空から天使が降る夜に~奇跡を手にした僕と壊れかけの世界~

たけざぶろう

【プロローグ】 空から天使が降る夜に

【1話】僕が死のうと思った日

 ……消えたくない。


 もう世界から必要ないのであれば、仕方がないのかも知れないけれど。

 まだ自分は何も残せていない。


 でも、消えるしかない。

 そう定められたのだから。


 ああ、あの光。

 遠く小く、ほのかに光る、あの澄んだ美しい光。


 あの光に包まれたら、どんなにか安らげるだろうか。

 あの光を手に入れられたら――


***


 僕は死ぬことにした。


 頭上に広がる真っ黒い空。

 昔、インクの壺を倒してしまった時、父さんのテーブルが真っ黒くなったっけ。

 でも、それよりも暗く、深い黒。


 満天の夜空に散りばめられた光の屑が、圧倒的な眩さで僕に降り注ぐ。


 ――ああ、何て綺麗なんだろう。


 まるで人生で初めて見たような。

 空から光の砂粒が舞い落ちるかのような。


 美しい夜空だと思った。

 これから人生の幕を下ろそうとしている自分に、神様が最後に見せてくれた奇跡。


 視線を下ろすと、眼前に広がるのは高台から望む地上の光の粒。

 僕も先ほどまでその中に混じっていた、人の営みと流れ。

 これから決別しようとしている世界。


 更に下の方、足元の方に視線を落とす。

 暗い闇がそこにある。

 崖の下は木々が鬱蒼うっそうと茂っていたはずだが、この暗さでは何も見えない。

 今からそこに向かいちて行くことを想像すると、一度は決めたはずの覚悟が揺らぎそうになる。


 いや、駄目だ。もう時間がない。

 躊躇ちゅうちょしてはいけない。

 目の前にある粗い造りの柵を越えて踏み出せば良いだけ。

 そうすれば、眼下に広がる暗い闇が僕を呑み込んでくれるだろう。


 でも、やっぱり怖いな。

 足元の水たまりに映る顔。月明かりに照らされた、今にも泣き出しそうな少年の表情じぶんのかお


 ふと。

 その水たまりに、小さな光が見えた。


 何だろう?


 顔を持ち上げると、ゆらり、ゆらりと、光る粒が舞い落ちてくるのが見える。

 崖下をのぞくまでは降っていなかったはず。なんだろう。


 少し早いけれど、季節外れの雪だろうか?

 それにしては粒が大きい。そして白いだけでなく、淡く光っている。

 まるで、夏に水辺で飛び交う小さな光の虫のような、でもそれよりも薄く優しい光。

 そんな光の粒が降っている。


 だから僕は夜空を仰いだ。そして――


 夜の暗さに慣れた目に染みる、まばゆいほどの光が、ゆっくりと落ちて来た。

 これほどの存在感、どうして今まで気づかなかったのか?

 まぶしいのに不思議と目に優しいその光にやがて僕の目がなじむと、それは人の形をしていることが分かった。


 いや、ちょっと違う。


 仰向けに、ふわりと降りてくるその背中には、大きな翼が生えている。

 この優しい光は、全身と、とりわけその翼から発している。

 温かい陽だまりのような淡い光で全身を包まれた、光の翼を持つ少女。


 ふわり。


 あお向けの体勢でゆっくりと降ってくる真下に行き、彼女を両手で受け止めた。

 まるで羽毛のように軽いその体は、幻想的な外見と相まって現実感を失わせる。

 でも、目の前に、確かにその少女は存在した。

 自分よりは年上だろうけど、それでもまだ若く、そして見たこともないほどの美しさ。


 白色かとも思ったほど澄んだ輝きを持つ髪は、よく見るとプラチナブロンドの色を持ち、自身から放たれるほのかな光でうすく輝いている。

 肌は抜けるように白く、白色に近い髪の色と相まって、澄んだ泉の水のように透き通っている。

 その彼女がまとうのは、肌理きめ細やかな白色の生地に金糸で縁取りをした神官服。


「ん……」


 僕の腕の中で少女が少し声を上げる。

 あまりの軽さに夢か幻かと思ってしまうが、どうやら実際にそこに居るし、そして生きているようだ。


 ほっと胸を撫で下ろす。


「ねえ、君……?」


 そこで僕は少し困る。

 ほとんど重さを感じさせないその身体は抱きかかえ続けていても疲れを感じないけれど、こんな美しい少女の近くにいつまでもいることが心苦しい。なにしろ、僕はあまり綺麗なをしていないのだから。

