85話 忍び寄る思想
シスター・レアンをサラっと紹介した校長は、いたって事務的な処理をしたという風情があった。
「彼女の同席は
そう言って、校長は椅子から立ち上がり、話し合いをするために置かれているであろうソファへと腰を落ち着ける。
俺たちもその相向かいのソファへと座ることを促されたのだ。
「……」
姉は『納得できていない』と、全面に不機嫌オーラを出しながらも、校長の対面へと座った。それに続いて、俺も隣にそっと腰掛ける。
「こちらが市役所からの在学手続き承認書です。そして、こちらが
目の前に設けられたテーブルに、姉がスッと鞄から取り出したクリアファイルを広げ、四枚の紙を並べていく。
それらを見た校長先生は『在学手続きですか……』と、呟きをもらす。
校長といえば、俺にとってなんの思い入れもない先生だ。
朝礼の時に全校生徒に向かって何かの話をする存在、ぐらいにしか思っていない。ただ、その御高説が『簡潔で分かりやすい、とにかく短い』との評判で、生徒間では受けがそこそこに
端的に言えば、学校生活においてほとんど関わりを持たない先生。
そんな人が、今は姉と書類を交互に見比べながら渋面を作っていた。
「お姉さんも知っての通り、性転化法務教育契約書においては学校側の代表となる者の同意がなければ、在学手続きを更新する事ができないのはご存知だと思います」
「もちろん、知っています。ですから、こうして校長先生に承認印をもらいに来ました」
「では、まず。本人の意志確認を。
その問いに、俺ははっきりと
「はい」
俺の返事を聞いて、校長先生はやはり苦い表情になる。対象的に横でひっそりと立つシスター・レアンの朗らかな笑みが少しだけ気になった。
「はっきりと申し上げますと……」
校長先生は書面に再び目を落とし、一旦言葉を区切った。
そして、数秒間ためた後に溜息をつくように吐き出した。
「承認印を押すことはできません」
「なっ……」
なに?
姉はそう問い質したかったのだろう。
彼女の腰は半ば浮きあがり、校長先生に飛びかからんばかりの勢いで、一瞬だけ前のめりになった。だが、ここで激昂しても事態は良くならないと瞬時に悟ったのか、『ふぅ』と冷静さを取り戻すように吐息を漏らした姉は姿勢を正す。
無言という空白がこの場に降りた。
一体、どうして在学は承認できないのか。
何が原因なのか……。
このままでは、俺は小学校に行く事になるのだろうか……。どうすればいいのかわからず、不安でいっぱいになる。もう、晃夜や夕輝と……茜ちゃんともクラスメイトではなくなっちゃうのか?
どっと負の感情が胸の中で膨れ上がり、ひどく呼吸がしづらくなっていく。
いつも、どうやって自然に空気を吸って吐いているのか、わからなくなるぐらい、口や喉を通る呼吸音がやけに大きく聞こえてくる。
でも、俺には姉が付いている。
きっと、きっと……大丈夫なはず。
「ですが、本人の意志が尊重されるのが通例です」
俺の願い通り、ゆっくりとした口調で姉が話の続きを、いや、交渉を切り出した。
「
「ですが、実際にあった事例ですし、国がとった措置でもあります」
「そうですね。だけれども、特例といった措置も、こういった曖昧で新設されたばかりの法では認められるケースも多々あります」
「……どういう意味でしょうか?」
校長先生の真意を問う姉の声音は、向けられた者の肝が冷え切りそうな程に
「失礼ですが……」
そんな姉の質問に断りを入れて、ちらりと俺の方を
「
「ですが、年齢や記憶の一切は変わっていません。16歳です」
即応する姉に、校長先生はやけに悠長に頷いていく。
「それは十分にわかっていますよ」
そして、やんわりと否定の言葉を紡いでいく校長先生。
「ですが、身体は小学生が妥当の年齢です」
彼が俺を見る目には、優しさといった念は微塵もこもっていない。そんな校長先生の視線に、俺は情けなくも怯えていた。
能面のように無表情で憤怒する姉に対し、校長先生もまた、ピクリとも顔を動かす事無くその怒りを受け流している。
