3

 エルがあの女性の正体を思い出す事に、何か大きな問題があるとは思えない。だが本能的に感じたその予感は拭う事は出来ず、徐々に大きく膨れていく。

 どうにか彼女の意識を逸らせるものは無いだろうか。そう思考を巡らせるも、出逢って間もない彼女との話題など、咄嗟に浮かぶ筈が無い。


「……うぅん」


 そんな自身の思いを知ってか知らずか、彼女が小さく唸りを上げ溜息を漏らした。 


「――やっぱり、思い出せそうに無いわ。貴方の言う様に、気の所為だったのかもしれないわね」


 その顔には未だ疑問の表情が浮かんでいるものの、思い出す事を諦めた様でほっと胸を撫で下ろす。言葉だけの肯定を述べ、彼女に気付かれぬ様安堵の息を漏らした。



 灯りが殆ど消えた街の中。

 並んだ空家の中にひっそりと佇む一軒家の前で足を止めた。

 スラックスのポケットからキーリングを取り出し、くすみ変色した金属の鍵で手早く玄関扉を解錠する。


「――今更なのだけど」


 エルの声を耳に、キーリングを持った手でドアノブを回した。

 少々建付けの悪いこの扉は、開閉する度に耳に衝く金属音を立てる。昼間はあまり気にならないが、音が響き易い夜間は特に開く事が憚られた。

 とはいえこのまま開かない訳にもいかず、気休めではあるものの極力音を立てない様ゆっくりと扉を引く。 


「――私、此処にお邪魔しても問題無いのかしら……?」


 少し間を置いて発せられた言葉に、思わずその手をぴたりと止める。

 屋敷を抜け出したは良いものの、見ず知らずの男の家を目の前にして、やっと事の重大さを理解した、という所だろうか。

 彼女が言う様に、本当に今更な問いだ。


「家が小せぇって言ってんのか」


 扉をゆっくり開きながら揶揄い言葉を口にすると、彼女が慌てて首を横に振り「そう言う事では無くて」と否定を示した。その愛らしい慌てぶりに思わず笑みが漏れ、自身の崩れた表情を隠す様に彼女から顔を背ける。


「問題があるなら、最初から此処に連れてきたりなんかしてねぇよ」


 大きく開いた扉の前で、表情に不安を滲ませたエルの髪をくしゃりと撫でた。その拍子に、器用に結われた髪が乱れ、緩くカールした毛束がはらりと数本後頭部から落ちる。


 ――まるで、赤いインクを零した様だ。

 エルの真っ赤に染まった頬を見て、そんな事が脳裏に浮かんだ。

 安堵の中に混じる、僅かな恥じらい。それが堪らなく愛らしくて、彼女から目が離せなくなる。


 やはり、今日の自分はおかしい。

 そう思いながらも、髪に触れた手を頬へと滑らせた。赤子の様に柔らかなその頬を、指先で優しく撫でながら美しい瞳を深く見つめる。

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