 とはいえ、どこかに彼女を降ろすような場所も見当たらない。

 この辺は剥き出しの地面で綺麗な神官服が汚れてしまう。


 彼女の顔を改めて見る。


 その透けるように美しい白い肌は、不健康というより人外を感じさせる。

 実際に、彼女の肌はほのかに発光しているようで、この暗がりでも良く見えた。

 同様に淡く光るプラチナブロンドの髪は宝石のように煌めいている。


 ――あきらかに、人間の美しさではない。天上のそれだ。


「天使……様?」


 背中の大きな翼を見詰めて、僕は声を漏らす。

 そして思わず美しいその頬に自分の手を伸ばして触れて――


「おい、ジン! てめぇ、そんなところで何をやっているんだ?」


 突然背後から声をかけられて、思わずびくっとしてしまう。

 この少女の頬に思わず触れてしまったという罪悪感から、その声に気を配る余裕がなかった。

 しかし、気持ちが少し落ち着いてくると、疑問が湧き出てくる。


 なんで、誰にも言わずに一人でここに来たのに、彼がそこに居るのか?

 なんで、僕がここに居るとわかったんだ?

 もっとも会いたくない相手の一人が、よりによって、なぜ?


「オウロ、なんでこんな所に……」


 おそるおそる、振り返る。

 そこには見慣れたニヤけ顔の男、オウロが、いつもにも増して機嫌良さそうに笑っていた。

 いつ見ても慣れない、ロクなことを考えていなさそうな顔。


「おいおい、そりゃこっちのセリフだぜ?

 おめぇ、借金の返済も満足にできていないクセに、なにこんな所で遊んでるんだ?」


「それはっ……!」


 あんなデタラメな借金なんてあるもんか!


 胸の中で叫ぶが、実際に叫んでも相手を喜ばせるだけなので、口には出さない。

 借金の証文。それがある限りは、僕の抗議などなんの役にも立たない。


 警邏も。弁護人も。検事も。

 誰も、僕のことなんて庇ってくれはしない。


 例えそれが偽の証文であっても、誰もそのことを信じてくれなかった。

 いつの間にか差し替えられた証文。しかしそれを証明する手段はない。

 そしてその証文には、僕が借用した十倍の金額が記されていたのだ。


「お前が隙をみて自分の部屋からトンズラしやがった時は焦ったぜ?

 町中探していたら、急に空が明るくなって、光の柱が立つじゃねぇか。

 取るものも取りあえず様子を見に来たら、お前がいたって訳よ。

 これも神の導きって奴かぁ?」


 そうか、この少女の光がこいつらを招き寄せてしまったのか……!

 その可能性に思い至らずに、呑気に彼女の様子を眺めていた自分の愚かしさに腹が立つ。


「なあ、今日も言ったよなぁ?

 もし明日までに返金できなかったら、お前は俺達のモノ。

 お前の身体は、もうお前自身のものじゃなくなるんだぜ?

 だからって、逃げようったってそうは行かねぇよ。

 まさか仲間の目を掠めて逃げられるとは思わなかったが――もう遅いぜ。


 しかしお前、いったい何を持っているんだ?」


 そう言ってオウロは、僕の腕の中を覗き込み、かすれた口笛を吹きならす。


「へえ! 随分と綺麗な女じゃねぇか!

 それを俺に渡すなら、借金の返済をもう少し待ってやってもいいぜ!

 ほら、寄越せよ!」


 手を伸ばすオウロ、後ずさりして距離を取る僕。

 そんな僕の行動が気に喰わなかったらしく、顔をゆがめた。


「おいっ! おめぇ、何を離れてんだよ!

 お前、まさか俺に逆らえる立場だと思ってんのか?

 こっち来いよ!」


 くそっ、何とか逃げられないだろうか。

 この少女はオウロ達のような奴に渡して良い訳がない。


 逃げ道を探して辺りを見回す僕の様子を見て、嫌らしく笑う。


「へっ、後ろの奴らが見えないのか?

