第35話 会場へ
というか、確実に血圧は上がり、脳への供給量を間違ったらしい。ひょっとしたら矯正下着で腰回りをしめつけて酸欠になっているのかもしれない。
眩暈を感じ、よろよろと手近な椅子に座る。
「ほ……、ほめていだたき……」
ありがとうございます、ともつれる舌で言おうと思うのに。
石堂は腕を組み、椅子に座る翠を見下ろして、残念そうに口をへの字に曲げる。
「でも、わたしが一番気に入っているのは、Tシャツ・半パン、すっぴんのままベッドでくつろぐ布士さんなんですけどね」
「忘れて、それ!」
研修施設の自分ではないか。
顔を覆って叫ぶと、くすくすと笑われる。
「あなたと一緒にいると、まったく飽きませんね。面白い」
なんと答えればいいかわからず、翠は押し黙る。
「そうそう。例のユーチューバーですが」
ふと、石堂が本題を切り出す。
翠は表情を改めて彼を見上げた。
「債権回収部が、個人を特定しました。明日には連絡先が割れそうです」
「すごいですね!」
素直に感嘆の声が漏れる。石堂は微かに笑った。
「YouTubeの方はほとんど個人が特定できるものはなかったようですが、Twitterやブログ。そのフォロワーやコメント等を読み込んでいけば……」
「その、債権回収部って、なにするところなんです?」
翠が首を傾げる。
「そのままです。債権を回収する部署のことです。例えば、うちの物件や土地を借りたり、購入しておいて、そのまま支払いを滞らせた場合、正当な金額を回収する部署です」
ははぁ、と翠は頷く。取り立て、ということだろうか。
「今の時代、誰もがSNSで情報発信していますからね。夜逃げなどありえません。必ず居場所を突き止め、対価を支払っていただきます」
ふふ、と石堂は若干顎を上げて嗤う。
「わたしが命を賭けて売る土地です。タダで手に入れようなど、虫が良すぎる。地獄の果てまで追いかけますよ」
邪悪な笑みを浮かべる石堂を見て、背中が寒くなる。
「さて、それでは会場に向かいましょう」
石堂は言うと、椅子に座っている翠に手を差し出した。
おそるおそるその手に触れる。
ごつごつと骨ばってはいるが、温かく、大きな手だ。
ぐ、と掴まれ、立ち上がらされる。
そのまま、石堂は自分の左ひじを緩めて差し出した。おっかなびっくり翠は彼の腕に自分の腕を絡ませる。
「では」
石堂が微笑み、翠は頷く。
ピンヒールなど滅多に履かないから不安ではあったが、石堂がしっかりと支えてくれているから、それほど安定感がないことはない。
扉を開けて部屋を出ると、廊下には美容部員たちと専用コンシェルジュが待機していた。
「あ。お嬢様。バッグを」
翠の姿を見て、一番若い美容部員がクラッチバックを取りに走る。しまった、あれいるのか、と思っている間に石堂はコンシェルジュにに声をかけていた。
「荷物は宿泊のスイートに」
「かしこまりました」
終了時間の関係で、今日はホテルに泊まると聞いていたが、まさかスイートか、と翠は内心驚く。
「いろいろとありがとう」
「とんでもございません。どうぞ、お楽しみくださいませ」
石堂の礼に、チーフが頭を下げる。順次美容部員たちは頭を下げた。
翠がクラッチバックを受け取るのを確認すると、石堂はエレベーターホールに向かって歩き出す。
「会場直通のエレベーターがあるんですよ。それを使いましょう」
石堂に言われて頷く。
というか、頷くよりほかない。
こんな老舗ホテルに翠は来たことがない。別館、本館、ストアや駐車場が集中している一号館、二号館。
ヘアカラーをしてもらっている時に、美容部員たちが教えてくれたが、ほぼほぼ理解できない。
『あとで、ショップの方を覗いてみてはどうですか? 副社長、きっといろいろ買ってくださるかもしれませんよ』
『なにしろ〝わたしの子猫ちゃん〟ですからね』
そこでひとしきりみんなが笑い、翠はひたすら赤面するしかなかった。
「あの……、呼び名のことですけど」
到着したエレベーターに乗り込み、翠は石堂を見上げた。箱内もクラシカルな装いだ。
「はい」
回数ボタンを押しながら石堂が応じる。
「もう、みどり、で構いませんから。それにしませんか?」
一晩考えた末の呼び名が〝わたしの子猫ちゃん〟だとは思わなかった。
悠里には伝えていないが、きっと「壊滅的惨状!」と髪の毛を掻きむしる気がする。
「だめです。もう、わたしの頭の中で何度もシミュレーションしました。今から変更したら
粗は出なくても、変な汗が出るのだ。
翠は必死にその言葉を飲み込み、視線を下す。
ふと目に入ったのは、石堂の肘に絡めた自分の手。
ネイルチップ。
「こんなのつけたの初めてですよ。違和感ないんですねー」
しげしげと見つめる。しかも、色はヌードピンクとかではない。モスグリーンに白を多めに足したような色だ。そこに、金色や透明なビーズを張り付けてある。今着ているドレスに非常に相性が良かった。
「営業をされている時もしなかったんですか?」
箱が動き出す。ふわり、と内臓が浮く感じに、翠は反射的に石堂に寄り添った。
「しなかったですね。だって、料理するのに邪魔じゃないですか」
ネイルはしていたが、爪は短く切りたい派だ。
「ああ、やっぱり料理されるんですね。そんな気がしました」
石堂は苦笑する。
「毎回わたしの手料理では、物足りなかったのでは?」
「とんでもない。美味しくいただきました」
軽く頭を下げてから、ふと尋ねてみる。
「でもなんで、料理するって思ったんですか?」
「あなたが、黙ってわたしの料理を食べるからです。料理しない人ほど、うんちくを垂れるでしょう? ああ、ここでいう〝料理〟は〝家庭料理〟ということですが」
ひょい、と石堂は肩を竦める。
「スパイスはあれだ、だしの取り方はこうだ、隠し味はなんちゃらだ、と。そんなの毎日してられません。たまーに料理をする人の方がややこしい」
確かに、と翠は笑った。
亮太がそのタイプだ。
婚約前後は同棲をしていて、料理は翠が受け持っていたが、時々、口を挟みたがる。
自分の仕事の休みには、やけに凝った料理を作り、二度と使わないスパイスや調理器具を購入し、明日からの仕込みをしたかった翠を押しのけてキッチンを占領した。
『どう? うまいだろう』
と自慢げに言うが、そんな高級食材を使っていれば、なんでもうまい。毎日食べる〝家庭料理〟というのは、予算の中でやりくりし、食材のコンディションを最大限引き出すことだ、と翠は常々思っている。
(奥さんにもおんなじようなことして、嫌がられてないといいけど)
ほう、と息を吐く。
そういえば昼頃、スマホを確認したら亮太からLINEが来ていた。『来週の金曜日に、おまえんち行っていい? 宅飲みしよう』と書いてあった。
既読にはしたが、断ろうと思っている。なにしろ、あの家に自分はいないのだから。
(それに、なんで宅飲みなのよ)
翠の負担は増える。料理は作らなきゃいけないし、洗い物だってしなくてはいけない。
(外に飲みに行こう、って言おう)
頭の中で段取りをしていたら、エレベーターは停止し、音もなく開く。
ホールには、レトロな看板が用意され、『石堂家・冬坂家 婚約式』と書かれた文字と矢印があった。
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