第七章 現在――真相

1 部屋のなかにあったもの①

 十二月二十二日、――。


 突然、襲いかかってきた鳩の顔の赤ずきん。スレッジハンマー持ちの赤ずきんから逃れるために、杏奈は地下展示室に立てこもってバリケードを築いた。ほどなくして四つの台座の謎を解くと隠し部屋が現れて、いまぎもを抜かしている真っ最中だ。隠し部屋のなかは真っ暗だった。電気のスイッチがどこにあるのかすらわからない。


 スマホをライト代わりにする。ディスプレイに現在時刻、十八時五十六分。


 つんと鼻をく妙な臭いがした。微かにだが、物が腐って長時間経過したのこのような臭いが漂ってきて、それから……消臭剤だろうか? そんな臭いもする。


 杏奈は氷沼紅子の『回想録』を床に置いて、右手で鼻と口をおおった。ライト代わりのスマホを前方にかざしながら、左手人差し指だけを器用に突きだして壁をまさぐっている。壁から伝わってくる冷たい感触の先にスイッチがあった。押すと、チカチカとまたたいたあとに照明の光が灯った。


 隠し部屋は見た感じ十帖ほどか……。灰色が基調の室内は立方体で、引き戸がある壁をのぞいて、残り三面に古美術品めいたしゅこうの壁面ショーケースを並べてあった。

 ひと目見て氷沼紅子の趣味だとわかるショーケースは、どれも空っぽだ。かつてはこのなかにルビーリングが保管されていたのだろうか? されていたとして、いまどこだ? 


 まさか床に落ちているわけがないよな、とは思いつつも、杏奈は視線を足もととその周辺にさまよわせた。隣接する展示室と同じコンクリートの床。そのまま視線を奥のほうへと移動させていくと……せんかいだん? 


 隠し部屋の最も奥まった場所にスチールめいた質感の螺旋階段がある。階段は天井に向かって伸びていた。ということは、この隠し部屋は地上一階とつながっていたのか? 


 杏奈が視線をさらに上へと向けると、天井が邪魔で先に進めそうにない。それとも、天井の一部が扉のように開閉するのだろうか? 


 螺旋階段のそばに寝袋がある。色が黒くて表面が若干盛りあがっているからか、一瞬、かんおけとまちがえそうになった細長い寝袋が床に置かれていた。


 盛りあがっているということは、人が寝ている……? こんなところで? 


 頭の部分にだけ灰色じみたタオルがかけられていた。タオルのわきに……。刃の部分がワインのように赤くて暗い。血がちゃくしたような色合いだ。そもそも、なんでこんなところに包丁が置いてあるの? と訝しみつつ、杏奈が「あの……」と呼びかけてみたが、寝袋からは反応がない。


 首もとから腹の底にかけてチクチクと突き刺さるようなかんが走った。脇と腹のあたりから嫌な汗もにじみ出てくる。杏奈は息を吐いて身構えた。身構えつつも、勇気を出して部屋の奥へと進みはじめたのは、手をこまねいて、危機的な状況に身をゆだねているだけでは死ぬと思ったからだ。おそるおそる寝袋からタオルを外してみると――がいこつ! 


 杏奈は時間が止まったみたいに硬直した。この瞬間ばかりはスレッジハンマーをふり回す赤ずきんのこともねんとうから消えたほどだ。


 頭が骸骨なら他の部分だってそうだろう。物が腐って長時間経過したような残り香は、この白骨死体が発生源にちがいない。消臭剤は死体の臭いを軽減するために使ったのだろう。


 展示室のほうから騒音が聞こえつづけている。スレッジハンマーでドアを乱打している音。みみざわりな騒音のせいで最初は気づかなかった――耳をすませば聞こえてくる換気扇の音に。換気扇を稼働させているのも、おそらくは死体から発生する臭い対策のためだ。隠し部屋の天井近くの壁に換気口。照明のスイッチのほうへと視線をずらすと、換気扇のボタンらしき物もちゃんと設置されていた。


 死体へと視線を戻すと、寝袋のなかの、骸骨の右腕のそばになにかが見えた。スマホの一部……かな? そんなふうにしか見えない物へと杏奈は手を伸ばしかけて、ためらった。


 まぶたを閉じて、ひらいて、ふたたび手を伸ばすと、やっとスマホをつまみ出した。ついでだ。寝袋のジッパーも下ろして全開にする。


 白骨死体は生地のほつれたセーターを着ていた。セーターの胸ポケットにボールペン。そのポケット付近の胸から腹にかけて何ヵ所かの切れ目がある。切れ目のあたりはどれも赤茶けたシミになっていた。


 杏奈は包丁を一瞥した。刃を染めているワインのような赤は、やはり血痕か。


 骸骨は地味な色のスラックスをはいている。靴はスニーカーだ。服装がメンズっぽい。この死体は男性なのかな? 見たところ、身長は一六〇センチ台前半。線の細い華奢な体型だ。骨だけとはいえ、服のサイズで生前の体つきはなんとなくだが想像できた。


 謎の死体、華奢な体型、八年前に行方知れずになった男――矢継ぎ早に連想した杏奈の脳裏に、とある人物が薄ぼんやりと浮かびあがって像を結んだ。


「古坂一郎……」

 古坂一郎の白骨死体だ。半ば確信した杏奈の頬がこわばっていく。

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