 そんな女を持っていなくたって、お前が逃げるなんて無理なんだよ。

 いい加減あきらめろやっ!」


「うるさい……何を騒いでいる……」


 僕の腕の中から澄んだ声が聞こえる。

 この少女はそう喋ると、まるで重さを感じさせない動きで僕の腕の中から地上に降り立った。

 その時には背中の羽は消えていたが、体は変わらずに薄っすらと光っている。


「貴様ら、何用だ?」


 少女の凛とした美しい声に、だらしなく顔をゆるめるオウロとその手下たち。

 肩を怒らせ大きく振りながら、少女に近づいて行く。


「おい、やめろ!

 この少女は関係ないだろう!」


 僕が割り込もうとしたところを、オウロは左手で力任せに僕を払う。

 それだけで僕は後ろに倒れてしまう。オウロと僕とでは、それほどに体格が、力が違う。


「おう、嬢ちゃん。お前、こんな所で何をやっているんだ?

 暗い山中は物騒だからよ、俺達がお前を保護してやるぜ。

 そこに転がってる奴を回収したらよ、俺達と一緒に町へ降りるといいさ」


 いつの間にか右手に持ったナイフをぶらぶらと振りかざしながら、ニヤついた顔で少女に近づいていく。

 少女はまるで表情を変えずに、その様子を眺めていた。


「……私は、少し記憶が混乱しているようだ。

 何故、私がここに居るのか? どうも良く思い出せない。

 だが、少なくとも貴様らに世話になる気は毛頭ないし、ついて行くことも金輪際ない。

 失せよ」


 そんな彼女の答えを聞いて、再びかすれた口笛を吹くオウロ。


「ははっ、お高く止まってんな。

 いいぜ、面白い。ちょっと怖い目にあうことになるが、それは自分が悪いんだぜ?」


 そう言いながらオウロは右手のナイフを構え、背後の手下たちもニヤニヤしながらそれぞれの得物を持つ。


「何をやっているんだ!

 こんな少女に向かって武器を持つなんて正気かよ!

 僕を連れて行きたければ連れて行け、でも無関係のこの子に手を出すなよ!」


 叫びながらオウロと少女の間に割り込み、両手を広げて遮った。

 そんな僕を見て笑ったオウロは、何も言わずに僕のお腹を蹴り飛ばす。

 たまらず飛ばされて、もんどりを打って転げてしまう。


 そんな僕の様子をニヤけた様子で見たオウロは手下を顎で指図する。

 そして取り巻きの男達が少女の方に歩みよろうとして――


「下種が」


 そう言いながら、少女は腕を払うように振った。

 自然に、無駄のない動きで腕が弧を描き、流れるように金色の光が伸びる。


 がくん。


 光に薙がれた男達はそのまま膝を折り、つんのめるように倒れ伏す。


 目をむくオウロ。

 何をしたのか分からないが、一瞬で二人の男を倒したのだ。


 ――この女、やばい!?


「お前ら、あの女を捕らえろ! 一斉にかかれぇ!」


 一瞬びっくりした手下達は、次の瞬間にはにやついて襲いかかった。

 体格の良い男達が数人がかりで一斉に迫り、その手を伸ばして――


 次の瞬間、眩い光が交差した。

 光ったのは一瞬、いや二回だから二瞬。

 その弧を描く金色の光は男達の身体を薙ぎ、そのままそいつらは意識を失って地面に積み上がる。

 それを見たオウロは逃げ出した。後ろも見ずに、一目散に。


「すごい……」


 僕は目を丸くした。

 あの頑丈さが取り柄のような男達が、ほんの数回腕を振っただけで倒されたのだ。


其方そなたが私を受け止めてくれたのか?」


 暗闇の中、少女は金色に光る瞳で僕の方を見ながら聞いた。

 

「あ……はい、そうです、すみません、汚れた手で……」


 慌てて自分の手を見て恥じらってしまう。

 学園で安いインクを使い、仕事ではろくに綺麗にすることもできずに汚れていた手。

 彼女はそんな僕の手に視線を落として、そして言った。


「いや、其方の手は汚れてなどいない。

 どのような事情で空から落ちて来たのか、自分にも分からないのだが、それでも受けてくれたことには感謝する。ありがとう」


 そう言って微笑んでくれた。

 その美しい表情を見て、僕の心臓が跳ねる。


「それで、其方は何故、このようなところにいたのだ?