「性転化児童法令に基づく条文では、元々所属していた教育機関への在学は本人の意志を尊重して認めるものとする。とは表記されてはいますが、
それに反論できる材料が姉にはなかった。
校長の言う通りなのだ。
「何か起きた際の、
そうか……。
身の安全か。
確かに、校長が危惧するのもわからなくはない。
というか、むしろ当然の帰結。
10代後半と10代にさしかかったばかりの体格差は歴然としている。同じ空間にいて、不注意や何かの拍子で怪我が生じる事があるかもしれない。
「若人が集まる学び舎で、生徒間でのいざこざがないわけでもないでしょう。
「……」
さすがに喧嘩をするなんて事は……身体がこんな状態じゃなくとも、絶対ないとは言い切れない。
「そういった点を踏まえた上で、我が校の設備や環境面を考慮すると、
俺の事を心配しての意見というのもあるだろうが、学校側からしたら何かあってからでは遅いのだろう。
学校の評判に響くだろうし、性転化という事例は注目を浴びやすいだろう。マスコミにとってはいい
大人の事情ってこと……かな。
「ご家族の方にとっても、
「ッ……」
打つ手がない……。
ここにきて
「だから、
姉は硬直していた。
俺も同様に上手く切り返せる言葉なんか思い付かず、呆然としてしまう。
このまま、違う学校に転入することになるのか……?
もしかしたら、という不安がこうして現実化していく様をまざまざと見せつけられ、俺は詰まった息を上手に吐けなくて……ただただ、校長先生の口を眺めていた。
「残念ながら、日本では飛び級制度もありませんしね……海外の学校でしたら、試験を受けて
つらつらと他の進学候補の話を進めていく校長先生の言葉は、俺の耳を素通りしていく。
心が暗闇に落ちていくようだ。
『もうダメだ』と思い、俺は自分で自分の視界を黒く塗りつぶした。
これ以上は目に入れたくないので、瞳を閉じる。
聞きたくもない内容から耳を背ける。
そして、下を向き耐えるしかないと。
これが現実だし、俺が何と願おうと校長先生の主張は正しい。
諦めるしかない。
「校長先生、少し口を挟んでもいいでしょうか」
そんな絶望の淵で、第三者の凛とした声が響いた。
それはシスター・レアンの優しさに満ちた音だった。
「実はここにいる
フフフと微笑むシスター・レアンの顔を、俺は目を見開いて凝視してしまう。
一体、何を言うつもりなのだろうか。
「
そもそも、シスター・レアンはこの学校にどう関わっているのか。
「まさかここで彼とお会いするなんて、私も驚きを隠せません……ですが」
彼女が俺に向ける瞳には、愛する我が子に差しだすような穏やかさが満ちていた。
「これも虹色の女神様の思し召しでしょう」
そう宣言し、例の丸い円を胸の前で結ぶ祈りの動作をしたシスター・レアン。
なんとなく俺もそれに
自分のとった行動に、神頼みなんてよく言ったものだと、自分にちょっぴり呆れてしまう。
ゲーム内では自身の道は自分で切り開く、錬金術を極めようとしているのに。現実では、こうも脆い。今、俺にすがれるものがあるとしたら、それは神だけかもしれない。
そんな自分の矛盾するあり方に、ほんの僅かに肩を落としてしまう。
「私の
そんな俺に、新しい道を示唆したのはシスター・レアンだった。
「それはそれは……『聖イリス教』学校教育連盟に所属している、学校法人に入学させるという事ですか?」
彼女の提案に、校長先生は『ふむ』と思案顔になる。
「そうです。さらに交換留学生として、新しく連盟に加入するこちらの高校に通わせるというのはどうでしょうか? 『
「交換留学生ですか……しかし……」
「こちらの高校は、すぐ学校教育方針に『
「我が校は創立以来、普通高校だったのでして……準備には、お時間がかかります」
「新たに『聖イリス教』の姉妹校となるのです。
「ですが……それでも安全面の保証が」
「『
ハッキリと言い切るシスターの姿は『女神様に仇成す者には、鉄槌を』と言わんばかりの不動の何かを感じた。いつも柔らかい雰囲気をまとっているシスター・レアンの、新しい一面を見れた気がする。
