弱虫イッタとカエルの魔術師。

ゆうわ

第1話 いってらっしゃい。

 静かな夜だった。


 弱い弱い風がゆっくりと昏い世界をかき混ぜている。中途半端に欠けた月がりんとした光を地上に落としている。今はまだ夏の始め。夜気は温く、優しい。歩くように流れる風は、真夏の腫れぼったい空気にはまだ遠く、微かな冷気を隠している。


 「そろそろ行こうかな。」


 椅子が大きな音を立てて倒れた。静かな室内にがさつな音が響く。


 ちりりりりん、と熊ベルがなった。


 彼は小さなマイホームのリビングにいた。小さいながらも、そのリビングには吹き抜けがあり、窮屈さを感じさせなかった。天井にはむき出しの梁が走っている。所々ささくれがあったが、彼はその古くくたびれたところも含めて、気に入っていた。彼のお気に入りの梁には、いくつものインテリアが吊り下げられていた。ドリームキャッチャーとか鳥の人形とか役に立たない物が多かったが、中には実用的なものもあった。ただ、それはササクレに引っかかって、今にも役立たずになりそうだ。夜風がリビングの開け放たれた窓から入り込み、ゆらゆらと空中のインテリアをくすぐっている。


 ちりりりりん。


 熊ベルが細く澄んだ音を響かせた。梁から吊るされている実用的なインテリアの一つだ。ベルに合わせて間接照明に照らされた影が踊る。男は妻が居なくなってしまってからすっかり癖になった独り言をこぼす。


 「どこ行ったんだよ、ハナ。」


 「貴様はどこに行くのだ?」


 予期しない返事に男は焦る。妻が居なくなったこの家には、自分しかいない筈だ。男は声の元を探る。薄明かりの中、声の主は胸のポケットからタバコを取り出し、火を点けた。マッチの炎に声の主の顔が浮かび上がった。


 「あ。カエル。」


 「何だ?人間。」


 キッチンの対面カウンターの上にカエルが居た。身長10cm程で黒いスーツを着込み、人間が吸う大きさのタバコを吹かしている。二本足で偉そうに立っている。体色はアマガエルのような綺麗な緑で、額の中央に白い大きな丸がある。生意気な感じで、煙を吐き出す。成程、ついに自分は頭がおかしくなったのかもしれないと、彼は妙に納得した。寧ろおかしくなるには遅すぎるくらいだ。でも、目の前で確かに起こっている出来事を否定しない程度には狂っていないのかもしれない。いや、逆かな?どっちでもいいやと彼は想う。妻はどこかに行ってしまったし、僕ももう出発するところなのだから、と。


 ふーっ、とカエルが長く煙を吐き出した。興味深そうに男のことを見つめている。


 「貴様は旅に出ようとしている。違うか?」


 「違わない。」


 「行き先はまだ決まっていない。」


 「そうだよ。」


 「そして、ちょうど緑色したイカした道連れがいればいいなと。」


 「思ってた訳もなく。」


 「連れないな。貴様は。」


 「一太郎。僕の名前は一太郎。イッタって呼んでくれていいよ。」


 カエルはにやりと笑う。咥えタバコのまま器用に返す。


 「私は白丸。カエルの王様だ。また、魔術師でもある。呼び捨てはさすがに恐れ多いだろうから、白丸様と呼べ。」


 「つか、この家、禁煙だぞ。白丸。」


 魔術師でもあり、世界の流れを司るカエルの王でもある白丸は一瞬、ポカンとした。でも、しっかりと自身の役割と思いだし、仕事に取り掛かる。


 「失礼なやつだな。まぁ、今は許すが。……しかしな、気をつけろよ。私のことを呼び捨てにしたと家来が知ったら、魔法をかけられるぞ。」


 「カエルにされちゃう感じか?」


 「……まぁ、そんなところだ。」


 そう言うと白丸はタバコを一気に吸い込み、ほっぺたとお腹をカエルらしく膨らました。ふーっと長く煙を吐き出した。煙は夜風にさらわれて消えていく。タバコの灰が、ぽとりと落ちる。


 さて、と彼は呟き、カウンターの上に投げ出された飲みかけの缶ビールにタバコを放り込んだ。ひらり、と白丸はカウンターから飛び降り、フローリングの床にぺとり、と着地した。しゃがんだ状態から、優雅に膝を伸ばし立ち上がった。すらりとした立ち姿は見る者に成程、確かにカエルの王様かも知れないと、思わせた。ちょいちょいと、ネクタイを直してから言った。


 「行くぞ、イッタ。」


 「いやー、行くとはいってないけどさ。」


 白丸はそのまま玄関へと向かい、小さな手でドアを押し開けた。彼はポケットに手をつっこみ、夜のアスファルトを歩いていく。カエルっぽいガニ股が可愛らしい。


 まぁ、どちらにしても旅に出るつもりだったし、最初に少し寄り道してもいいか、とイッタは思い直した。イッタが家を出て、玄関のドアが締まる瞬間、熊ベルが思い出したように鳴った。それは、ちりりりりんと、空気を涼やかにした。


 イッタはなんとなく、妻のいってらっしゃいを思い出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る