春よ。

 無事に冬を越えて、雪室の食糧の安全性も確認されて。

 少ししてから、勉強の成果が出た頃だったと思う。


 突然、ローシュさんの声とは全く違う筈なのに、聞き間違えて返事をしてしまった。


 《帰ろうか》


 その言葉に返事をしてしまい、挨拶も出来ないままに帰って来た。


 刺青は、無い。


 けど最初の記憶が。

 有るけど、朧げになりそうで。

 だからもう、無我夢中で書いた。


 食事も最低限でバイトも休みを入れて。


 書かないと。

 忘れない様に書かないと。


 なのに、大事な所が抜けてる。


 隣の人の、名前が思い出せない。


 ずっと向こうでの名前で呼んでたから。


 いや、知らなかったんだ。

 お守りの中身を、多分、僕は最後まで読まなかった。


 そうだ、隣は。


 音が聞こえない。

 何の音もしないで、何日経った。


 3日。


 どう、何て、呼び掛け様よう。


『あの、隣の者なんですけど』


 返事は無い。


 あぁ、窓を開けてたって言ってた気が。


 空いてる。

 けど夜なのに、真っ暗で。


 そうだ、大家さんに。

 いや、警察の方が良いのかな。


 何か、処分して欲しいって。


 そうだ、大家さんに相談して、立ち会わせて貰おう。


 名前。

 あぁ、そうか、だから赤色ローシュなんだ。




 もみじさんは、死後2日経ってたそうで。

 それこそ僕が戻って来て暫くして、亡くなった、と。


「困るわぁ、前の子もだし。まぁ、その時は1週間を過ぎててもう」

『生きてたら年齢に関係無く死んじゃうんですし、僕の知り合いは20才で死んでますし、嫌なら誰にも貸さない方が良いと思いますけど。そうなると困るんですよね?』


「まぁ、そうだけど」

『僕、知り合いですし、なんなら隣に住み替えましょうか?』


「あら、それは助かるは助かるけど、怖く無いの?」

『死ぬのは凄く怖いですよ、けど、自然死なんですよね?』


「まぁ、心不全だってのは聞いたけど、ほらタバコが有ったじゃない」

『部屋から匂いはしてませんでしたし、偶にだって聞いてましたけど。あ、嫌なら大丈夫ですよ、更新料とか手数料とかをタダにして貰おうかなって思ってただけなんで』


「それこそウチも助かるし全然良いんだけど」


『清掃が入るんですし、それこそ畳は替えるでしょうし。けど、アレですよね、友達だったって信じてくれなくても』

「あ、いやいや、それこそお身内の子が亡くなった事を隣人だって程度では言わないでしょうし。けど、本当に良いの?」


『荷物の整理を頼まれてるんですけど、ご親族の方に疑われてるんですよね、実は』

「あぁ、けど元の旦那さんへの恨みつらみが書かれたのだとか、他のご家族の事も書かれたのが出て。ちょっと揉めてるみたいだものねぇ」


『覚え書きも何も無いんですけど、ちょっとだけ証言して貰えませんか?財産は要らないから、遺品整理をさせて欲しいって言ってるって』

「弁護士さんにね、良いわよ、あの子の知り合いさんらしいから。えーっと、はい、ココね」


『じゃあ、もう少しお時間良いですか?このまま掛けちゃおうと思うので』

「あら、そしたら私が1度掛けて言っておいてあげるわ。えーっと、藤堂」


久利夫くりおです、藤堂とうどう久利夫くりお




 ココから先は、僕の想像でしかないけれど。

 僕が帰った事で、ローシュさんはやっとルツさんとアーリスさんと、ちゃんとしたお付き合いを始めるんだと思う。


 もっと、ちゃんと想像したいけれど。

 ルツさんの顔も王様の顔も、もう既に朧げで。


 ローシュさんの顔は写真が有ったから、見れば思い出せるけど。

 ココに書いた事以上の事は、もう殆ど思い出せなくて。


 けど、話してた事とか、何か見聞きすると偶に思い出せる。


 あぁ、コレ誰かが言ってた様な、って。


 忘れたくなかったのに。

 毎日毎日、どんどん色褪せてく。


 ココを見て、何とかルツさんの名前も思い出せる位で。


 思い出せない事も、段々、悲しくなくなってきてる。






 長い夢を見たんだなと。

 読み返してみて、やっとそんな感じだけ。


 椛さんの名前と顔は、写真を見たら思い出せるけれど。

 こんな顔だったかな、名前だったのかなって。


 でも凄く、勇気を貰える気がして。

 偶に手を合わせて拝んでる。


 大学も卒業出来て、就職も出来た。

 それこそ椛さんの元旦那さんの会社で、毎日顔を合わせるのか心配だけど。


 父親と家族の事は和解出来たし。

 恋人も出来たから、そろそろ、巣立とうかなと思う。






 長い間、見ないで居たけれど。

 完全に忘れる事は無かったのか、ココを見ると情景が浮かんでくる気がする。


 息子がこの時の自分と同じ年になったからなのか。

 不治の病に掛ったからか。


 あんなに死ぬ事が怖かったのに、今は凄く待ち遠しい。


 僕は凄く頑張ったと思う。

 働いて、育てて、後は孫の顔かなと。


 けど、だからこそ、後悔は無い。

 自慢できる息子と娘に育ったから、凄く誇らしい。


 あぁ、けど早死するから奥さんには申し訳ないと思ってる。

 世界一周旅行をしようって約束していたから。


 だから、僕以外とどうか、まだ人生は長いから。

 再婚して、その人と行って欲しい。


 多分、あの人も、そう言うだろうから。




 最近、良く夢を見る。

 椛さんの姪っ子さんぽい子に、温泉宿を案内して貰ったり。


 かと思えば椛さんそっくりな子を、アーリスが背に乗せて飛んでいたり。


 それから昔の事も、凄く良く思い出せる様になった。

 多分、痛みから逃れる為も有ると思う。


 やった事が無い筈なのに、バカみたいに寒い冬に、紙漉きをしたり。

 ルツさんの黄金竜の背に初めて乗った時の事を思い出したり。


 コレは、思い出してる、で良いんだろうか。

 足裏に刺青は無い、それこそ証拠はココだけ。


 陰謀論にも巻き込まれなかったし、書いた物が売れるワケでも無かったし。




 あぁ、また向こうに戻りたい。

 魔法が有れば、こんな痛みも消えるのに。




 生まれ変われた。

 そう思って目を覚ますと、家の天井だった。


 家に帰れて喜ぶべきなのに、ガッカリしてしまった。




 痛い。

 もう無理だ。

 ローシュさん、早く迎えに来て。




 《帰ろうか、クーちゃん》

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