井戸端ドタバタ会議

渡貫とゐち

第1話 散歩道

「おいねーちゃん」


 小学生の弟が、登校時間にもかかわらず家にいる……、そう言えば、今日から夏休みだったっけ? と曜日の感覚……どころか、時間の感覚もなくなってきた引きこもりの姉である。


 彼女は弟の足下にいる飼い犬に視線を奪われた。

 先月、知り合いから引き取った小型犬だ。なぜだか知らないけど懐いてくる小型犬(子犬ではない)に、未だ慣れていなかった。

 人に触られるのが……いや、犬なんだけど……――嫌いなのだ。

 たとえ家族でも、怒鳴られるのは大丈夫でも、触られるのはがまんできない。


「な、なに……」

「おれ、今から遊びにいくから。『モフゾウ』の散歩しといてよ」


「……わたしがこの子のこと、苦手だって知ってるでしょ……?」


「うん。でもリードをつけて、モフゾウの後を追うだけならできるだろ? 近くの公園までいって、戻ってくればいいから。明日はおれがやるし……今日だけ頼むよ、ねーちゃん」


 ぱん、と両手を合わせてお願いしてくる弟に、唇を波線にしながら悩む姉である。

 二つ返事で「いいよ!」と言うべきだが、しかし姉は引きこもりである。家から出たことがない……とは言い過ぎだが、日中に出たことは数年で数回程度だろう。


 基本、夜に行動することが多いからだ。いつもならば今もまだ眠っている時間のはず……、弟に馬乗りになって、叩き起こされなければ。


「冷蔵庫にあるプリン、食べていいから」


「そんなことに釣られるわたしだと思われていることがショックなんだけど……」


 プリンなんかいつでも買って食べれるし……、しかし、いざ自分と買おうとすると「別にいいか……」となるので、意外と食べる機会は少ない。


 もちろん、弟の可愛い交渉に屈したわけではないけれど、夏休みであれば登校中の小学生も、中学生も――同じ制服に袖を通す同級生とも会うことはないだろう。

 なので『今日だけ』なら、重い腰を上げることにした姉だった。


「分かったわよ。ほんとにいって帰ってくるだけだからね?」


「フンは処理しろよ」


 きゃん、と、高い声で鳴いたモフゾウが、「任せたぞ!」と言っているように聞こえた。




 リードをつけて外に出た途端、モフゾウが勢い良く走り出した。


 小型犬なので強く引っ張られることはないが、一瞬、ぐっと持っていかれたので、引きこもりによる運動不足? 筋力の低下をあらためて自覚した。


 最近では二階の自室へ上がるのにも一苦労に感じていたところだった。

 ……まだ十五歳なのに……それとも、もう十五歳?


 そう言えば、同級生は受験勉強の真っ只中である。

 考えないようにしていたけれど、目を逸らし続けることにも限界があった。逸らすことがストレスになっているのならば、見た方が安全なのかもしれない。


 だけど見たからと言って……? 今更だ。引きこもっていた人間が、『高校にいきたいから』という理由で簡単に学生に復帰できるものなのか。


 制度上、できるべきなのだろうけど、やっぱり引きこもっていた負い目がある以上、周りと合うように引っ張り上げてもらうのは、ずるく感じてしまう……。


 じゃあこのまま引きこもり続けて、学校にいかない、勉強もしないというのは、社会不適合者を育てているようなものなのではないか……。


 不適合ならまだいい、不利益を与え始めたら――親にも悪い。


 ……どこで踏み外したのだろう?

 敷かれたレールではなく、そもそもで、道を。



 公園に辿り着いた。

 モフゾウは中に入りたがっているが、小学生よりも小さな子たちが遊んでいたので、外周をぐるっと回るだけにしておこう、とリードを引っ張る。


「えー」みたいな顔で見上げてくるが、こればかりは譲れない。小さな子たちに囲まれたら、上手く対処できない自信がある。モフゾウが全て相手してくれるならいいけれど……。



「あれ、朝井あさいさん?」



 不意に言い当てられた自分の名前に、ぴたりと足を止めてしまった。――人違いです、と言うまでもなく、そそくさと去ってしまえばいいと思っていたが……不覚である。


 伸びたリードがぴんと張って、モフゾウが声の主へ尻尾を振っている。

 振り向けばそこにいるのだ……聞いた声の主が。


「わんちゃんを飼っていたんですね……この子のお世話で引きこもり?」


 振り向くと、なぜか夏休みなのに制服姿の同級生がいた。


「お久しぶりです。……あれ? もしかして、覚えていませんか?

 私です、深野ふかの奈良ならですよ」


「……覚えてるよ。学級委員長の……深野さん」


 深野奈良。彼女の性格もあるだろうが、『深野なら』どうにかしてくれる、というダジャレが始まりだった。


 小学生の時に、先生、同級生問わず、なんでもかんでも頼られて、彼女は毎度毎度、問題を解決してきた。

 気づけば彼女は学級委員長になっていたし、みんなからの信頼も絶大だった……もちろん、引きこもっていた朝井もそうである。


 引きこもり始めた時に、学校にきてほしいと説得しようとしてくれたのは彼女だった……彼女だけだった。

 別に、声をかけてくれない他の同級生を恨んでいるわけじゃないが……。


 声を無視し続けたのは自分だ。


 中でも深野だけが、諦めていないだけで。

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