らかだった。立てば恐らく3mはあるだろう。細く長い身体をブランコで揺らしている。男の隣では、誰も載っていないパンダの乗り物が同じようにぎぃぎぃ揺れている。


 「逆さ男か。」


 通りすがりのスーツを着込んだカエルが話しかける。カエルの後ろには、一人の男がしんどそうに歩いている。ぺたぺたびたん。彼らの足音は何だか似ていた。意外と二人は仲良さそうだ。パンダはぎぃぎぃと揺れて、逆さ男は、ガシャガシャと笑った。


 「白丸か。久しいな。何だ?また、何も知らない者を巻き込もうとしているのか?」


 「人聞きが悪いな。貴様じゃあるまいし。」


 白丸は公園前の道で立ち止まり、横柄な態度でブランコの大男を見上げた。カエルなんか大男の一踏みで潰されてしまうのに、白丸の態度は逆に大男を踏みつぶせると言わんばかりだった。黄金色に縁どられ、潰れた瞳が不遜に光る。口の端をくいっと上げて続ける。


 「逆さ男よ、私は貴様の様な悪食では無い。」


 白丸の返答を聞いて、逆さ男は愉快そうにガシャガシャと笑った。イッタはようやく逆さ男の意味を知った。正しく逆さなのだ。黒い闇のような躰に乗っているのは逆さの顔だった。上下ひっくり返った顔がついていた。目尻を下げ、口角をくっきりと引き上げている彼の笑顔はしかし、顔が逆さで有るため、不機嫌そうに見えた。ガシャガシャと笑う逆さ男の歯は鋭く、ナイフ状の長い犬歯のみで構成されていた。一本、歯ではなく、本当のナイフが生えていた。有名なナイフメーカーの赤色のマークが入っている。


 「ああ、気になるか?硬いものばかり食べていると時々、歯が折れるのだ。このナイフは差し歯替わりだ。」


 逆さ男は機嫌良さそうに答える。しゃべる度に歯とナイフが擦れてがしゃがしゃきぃきぃと不愉快な音を立てる。


 「貴様の歯が折れるほど、固いものなどあったか?」


 止せばいいのに白丸は聞いた。逆さ男は嬉しそうに答える。ガシャガシャ。


 「ああ。スイカだ。好物なのだか、丸齧りすると流石に歯に堪える。」


 話す逆さ男の歯の間から、長く黒く細い女性の命ともとれる、何かがたれているのをイッタは意図的に無視した。そのイッタの目の前で、それは逆さ男の口の中に飲み込まれていった。そうめんか何かのように。するするじゅるる、と飲み込まれていった。白丸は不満気にタバコを吹かした。とん、と灰を落とす。パンダはぎぃぎぃと揺れている。一瞬だけ、逆さ男の目が細く光った。


 「俺の下僕にならんか?」


 唐突に、逆さ男はイッタに言った。


 「何もかもを捨てて旅に出るような、そんな下僕が欲しいのだ。俺は闇の主だ。闇の中で永遠を生きている。不遜で、恐れを知らぬ、死人のような下僕が欲しいのだ。命に価値を見いだせない盲目の下僕が欲しいのだ。」


 イッタは逆さ男を見つめる。イッタにとっての問題は、この逆さ男がどのような存在なのか?ではなく、何を知っているのか?だった。旅に出る?死人のような?命に価値を??


 「何を知ってんの?何で知ってるの?」


 イッタの目が見開かれる。白丸に負けじ劣らずの真円の瞳だ。瞬きをせず、息を止めてイッタは逆さ男を見つめる。ブランコに座る闇を纏った大男はカシャカシャと笑う。愉快そうだった。欲望に舌なめずりをする。


 「このパンダも私の下僕だ。よくやってくれている。どうだ?貴様も俺の下に来い。」


 イッタはぎぃぎぃと勝手に揺れ続けているパンダの乗り物を見つめた。よくある公園のパンダの乗り物だ。胴体の下からスプリングが伸びており、それが地面に潜り込んでいる。パンダはそれを軸にぎぃぎぃと身体を揺らしている。ある一点を除いて、それは単なるパンダの乗り物だった。この逆さ男の下僕のパンダには目があった。人間の目が。ゆっくりと瞬きしながらイッタのことを見つめている。その瞳には、吊り橋の上から覗く谷底のような魅力があった。飛び降りて吸い込まれしまいたいと思わせる、邪な魅力が。パンダの瞳は何も言わず、でもイッタに告げていた。


 オレタチハシッテイルゾ、と。


 イッタはパンダの瞳の中に少しずつ意識を奪われて……。


 「関わるな。」


 白丸が唐突に告げた。少しだけ、意識がはっきりとする。今の一瞬、意識が自分の体ではない何かの中に入り込みそうになっていた。どこかに吸い込まれてしまうとことだった。とても危険な状態だったように想う。でも。