「また、教会関係者に対する安全保証は、教会側が受け持っているので学校に責任を問われる事もないでしょう」
強い口調のシスターからは言外に、悪を打ち砕く鈍器は容赦なく振りかざすとひしひしと伝わってきた。
「なるほど……」
ここで心底納得の表情になる校長先生。
つまり、もし俺に何かあった場合の責任問題を学校側が問われるというのが一番のネックだったようだ。
「性転化に見舞われ、困難に立ち向かう生徒へ、信に熱い待遇。人々はその学び舎にある長をなんと評価するのでしょうか。校内敷地への
シスター・レアンが詰めの一手とともに、ニコリと笑みを校長へと向けた。
「……コホン。我が校の理事長のご友人がそこまで申されるのでしたら、
圧倒的な
「ちょっと……待ってください」
どんどん勝手に話が進むのに待ったをかけたのは姉だ。
「つまり、
「そうなりますかね」
校長の断言に、姉はいぶかしそうにシスター・レアンの方を見た。
姉が『虹色の女神』信仰に疑念を抱いているのは、前々から俺は気付いている。
だが、この条件なら俺が学年も学校も変わらずに、友達と一緒に入れる事を可能とする唯一の方法だと理解しているからこそ、姉は反対意見を出さずに様子を見てくれているのだろう。
それに、このシスターの教会には前から義妹であるミシェルも通っていたのだ。変な団体でないはずだし、このシスター・レアンの人格だってそうだ。熱中症で倒れたところを助けてくれ、今は窮地に立たされた俺に再び救いの手を差し伸べてくれさえいる。
そこらへんを加味しても、信用できそうである。
「わかりました……まだ、決定したわけではありませんが、太郎が在籍する予定の学校資料や、その……『
「それならば、こちらに」
いつの間にか、シスター・レアンがパンフレットを手に持ち、静かな所作でテーブルへと載せた。
「では、
校長先生がそう言ってパンフレットを開き、姉にプリントを数枚渡し始める。
それに素早く目を通していく姉の表情は真剣そのもの。
一文字たりとも見逃さない、そんな気迫が見てとれた。
「校長先生。もし、
「ならば、
書類を読みながら、姉は視線をシスターに向ける事すらなく、冷たく言い放った。
「シスター服の寸法を改めて計ります。この年頃の身体の成長は著しいですからね。教義の開示につきましては、教会が運営する学校に入学する前に、少しでも本人の思想を優先したい教会の意向です。彼自身の意志を確立した上で入学するのに、必要な義務の一つです」
暗に教会部外者である姉を弾くような物言いだが、どの組織にも少しぐらいの機密事項はあるだろう。
それに服の採寸を……校長先生の前でやるのは、遠慮したい。
教義に関しても、『虹色の女神』の教えに関する説明もなしに入学して、後から実はすごく厳しい戒律と掟があって、それに従わなければならない、なんてオチは嫌だ。
「姉、俺は大丈夫だから」
「…………太郎がそう言うのなら」
ほんの少しだけ間を空けた姉は、不承不承といった体でOKを出してくれた。
「何かあったらスマホで、すぐに連絡すること」
「うん、わかったよ姉。書類の方は任せるね」
「ええ。任せて」
俺達の短いやり取りを黙って見ていたシスター・レアンへ、ふと視線を向ければ、すごく滑らかな動きで一枚の白い服を取り出していた。
所々、金の刺繍が入った――。
あれ?
今、一瞬……。
シスターが
いや、そんなはずは……ないよな。
きっと見間違い、であるはず。
だって、ほら姉も校長も何も指摘してない……って、二人は書類とにらめっこしていた。
「では校長先生。隣にある女性教職員用の着替え室をお借りしてもよろしいですか?」
「どうぞ、お使いください。シスター・レアン」
なぜだか、わからないけれど。
シスターに愛想笑いを浮かべながら、返事をする校長先生の顔が不気味に思えた。
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