エピローグ 現在
現在――二〇二一年 十二月二十九日 水曜日①
〈あと五分で着く〉
ジーンズのポケットからスマホを出してメッセージを送る。
晴れ渡った夜と静謐な森に囲まれた赤黒い洋館まであと少し、屋根もベンチもない時刻表案内板があるだけのバス停で白いミニバンは停車した。杏奈は二列目シートの左側に座っている。右側の座席にはボストンバッグを置いてあった。バッグの中身はノートパソコンと数日ぶんの着替えのみ。シートベルトを外して、膝の上に載せていたダウンジャケットをTシャツの上に重ねた杏奈は、ゆるんでいたスニーカーの靴紐を締めなおした。
運転席の母親に礼を言って車から下りる。
「――もう戻ってこないかと思っていました。お帰りなさい」
真鍮製のドアハンドルに手をかける前に内側から扉がひらいた。笑顔で出迎えてくれたのはモナカだ。時刻は十八時すぎ、管理員は退勤している。
「部屋の契約、三月まで継続する予定だから」
杏奈も笑顔で応じつつ寮内に帰還した。「たまには帰ってくるかも。ただいま」
オートロックのガラス扉を通過、階段で地下フロアへと下りていく。
「モナカはさびしくなかったの?」
「全然」
素っ気ないけど、これがいつもの彼女だ。いつもどおりだから安心した。寝間着代わりのスウェットのセットアップに草履という出で立ちも相変わらずだった。
「事件以来、メディアの方とお話しする機会が多くて、にぎやかでした。取材は基本的にはお断りしていますが。わたしがつれないので、最近はマスコミの皆さんもお越しになりません」
事前にモナカからこの話を聞いていたから杏奈は戻ってきた。
十二月二十九日、水曜日。あれから一週間、そのあいだに警察から質問されたり、マスコミや
いっそのこと寮に戻るか。そのほうが少なくとも実家には迷惑がかからない。
そう思い、モナカに連絡したのだ。ここ二日ほどはマスコミも野次馬も来ていないらしい。モナカの冷めきった対応と立地の悪さがめずらしくプラスに働いたのだろう。
「さびしくなどありません。わたし、ひとりじゃないですから」
「そっか。先輩は?」
地下フロアのしんと静まり返った廊下を歩いていく。
「佐絵さんのことですか?」と、モナカはとぼけてみせた。
「佐絵さんは逃亡中でしょ」
苦笑いの杏奈は、展示室の入り口の前に立った。木製の分厚いドアは警察が証拠品として持ち帰ったままなので、展示室のなかが丸見えだ。
「佐絵さんから連絡は?」と杏奈が訊くと、モナカは首を横にふった。
あのあと、警察に通報する前に佐絵と取り引きをしたのだ。
佐絵を無罪放免にはできないが、最後の最後には寝返ってくれた。通報するのを少し待つからさっさと逃げてほしい。ただし幽霊に当たった弾丸と、そのぶんの
若葉はあのとき五発撃った。床や壁に当たった弾丸は問題ない。問題は幽霊に当たった二発ぶん。その二発はひしゃげていたが、展示室のどこにも
事実、若葉は警察に「幽霊に襲われた」と供述しているそうだが、さっぱり相手にされていないという。週刊誌にそう書かれていた。面白おかしく。
だから幽霊の話はしないし、してしまったら杏奈の日常生活にもさらなる支障が出る。モナカも今後の活動の邪魔になると判断した。「幽霊の実在を世間に公表するつもりはありません」と言ってくれた。「世間に認めてもらいたくて幽霊の実在をたしかめたかったわけではないですから」だそうだ。そんなわけで、発見されたら不都合な二発の弾頭と薬莢は、逃亡するついでに佐絵に引き取ってもらった。
その佐絵が別れの直前まで気にしていたのが、ルビーリングのありかだ。九億円だから無理もないが、「……ああ、そういうことか」と佐絵は別れ際になって自分で気づいたらしい。答えがわかったよと言外に語る微苦笑を残して、杏奈たちの前から姿を消した。
あれから一週間、杏奈はモナカと一緒に展示室に入った。誰もいない。モナカが呼びかけるまでは、そうだった。
「りんか先輩、出てきてください」
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