第20話
早朝5時のキッチンには、ボウルに入ったクリームをかき混ぜる姫乃の姿があった。
「若者が頑張っている姿というのは涙を誘うね」
うんうん、と頷くマスターに俺はぺこりと頭を下げる。
「すみません。カッサータの作り方を教えて欲しいなんて無理言って」
「いいの、いいの! 急いだせいで仕入れすぎちゃって、材料はあまり余ってるから!」
それに、とマスターは言う。
「お母さんに食べさせたいがため、だなんて泣ける話じゃないか。昨日は夜遅く、今日は早朝から頑張っているし、応援をしないなんて大人失格だよ」
優しい言葉に自然と頭が下がる。
「それで、姫乃ちゃんのお母さんはいつ頃見えるのかな?」
「さっき聞きましたけど、わからないそうです」
「そっか。まあでも、今来ても大丈夫だから。姫乃ちゃん、筋がいいと言うか、飲み込みが早いと言うか、何と言うかこう、色んな経験を積んできたんだろうね。物事に対して、どう接すれば上手くいくかを知ってる人の感じがするよ」
「じゃあ、無事美味しいものが出せそうですか?」
「うん、自信をもって勧められるね」
「よかった。美食を嗜んできた雪城家の当主を満足させれそうで何よりです」
「え? あ、そ、そっか。ここでより美味しいものを出せれば、あの雪城家御用達にも、というより、下手なものは出せな……ひ、姫乃ちゃぁーん! クリームはねー!」
急に慌て出したマスターは姫乃の指導に入った。
俺は暇になったので、キッチンから出て掃除を始める。
モップをかけながら、昨日ことを振り返った。
***
「お母さんに、姫乃が成長したところを見てもらおう」
「え? 理玖?」
「とりあえず、もう少し話がしたいんだ。いいかな?」
姫乃は何も言わず黙っていたが、しばらくしてこくりと頷き、運転手にまた迎えに来るよう告げた。ちょうど俺も学園からの迎えがきたので、断りを入れて帰ってもらう。
2人になると、俺たちは店に入った。
「いらっしゃいませ、ってあれ? 帰らなかったの?」
「はい。客として、奥の席使わせてもらってもいいですか?」
「もちろんさ! 珈琲二つでいいかい?」
お願いします、と頼むと、カップが二つすぐに運ばれてきた。
「それではごゆっくり〜」
奥にマスターが引っ込むと、店内はカップから立ち上る湯気以外、動きがなくなった。2人の間に緊張感が漂うと、恐る恐ると言った様子で姫乃が尋ねてきた。
「えーと、理玖? 成長したところを見てもらおう、って、どういうことかしら?」
「そのままの意味。お母さんに成長した姫乃をさ、見てもらおうよ」
「あの、私、お母様の目に触れることすら今は怖い、そう言ったわよね?」
不安げな姫乃に強く頷く。
「うん、聞いた。でもさ、いつまでも避け続けるつもりなの?」
「それは……」
姫乃は何かを言おうとして口を閉じた。それは、いつかはやめるかもしれないが、いつまでも続ける可能性だってあるため、断言できないからだろう。
「長々と話するつもりはないから聞くね。姫乃はさ、どうなりたい?」
きっと俺が言った意味を正確に理解したのだろう。姫乃は間を置かずに答えた。
「それは当然、お母様と仲良くなりたい。お母様と親子みたいに触れ合えるかもしれないなら、そこに夢を見れずにはいられないわ」
でも、と姫乃は続ける。
「何かを得るには、何かを捨てなければいけない。私が跡を継ぎたい以上、母様との関係は諦めなければいけない。そんなことはわかっているの」
姫乃の笑顔は儚く弱々しい。胸中の炎が勢いを増す。
「何かを得るには、何かを捨てなければいけない。たしかにそう。だけど、それは俺がいない時の話だ」
俺は逃さぬように、と姫乃の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「もう一度聞く。姫乃はどうなりたい?」
無言の時間が訪れる。それはしばらく続いたが、姫乃の震える声が静寂を破った。
「……望まれていなかったとしても、頑張ったんだ」
歯を食いしばるように、心の底からの言葉が吐かれていく。
「立派になった私を、お母様に褒めてほしいっ! よく頑張ったって、頭を撫でて欲しい! 子供みたいに甘えて、抱きしめて欲しい!」
なのに! と姫乃は続ける。
「それが叶わないのは辛い! 私の頑張った結果が受け入れられないどころか、望まれず傷つけるだけなのはもっと辛い!」
姫乃の目から溢れた涙を、俺は人差し指ですくう。
「ありがとう、姫乃。言ってくれて」
俺は優しい笑みを浮かべて続けた。
「俺に任せて、姫乃とお母さんの仲、修復してみせるよ」
「そんなの、どうやって……」
「大丈夫、考えはある。まあ、任せて、と言っておいてなんだけど、主に姫乃に動いてもらうことになる。それでもいい?」
こくり、と頷いた姫乃。
同意を得た。ならば、これで決まった。考えを伝えよう。
「ありがとう。そうと決まれば、まずは、美味しいカッサータを作れるようになってもらう」
「わかった。でも、どうして?」
「姫乃が成長したところを見せたい。店員の姿だけでも十分だけど、姫乃が作った美味しいデザートを食べてもらおうよ。私はこんなに美味しいものを作れるようにもなったんだってところを見てもらおう」
本意は別にある。だけど、そこは言わない。カッサータ作りには本気で取り組んでもらいたいからだ。
「わかったわ。お母様に手作りを食べてもらいたいし、美味しいって言ってもらいたいしね」
深く聞いてこなかったところをみるに、姫乃はきっと、他に意図があることに気付いているだろう。
「よし、それじゃあ、マスターに教えてもらえるよう頼もう。他のことはその都度、伝えるから」
***
なんてやりとりを振り返りながら掃除だったり雑務をしていると、明るい日の光が店内に差し込んできた。
時計を見ると、もう7時に近い。そろそろ開店の時間か。
「理玖」
声をかけられて振り向くと、お皿を持った姫乃がそこにはいた。
顔には疲れが隠し切れていない。昨日からほぼ休まず集中して、作り続けていたのだ。そりゃ、疲労も表に出る。
「カッサータが出来たの。試食してくれないかしら?」
俺は、わかった、と近くの席に座り、そして姫乃に出されたカッサータを食べてみる。
「どうかしら?」
「……美味しい」
昨日出されたものと比べても、お世辞抜きで美味しいと思う。見た目もいいし、高級店で出されてもいい出来栄えだった。
「そう、良かった。お母様にも喜んでもらえるかしら?」
「うん、きっと大丈夫だよ」
そう言うと、姫乃は心底嬉しそうに笑った。
「さっきも聞いたけど、おばさんは来てくれるって言った?」
「わからないわ」
「そっか。なら、来てくれることを願うしかないな」
「うん、そうね」
そんな会話をした時、マスターから声がかかった。
「理玖くん、姫乃ちゃん、そろそろ開店するよ〜」
俺は空になった皿を持って立ち上がる。
「じゃ、頑張って働こうか」
「そうね、頑張りましょう」
こうして土曜日のバイトは始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます