ミ・シンは世界を救う

ミコト楚良

一日のはじまり

「いってらっしゃい」

 きっかり午前7時25分。キワ子は夫を送り出す。

「今日は、できるだけ定時で帰るよ」

 夫は、左手に〈燃えるゴミ〉と赤い文字で書かれた45リットルのビニール袋、右手に黒いブリーフケースを持って出社していった。


 よい天気だ。

 洗濯物が乾きそう。


 まず、キワ子はパソコンのメールチェックをする。コーヒーを飲みながら雑穀クッキーをむ。

 いつもの平日の日課だ。


 洗たく物は昨夜のうちに、残り湯で洗っている。

 それを干したら、仕事にとりかかる準備に入る。


 キワ子の仕事は内職のミシン縫いだ。



 午前10時。

 キワ子は2階に上がる。


 2階の南向きの東の部屋は、夫曰く、〈キワ子のミシン部屋〉である。

 キワ子と夫には子供がいないから、建売住宅のありがちな間取りで本来なら子供部屋になる部屋が、〈キワ子のミシン部屋〉になっていた。

 ここが子供部屋になる日は、もう来ないと思う。


 午前中の日の光が、レースカーテン越しに差し込むその部屋で、キワ子は深く息を吸って吐いて、ミ・シンのスイッチを入れた。


『ワルキューレ、遅いっ』

 ミ・シンから、中尉の声が響いた。


「フレックスのはずですよね。わたくしは」

 キワ子の、ととのえられた細眉の片方が、ぴくりと不服を申し立てる。


『こっちは未就学児童、2人預けに行ってから、スタンばってんだよ。少尉が遅れてくるってありえないだろっ』


 この上司の下について、まだ2か月だ。この仕事は、バディを組むとしても顔を合わせることはない。そういう規則だ。


「中尉の家庭事情は、わたくしには関係ありません。高齢出産、ごくろうさまです」

 あくまでビジネスライクな関係だ。


『上官をうやまえよ……』


「わたくしは、いつ除隊になっても構いませんの。前任地で夫の転勤の時に申し上げました」


 5年前に、この地方都市に引っ越してきた。

 2年前に建売住宅を買った。

 1年前に不妊治療をやめた。

 今、ここ。


『とっにかく。配置につけ!』


「らじゃー」

 キワ子の目が、静かな戦意をたたえはじめた。

 ミ・シンの側の段ボール箱には、14センチ角の布地がため込んである。

 この布を2枚、中面に合わせ、端1センチを直線縫いしていく。あとでひっくり返すために、2センチほどは縫ってはいけない。

 ひっくり返して、ミ・シンで縫っていないところは、手縫いで閉じる。

 そうすれば、コースターの完成である。

 それは、目くらましだが。


 キワ子は、ミ・シンの針が落ちる先に、布地をあてがった。

 実際の布を縫い、縫い目が目に見えることで、確実に、時空の裂け目を閉じている手ごたえが伝わってくる。

 糸は、空に映えるように銀だ。


「ワルキューレ、発進」

 キワ子は、時空の裂け目を縫っていく。

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