 「やだね。」


 イッタは返す。これまでののんびりとしたイッタはそこには存在しなかった。何かを腹に抱えた奇妙な男がそこにいた。何かを求めて……知りたがっている男がそこにはいた。現実離れした周囲の状況をすんなりと受け入れ、しかも、何かに腹を立てていた。イッタは白丸に向き直る。


 「何を知っているのか、知りたいんだ。」


 「やめろ。関わるなと言った。」


 止める白丸を無視して、再びイッタは公園の方を向いた。眼前に顔。逆さ男の顔があった。逆さ男は立ち上がり、シッシッシッと息を吸い込みながら小さく笑っていた。細く長い長い身体をしならせて覆いかぶさるようにしている。イッタと顔の位置をピタリと合わせていた。逆さ男は、ゆっくりをナイフのような牙をむき出しにして、イッタに血の香りのする息を吹きかけた。長い舌を伸ばす。いつの間にか街灯は全て消えていた。夜の底に沈みそうな彼らを星たちが辛うじて、この世界に繋ぎとめている。


 「俺は下僕を探している。一生、俺のことを恨みながらも逃げることも逆らうことも無視することできずに俺に付き従う、そんな奴隷が欲しいのだ。なぁ?どうだ?俺の奴隷にしてやってもいいんだぞ。俺の下で永遠に苦しまないか?なぁ。俺は闇の主。ロロクエストラムダ。さぁ、俺の名を呼べ。」


 イッタは随分と久しぶりに恐ろしさを感じていた。逆さ男の言うとおり、イッタは死を恐れていなっかった。生死を蔑み、嘲笑っていた。なるようになればいいと思っていた。


 世の中も、自分も。


 でも、今は違った。ひんやりと恐怖が足元から這い上がってきていた。目の前には逆さの顔。闇の中に唯一浮かんでいる。


 「なに、心配することはない。俺は闇の主、狭間の王だ。皆、誰しもが、心の中に俺の片鱗を抱いている。お前もそうだろう?イッタ。闇と狭間と逆さ。違うか?違わない。俺はロロクエストラムダ。さぁ、俺の名を。」


 どうして?何故、それを知っているのか。イッタは徐々に恐怖が大きくなっていくのを感じた。どうして、僕の心の闇や隙間や天邪鬼を知っているのだろうか?誰が教えたのだろうか。誰が?


 「ハナ。決まっているだろう。ハナが教えてくれたのだ。何しろ俺は—。」


 ぼっ。


 と、小さな音がした。逆さ男とイッタは音のする方へ目をやる。白丸だ。異次元ポケットからにょろんとタバコを取り出し、マッチで火をつけたところだった。目を閉じたまま、ふかーく、煙を吸い込んでいる。目を開き、潰れた瞳で二人を見つめる。黒目にある黄金色のふちどりが荘厳な光を宿している。白丸は、ゆっくりを煙を吐き出した。


 「カエルの王でありまた、稀代の魔術師でもある白丸が言う。聞け、闇の主よ。その魂は私の預かりものだ。去れ。迫害され、追いやられた厚みのない狭間の世界に。」


 ぎゃっと小さい悲鳴のような声を発したかと思うとものすごい速度で逆さ男は後方に吹き飛ばされそのまま何の変哲もない家と家の間に吸い込まれた。途端に世界に街灯の光が戻り、住宅街の公園のブランコは動きを止め、パンダの瞳も消えた。


 一瞬だった。イッタは思った。さっきまで自分はどこにいたのだろうか。何をしようとしていたのだろうか。そしてあの、ロロ……。


 「名を呼んではいけない。名を告げてはいけない。夜の世界の常識だ。名前には力がある。本当の名を使うべきではないのだ。名前は魂と等しいのだ。覚えておけ。これは魔術の初歩の初歩の初歩だ。」


 わずか身長10cmの小さなカエルが、途方もなく大きな存在に感じられた。地面や海や空のような。態度もまた、広大な存在のそれと同じだった。何も恐れず、何も信じていない。ただ存在するだけの不遜さを備えていた。でも、どこか安心する。イッタは白丸の前で膝を付き、出来るだけ白丸に高さを合わせてから言った。


 「ありがとう。よくわからないけど。なんというかもうちょっとで連れて行かれるところだったみたい。」


 「そこまで分かっているのなら、次は注意することだな。」


 「そうする。でもさ、なんで僕を助けてくれる訳?どこに僕を連れて行こうとしているの?」


  ふーっと煙を吐き出し、アスファルトでもみ消してから、白丸は告げた。やれやれと孫に道理と説くおじいさんのような態度だ。


 「貴様を助けるのは約束だからだ。行き先はすぐにわかる。この街に目的地があるからな。」


 何の約束なのかとか、誰との約束なのかとか、質問を続けるイッタの様子を見て、白丸はけろけろ笑った。答えずに彼が旅と呼ぶ、夜の散歩を再開した。星々の輝く夜空は高く、天の川は壮大だ。ゆがんだ月の光はそれでも十分に美しく、初夏の夜気は澄んでいた。


 また、熊ベルがちりりりりんと鳴り、イッタは、恐怖や不安は遠くに去ったような気がしていた。


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