 もう暗いのに、このような山道脇にいるなど、不穏しか感じられない」


 そう言って、ひたと僕の目を見据える。


「それは……その、少し込み入った話で長くなるから……」

「構わない、私が何か力になれるかも知れない。

 話して見てくれないか」


 その美しく、しかし容赦のない視線にあらがえないものを感じ、僕はぽつりぽつりと身の上を話し始めた。


 自分が片田舎の村から出て来た、身寄りのない苦学生であること。

 学園の授業の魔法学実習が苦手で落第寸前であること。

 赤点を取ると授業で使う機材を実費で弁済しなくてはならず、更に学生間の金銭の貸し借り、援助は学園により厳しく禁止されている。

 それもあり、臨時労働では足りず学園から紹介された金貸しから金を借りざるを得なかったこと。


 しかし金銭の証文が差し替えられ、借りた金額の十倍を超える金額と法外な利子で返却は絶望的。取り立て屋と称する胡乱な男、オウロが近辺をうろつき始め、自分に近しい相手まで被害に会いそうになって。

 オウロは金を返すまで続けると言うし、返済の目途はない。学園に相談しても一切の助力はなし。

 僕は、自分の人生が詰んだことを悟らざるを得なかった。


 幸い、保証人は架空の人物にした――というか、されていた――ため、ここで僕が人生から退場すれば、誰にも迷惑をかけずにすむはずだ。

 そう考えて、誰にも何を言わずに、ここを訪れた。


 溜息交じりに、ジンはそう告げた。

 憂鬱な現実を思い出してしまったためだ。


 少女は黙ってジンの言葉を最後まで聞き、そして口を開いた。


「あのオウロとか言う男は、其方の身体はもうお前自身のものではない、と言っていなかったか?

 あれは、どういう意味だ?」


 気を失っていたと思ったら、聞かれていたようだった。


「……奴隷落ち」

「なんだと?」

「借金を返済できない場合、奴隷になると証文に書かれていたんだ。

 もちろん、僕はそんな条件でお金を借りたりはしていない。

 ただ、勝手に書き換えられていた証文には、金額だけでなく、そんな条件まで追加されていたんだ」

「そんな不正、許されるはずがなかろう」

「僕もそう思って、警邏に話を持ち込んだり、弁護人や検察に相談に行ったりしたんだ。でも、どこも相手にしてくれなかった。

 もともと自分が育った街でもない、学園関係者以外に知り合いはいない。

 だから、僕は……」


 奴隷に落ちるくらいなら、誇りを選んで命を絶つ。

 そういうことか。


 眉間に皺を寄せながら、少女はその長い髪をかき上げた。


「命は大切にしなくてはならないぞ。

 人は、もっと足掻き、自己の幸せを探しだすものだ。

 だが、其方を取り巻く全てが、お前に敵意を持っていると感じられたことは分かった。辛かったな」


 そう言って、少女は僕の頭を撫でてくれる。

 僕よりも少しだけ高い目線、非現実的なまでに美しい存在に触れられて、僕はドギマギとしてしまう。


「私を受け止めてくれた礼だ。力を貸そう」


 その微笑みの美しさ、眩さに、思わず目を細める。

 いや、本当に光っていて眩しいというのもあるのだけど。


「そんな、僕の事情に巻き込むわけには――

 いや、それよりも、貴女あなたはいったい、どなたなのですか?」


 僕の言葉にちょっとびっくりして、目が大きくなる。

 こんな表情をすると、意外に可愛く見えるんだな、などと思ってしまう。


「そうか、まだ名乗っていなかったのか。これは失礼した。

 私はミカ。貴女、ではなく、私のことはミカと呼んでくれて良い。


 私は天使。

 神の言葉を届け、神に代わり現世うつつよの雑事を遂行する者。

 この世界において、私は神の代行者エージェントとして行動し、故に神の御名において尊崇されるべき者である」


 そう言う天使ミカの表情は誇り高く、まさに侵し難い尊い存在に感じられた。

 心なしか、その身に纏う光も強くなっているよう感じる。


「――なのだが。

 どうやら、私は天界において何か失敗してしまったようでな。

 一部記憶を消去されて、天界から追放されてしまったようだ。

 だから今の私は……何なのだろうな。

 主を失った天使。野良天使、とでも言えばいいのか?」


 そういって、恥ずかしそうに苦笑するミカの姿は、やっぱり可愛かった。

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