ミ・シン 魔法主婦の出撃

ミコト楚良

1  一日のはじまり

「いってらっしゃい」

 きっかり午前7時25分。キワ子は夫を送り出す。

「今日は、できるだけ定時で帰るよ」

 夫は、左手に〈燃えるゴミ〉と赤い文字で書かれた45リットルのビニール袋、右手に黒いナイロンブリーフケースを持って出社していった。


 郊外の住宅地の屋根越しに見上げる空は、青い。

 朝のテレビ番組のお天気キャスターは、「洗たく物が、よく乾くでしょう」と言っていた。

 夫を送り出したキワ子は、まず、パソコンのメールチェックをする。先程、れたドリップパックのコーヒーを飲みながら、雑穀クッキーをむ。

 隔週注文のオーガニック野菜の配達日と、ウォーターサーバーの水の配達日を、仕事が休みの水曜日に調整した。土日は、もとより休みである。

 

 洗たく物は昨夜のうちに、残り湯で洗っている。

 それを2階のベランダに干して、ざっと1階をフローリングワイパーで拭いた。それから、キッチンで洗い物。

 仕事にとりかかる前に、できることはしておく。

 キワ子は在宅で、ミシンの縫製の仕事を請け負っている。


 午前10時。

 キワ子は2階に上がった。

 2階の南向きの東の部屋は、〈キワ子のミシン部屋〉である。

 キワ子と夫には子供がいないから、建売住宅のありがちな間取りで本来なら子供部屋になるだろう部屋が、キワ子の仕事部屋になっていた。

 ここが子供部屋になる日は、おそらく来ない。


 午前中の日の光が、レースカーテン越しに差し込むその部屋で、キワ子は深く息を吸って吐いて、ミ・シンのスイッチを入れた。


『少尉、遅いっ』

 ミ・シンの拡声器部分から、中尉の声が響いた。

「フレックスのはずですよね。わたくしは」

 キワ子の、ととのえられた細眉の片方が、ぴくりと不服を申し立てる。

『こっちは未就学児童、2人預けに行ってから、スタンばってんだよ。少尉が遅れてくるってありえないだろっ』

 この上官の下について、まだ2か月だ。この仕事は、バディを組むとしても顔を合わせることはない。

「中尉の家庭事情は、わたくしは存じ上げません。高齢出産、ご苦労様です」

 あくまでビジネスライクな関係である。

『上官をうやまえよ……』

 ちっと、舌打ちが聞こえてきそうだ。

「わたくしは、いつ除隊になっても構いませんの。前任地で夫の転勤の際も申し上げました」

 

 4年前に結婚した。

 3年前に、この地方都市に引っ越してきた。

 2年前に建売住宅を買った。

 半年前に不妊治療をやめた。

 今、ここだ。


『とっにかく。配置につけ!』

「らじゃー」

 キワ子の目が、静かな戦意をたたえはじめた。

 ミ・シンの側の白い段ボール箱には、14センチ角の布地がため込んである。

 この布を2枚、中面に合わせ、端1センチを直線縫いしていく。あとでひっくり返すために、2センチほどは縫ってはいけない。

 ひっくり返して、ミ・シンで縫っていないところは、手縫いで閉じる。

 そうすれば、コースターの完成である。

 それは、目くらまし。


 キワ子は、ミ・シンの針が落ちる先に、布地をあてがった。

 実際の布を縫い、縫い目が目に見えることで、確実に、時空の裂け目を閉じている手ごたえが伝わってくるのだ。糸は、空に映えるように銀色だ。

「発進!」

 キワ子は、時空の裂け目を縫っていく。

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