木塊

り(PN)

1 始

 わたしは一度死んでいるのかもしれない。

 もちろん現時点で生きているのだから、普通ならば死にそうな目にあったと言うのだろう。

 ではコンビニの近くにいるアレは何だ。


 わたしは二十年近くを何不自由なく生きてきたが、霊感が強いと感じたことはない。 

 どちらかといえば弱い方で、暗闇で脅かされれば吃驚するが、それだけだ。

 臆病者の生理反応が生じるに過ぎない。


 それが約一週間前を境にガラリと変わる。

 二六時中ではないが、見えないものが見えるようになる。

 もっとも他人の視るものなどその他人以外のどの他人にもわかるはずがないので、わたしがおそらく自分以外の他人たちに見えないと思っているだけだ。


 その件について、わたしが見知らぬ誰かに問いかけたことは一度もない。

 ワインカラーかスモークグリーンのジーンズを履き、紫色のリュックサックを背負った人付き合いの悪そうな女が、実は頭まで可笑しかったと判定されるとわかるからだ。


 そのくらいの分別はわたしにもある。

 この際、わたし自身の性格や判断は無視しよう。

 そうではない人間でも同じ判定を下すと思えるからだ。


 アレを見て面白いのは、気味は悪いが、それほど怖ろしくない点か。

 アレの姿形が美しいせいかもしれない。

 この世の既存概念で似ているものを探せば天使だが、ヒト型に羽根が生えている以上の共通項はない。

 そのヒト型も通常の人間ではありえない細さで、またありえない角度で関節が曲がる。


 羽根の形も日頃見かけるどのような羽根とも異なっている。

 羽ばたく動きもまた異常。

 鳥には似ていない。

 かといって蝉や蜻蛉に似ているわけでもない。

 羽ばたくというよりは単にゆれているように、わたしには見える。

 けれども羽根がゆれるとアレの姿が上昇する。

 どこまでも天に昇るか、あるいは不意に消えるかは状況次第。


 もっとも、その状況もわたしには判別できない。

 この世とは異なる別の世界とこの世とが同じ空間を共有しているというSFかファンタジー設定があったはずだが、その印象もある。

 わたしが見ているのは異世界のナニカがこの世界に映した/落とした影であり、だからどこかぼやけて感じられるのかもしれない。


 天使ならば色は白いが、アレは灰色と透明が混ざった感じだ。


 灰色の濃さは増減する。

 一番濃かったときは黒に近く、薄かったときは透明だ。

 その場合は、ふうっと消えていなくなる。


 アレが消えていなくなった場所にわたしが行っても気配がない。

 だから異世界にでも戻ったのだろうかと考えてしまう。

 反対に気配を感じるのに姿が見えないこともある。

 その場合は少し怖い。


 けれどもアレがわたしには危害を与えないだろうという理不尽な確信があるので、少し怖い以上の感情の起伏は起きない。


 不思議といえば不思議だが、事実なのだから仕方がない。


 わたし自身はそう思い、すでに納得している。

 ……というより、納得すると決めたのだ。


 世の中に訳のわからないことがそう多くあるはずがない(ただしわたしに限ってもないわけではない)というのが、これまでのわたしの信条だが、どうやらまた改める必要がありそうだ。


 さて、わたしが死んだとしたら何処でだろう。

 いや、場所は無論はっきりしている。

 大学からそう遠くない山の中だ。

 山というより丘かもしれない。

 それでも木々は密生し、場所を選べば一人になれる。


 都会では一人になるのが難しい。

 深夜、近くに誰もいなくても共同住宅の壁の向こうには他人がいる。

 時間的にも気配が残る。

 数分前にわたしが辿ったのと同じ道を誰かが歩いたのが確実だからだ。


 その点、郊外では感覚が変わる。

 自分のまわりのヒト密度が低くなる。

 それは都心から電車とバスを乗り継ぎ、せいぜい二時間程度の場所でも感じられる。

 特に朝や夜では家が林道の向こうに見えても気配が違う。


 都会では比較的一様に感じられるヒト密度が郊外では局所的に変るのだ。

 例えば夜の竹林を割る田舎道のヒト密度は低く、民家の中では高くなる。


 わたしの母の田舎は山奥ではないが、都会から見れば十分僻地で、さらに農家ではなく洋服屋だったが、異常にヒト密度が高かったことを覚えている。


 子供とはいえ、都会の薄い人間関係に慣れた身にはドロドロと重く感じられ、早く家に戻りたいと願ったものだ。


 家族全体として濃ければ、その構成員一人ずつがまた濃いから困ってしまう。

 わたしと歳が近かった母の姉の息子が戸惑いつつもわたしのことを丁重に扱ってくれたが、そんな彼の戸惑いだけがわたしに近しいヒト密度だったかもしれない。


 大学近くの丘の中にわたしは隠れ家を見つける。

 入学してすぐのことだ。

 一月も経っていない。


 隠れ家といっても家ではない。

 大小の木々が妙な具合に折れ曲がり、微妙な閉鎖空間を構成していたのだ。

 何年その形が維持されるか不明だが、少なくともわたしが生きる間くらいは変らないだろう。


 広くはないが、それでも内部は角の丸い六畳間ほどある。

 豪雨は無理だが、多少の雨程度ならば凌ぐことができる。

 それは実際の経験から知ったこと。

 ビニールシートを巻きつけるなど人の手を加えれば雨漏りの度合いは減るだろう。

 そうすれば数日間暮らせるかもしれないが、いずれ誰かの土地だろうから見つかれば煩いはず。


 もっとも、これまでわたしはあの場所で誰かと出会ったことがないが……。

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