7 怨霊
モナカは現れた幽霊の足もとを指さした。赤いパンプスのハイヒールを。
「八年前の事件のときの、吉野りんか先輩の格好そのまんまですね。霊能力者だった祖母が言っていました。幽霊、とりわけ怨霊は、死んだときの服装で現れることが多いと」
パンプスの音が、カツン……カツン……と展示室内に響き渡っている。そう、展示室内だ。吉野りんかの怨霊は、隠し部屋から展示室へと移ったらしい。
「ありえん!」血走った目で若葉が怒号した。「ありえてたまるか!」
佐絵がスレッジハンマーを落としたままなのを確認した若葉が銃口を幽霊に向けた。
「幽霊などいない。証明してやる!」
「無駄なことを」
モナカが嗤ったのと、銃弾の発射は同時だった。鳩マスクの額に銃弾がめりこんでいく。幽霊――そうとしか思えない人物は、うしろへと仰向けになって倒れこんだ。
「ほら、死んだ」
若葉が
幽霊なのに? それとも若葉の言うとおり幽霊じゃなかったの……? 杏奈も佐絵も、床に倒れた人物を呆然と
「死んでますよ、そりゃあね」
モナカだけがおかしそうに笑っている。「幽霊ですから。あなたに倒されたわけじゃない。死んでも死にきれないのが怨霊です」
「アホめ! 現に倒れているだろうが。たしかめてみろ!」
「たしかめてみろ? その言葉、そっくりそのままお返しします」
モナカが若葉に反論してすぐだ。むくりと、その人物が起きあがった。手を使わずに、倒れていた本を垂直にしたみたいに一気に。生きている人間の動きじゃない。生きている人間は、こんなことできない。杏奈は、だから確信した。
本物だと!
スイカの種を吐きだすみたいに、鳩マスクの額にめりこんでいた弾丸がぽとりと落ちる。鳩マスクは無傷だった。銃弾がめりこんでいた箇所がくぼんだだけ。傷ひとつ見当たらない。そのくぼみも数秒で元どおりになる。あの鳩マスクは、ふつうのかぶり物ではないということだ。額を銃撃されても無傷だなんてありえない。でも、本物の幽霊なら――。
「バカな……!」
うめいた若葉がもう一発、今度は幽霊の胸に向かって発砲した。
直撃だ。直撃のはずが、幽霊はもう銃弾ごときではびくともしない。
先端のつぶれた弾丸が床に落ちる。
幽霊が少しだけ足早になって歩きはじめた。茫然自失の若葉に向かって。
悲鳴をかみ殺した若葉がもう一発、二発、三発と銃弾を立てつづけに連射する。ほぼ至近距離だ。ふつうなら当たっていたと思うが、相手も、若葉の精神状態も、どっちもふつうじゃない。打ちひしがれた様子の若葉の顔を見ればわかる。相手の額を狙って撃ち放った銃弾は的を外れ、床や壁に跳ねてコンクリートをけずったらしい。若葉の目が、唇が、肘が、膝が、指先が激しく震えていた。だから外した。
幽霊の青白い両手が細かく震える若葉の両手首をしっかりとつかんだ。拳銃が床に落ちる。若葉は
若葉が何事かさけぶたびに、幽霊の背後に人の顔が次々と浮かびあがった。そのうちのひとりは……あの子だ! 杏奈の小説の題材にした事件の当事者。モナカとの会話ではXと呼んだ少女の恨めしそうな顔が、霧のように薄ぼんやりと浮きあがっている。ネットに流出していた彼女の顔写真を何度か見たことがあるから、まちがいない。少女Xだ!
「お父さん、お母さん……ごめんなさい。おばあちゃんも、みんな、ゆるして!」
若葉は泣き顔でゆるしを
「残留思念です」
モナカが杏奈を見て言った。「杏奈さんには前に説明しましたよね。霊能力のない人間でも、強い感情を残して死んだ者は霊体の一部をこの世に残すことができると」
憶えている。話を聞かされたときは、まったく信じていなかったけれど。
「自分を殺した相手にせめて怨念の
してくれた。杏奈はうなずきながら、残留思念を背後に浮かべた吉野りんかを見た。赤ずきんのコスプレをした幽霊が若葉を押し倒すところを見た。若葉が
それでも、どうしても気になって、横目で窺うと、吉野りんかの幽霊が若葉の耳もとで何事かささやいている。友だちだった人は何度も何度も、もうそれしかできなくなったみたいに小刻みにうなずいていた。目を見ひらき、ぱくぱくと口を金魚のように動かしながら……。神経も心も焼ききれたような表情だ。
のっそり幽霊が起きあがる。床に
「助けてくださって、ありがとうございました、吉野りんか先輩」
モナカが幽霊にお礼を言う。佐絵はあんぐりと口をあけたままだ。尻餅をついていた杏奈は、あわてて腰を上げた。
幽霊がふり向いてくれた。命の恩人だけど、幽霊は幽霊だ。杏奈の心臓が跳ねあがる。と同時に、手袋をした幽霊の手が赤い目の鳩マスクにかかった。ゆっくりとマスクが外されてゆき……写真で見た吉野りんかの顔が現れた。
儚げに微笑んだ吉野りんかは、赤いハイヒールの足もとから透明化していく。杏奈は無意識のうちに腕を伸ばしていた。なぜそうしたのか自分でもわからない。ただ、そうしたかったから、したのだと思う。
無事でよかった――りんかの唇が、きっとそんなふうに動いた。
幽霊の全身はあっという間に透明になって、音もなく消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます