魔物語
森きいこ
正しき者だけ招き入れよ<吸血鬼>
しとしと絶え間なく降る雨が、カーテンのように視界を遮っていた。
少女は呻き声を漏らしながら、斜面を這って移動していた。左足がひどく痛む。
「……お腹が空いた……」
その長く美しい黒髪は雨を受けて艶やかに光る。
透き通るような、いいや、不健康そのものの青白い肌に漆黒の瞳が印象深い。唇や頬の色は褪せ、込み上げる痛みに時折体を痙攣させる。
雨の向こうにぼんやりと灯りが見える。
恐らく、人家だ。そこに行けば何とかなるだろう。
灯りが見えるということは人がいる。人がいるなら空腹も満たされるだろう。
運が良ければ、この足の傷も治るはずだ。
徐々に血の気が失せていくのが分かる。彼女は必死で這って行った。
「すみません、すみません」
壁の上部に灯りの取りの窓が見える。少女はそこに向かって声をかけた。
「あのぉ、誰か、誰かいませんか」
ややあって、室内で音がした。寝台が軋む音、ぺたぺたと歩く音。
「子供の声だ」
「入れてくれませんか」
聞こえてきた声は男だったが、少女は構わず尋ねた。
「……外は雨だろう」
「はい……入れてください」
寒い。
失血もあるし、雨も体温を容赦なく奪う。歯の根が合わず、ガチガチとうるさい音を立てる。
男はすぐそばに立っているようだった。一枚の壁の向こうで男と少女は向かい合っている。
「回れば扉がある」
「怪我をしているんです」
男は瞬間的に怪訝そうに尋ねた。
「怪我を?」
「はい……雨で見えませんでしたが、獣避けの罠がありました。左足を食われてしまって……なんとか引き抜いて逃げてきました」
「そうか……それは大変だったな」
雨で視界が悪かったし、少女は酷い空腹に襲われていた。
せめて野ウサギでもいないかと彷徨っていた時、虎ばさみに捕らえられた。
鋭い痛みに身を竦ませて、必死で左足を引き抜いた。脛に深く残ったいくつもの傷跡は、鋭い虎ばさみの刃の形通りに穴となった。
たくさんの血が雨と共に流れていく。
「雨も降っている。よくここまで来られたな」
「もう限界です。ですから、お願いです。私を招き入れて下さい」
「そのまま入口を見つけたらいい」
「お願いです。招待すると、入ってもいいとはっきり言ってください」
少女は奥歯を噛みしめた。
お腹が空いた、足が痛い、招き入れてほしい。招き入れると言ってくれれば……それだけで。
「どうして言わなくちゃいけない。ドアを開けたなら、勝手に入れるだろう。包帯もあるぞ」
「……そんな無作法なことはできません」
男が低く笑う声がした。何かを引きずる音の後に、明り取りの窓から誰かが少女を見下ろしていた。
冷たい目が少女をじっと見下ろしていた。
そして、男は片手をひらひらと振ってみせると、突然、自らの手のひらを、ナイフで傷つけた。
少女はごくりと息を飲んだ。
窓から差し出した手を、男がくるりとひっくり返し、血を滴らせる。
ちた、ちた。
少女の体は無意識にそこへ向かった。
地面に滴った血を、壁についた血を浅ましく伸ばした舌で舐める。彼女の白と黒で構成された姿の中でその舌だけが妖しく赤い。
「壁を舐めることは無作法ではないのか」
男は笑って、手を引っ込めた。
足りない……少女は明り取りの窓を見上げる。
けれども、わずかな血は深い渇望を呼び覚ましてしまった。
乾いている、力が出ない。
目の前にいれば、引き裂いてその血の一滴も無駄にせずに飲み干すのに、この壁一枚が遠い。
「お願いします。入ってもいいと」
「吸血鬼はルーマニアのものだと思っていた」
「お願いです」
「ルーマニアの吸血鬼は人種差別をしないようだ。東洋人も等しく仲間にしてくれるとはとても平等だな」
「お願いします」
足りない。
少女は壁に爪を立てた。がりがりと壁をひっかき、その爪からは血がにじむ。この血じゃない、もっと他の……
「君たちは本当に、招かれないと家の中に入れないんだな」
「お願いします……」
喉が渇いた、痛い、寒い……たすけて。
少女は男に懇願する。長い睫毛を震わせて、壁に縋りつく。明り取りの窓から見下ろしてくる男の目には、何の感情も浮かんでいない。
「雨が止みそうだな」
「寒いんです」
「吸血鬼も怪我で死ぬのか? 心臓に杭を打たないと死なないというが、招かれないと入れないのなら、伝承もあながち間違いではなさそうだな」
「お願い、入れて……」
男が窓から離れた。
ほのかな灯りがその窓から再び漏れる。
けれど、少女は呼び続けた。「入れて、開けて。私を招いてください」と。男は窓からこちらを覗くことはなかったが、近くで声を聞いているようだった。
いつの間にか雨が止んだ。少女は空腹と失血で朦朧としてきた。それでも呼びかけるしかなかった。
視界が狭くなる。もうだめかもしれない……吸血鬼も不死ではない。
最早土下座に近かった、倒れ込みぬかるんだ地面に額をつける。
「お願い……」
声はすっかり掠れていた。
「どうぞ。入口は回ったそちらにある」
「え……?」
「入りたかったんだろう? 招いてあげるよ」
「……本当に?」
男はあっさりと了承した。
少女は萎えた腕に力を込めて、再び這い、入口を探した。体の底から力を絞り出した。
「扉の閂を外してあげよう、待っていてくれ」
「ありがとう……ありがとう……!」
愚かな人間だ。
どうして招き入れたのだろう。
か弱く見えても、彼女は人間ではないのだ。
犬歯の疼きを感じる。
疼きが脳を支配して、彼女の中の残忍な獣を呼び覚ます。
中には人間がいる。少女を満たし、生きる糧となるべく食糧がいる。
閂を外す音が、いやにゆっくりと聞こえる。
招き入れた。それが答えだ。体が歓喜に震える。
「ほら、どうぞ」
男の声を待って、少女は扉を押し開けた。
不思議と力が込み上げて、痛む足を庇いつつではあるが立ち上がる。
「ありがとう」
「――……正しき者だけ招き入れよ」
少女は目を見開いた。
扉を開けた先で男は笑いながら、鏡を構えていた。
鏡には当然のように少女は映っていなかったが、そこにはうっすらと明け行く白んだ空が映っていた。
「まさか」
「よく見るんだ」
太陽が、あがる。
少女は焼き付ける痛みに絹を引き裂いたような悲鳴を上げた。
灼ける。
苦しい、痛い。
苦しい。
日に焼かれて、彼女はその場で悶えながら倒れた。
痛みに身を捩り、潰れた悲鳴を上げる。痛い、痛い。太陽が肌を刺す。
「――悪魔め!」
少女はそれだけを絞り出して叫んだ。
男は笑った。その唇は耳のそばまで引き裂いたように見えた。
「ほら、これがお前たちの焦がれる太陽だ」
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