第4話

 赤マントの少女は、瑞貴の手をとり歩き出す。


「さ、行こう」

「何処へ?」


 瑞貴の疑問に赤マントの少女は教室、と答える。

 食堂の扉を開けて廊下に出ると、窓からの風景がよく見える。

 窓の外にあるのは、瑞貴も良く知っている街の光景。

 見知った家々、最近出来たばかりの巨大マンション。

 生き物の気配がしないという事を除けば、何処を見ても瑞貴の知っている街と同じに見える。だが、それは当然だ。

 この世界……ダストワールドの町並みは、瑞貴の暮らす世界を真似続けているのだから。

 階段を上がって、踊り場の鏡の前を通る。

 薄汚れた鏡のかすれた提供者名も、汚れ具合も全て同じ。

 ここが別の世界であるという事が、瑞貴には冗談か何かのように思えてくる。


「……ミズキ?」


 瑞貴の足が止まったのに気がついて、赤マントの少女が振り返る。

 手を引っ張り先に行こうと促しながらも、赤マントの少女は瑞貴が何を見ているのかに気付いて叫ぶ。


「ミズキ……離れてっ!」


 どろり、と。

 鏡の中の瑞貴の姿が溶ける。

 溶けて骨になった鏡の中の瑞貴が、鏡の外の瑞貴へと手を伸ばす。

 鏡の中から現れた骨の瑞貴は、瑞貴を引きずり込もうとするかのように瑞貴の頭を抱え込み……しかし、その瞬間に銀色の閃光が骨の瑞貴の頭を粉々に砕く。


「あ……」


 瑞貴には、何が起こったのかすら理解できなかった。

 今、自分の身に何が起ころうとしていたのか。

 今のが何であって、自分は今、どうやって助かったのか。

 その全てが、理解できない。

 ただ分かる事は赤マントの少女が今、何かを投擲したということくらいなものだ。


「……まだ生きてるんでしょ?」

「あ、う、うん……」

「ミズキじゃなくて」


 答える瑞貴に、赤マントの少女は首を横に振る。

 その視線は、踊り場に崩れ落ちた骨へと注がれている。

 頭部を失った骨はそれに答えるかのように、ゆっくりと身体を起こす。


「全員追い出したと思ってたけどね。まだお前みたいなのが残ってたんだ」


 この骨の名前は、四時四十四分の死神。

 ダストワールドにおいては、未知への恐怖という感情から生まれる怪異。

 それを、赤マントの少女は冷たい目で見下ろしている。


「三秒だけあげる。さっさと消えなよ。でなきゃ、私が消してやるから」


 その言葉に脅えたのか、頭を失った骨は慌てたように鏡の中へと消えていく。


「ごめんね、ミズキ。嫌な目にあわせちゃったね?」

「……いや、僕は大丈夫」


 こんな世界まで来て、何をやっているんだろう……と瑞貴は思う。

 こんなところまで来て、女の子に守られている。

 どこまでいっても自分は情けなくて、何も出来ない自分のままなのだろうか。

 流されるだけの、道端の石ころなのだろうか?


「ねえ、ミズキ」


 そんな事を考えていた瑞貴の額に、赤マントの少女の額が触れる。

 熱い吐息が、瑞貴の唇に触れる。


「ミズキの良い所は、全部私が知ってるよ」


 赤マントの少女の小さな手が、瑞貴の頬を撫ぜる。

 愛おしそうに、ゆっくりと上から下へ。

 それだけで、瑞貴の身体にゾクゾクとした感覚が湧き上がる。


「それだけで、いいの。他の奴はミズキの価値なんて、知らなくていい。私だけの特別な宝物でいてよ、ミズキ」


 特別、という言葉。

 その魔法のように甘美な言葉に、瑞貴の思考までもが蕩けそうになる。

 赤マントの少女の名前を呼ぼうとして……瑞貴は、思い出す。


「そうだ、名前……」

「ん?」

「名前、決めなきゃ」


 瑞貴が呟いた言葉に、赤マントの少女は名残惜しそうに瑞貴から額を離す。


「そうだね。私がミズキの私になる為の、最初の儀式。早く始めなきゃ、ね」


 赤マントの少女の言葉のひとつひとつが、瑞貴の心を捉えて放さない。

 このとらえどころの無い、不思議な少女は……瑞貴の足りない部分にするりと入り込むように瑞貴の中を埋めていく。

 それは、求めていた非日常のような日常。

 想像の中で描いた光景が、現実を侵食していく感覚を瑞貴は味わっていた。


 ……そして。

 二人は教室で、ノートを広げて話し合いを開始する。

 教室の机の上に転がったノートの上には、たくさんの名前と……たくさんのバツ印。

 その中に、一つだけつけられたマル印。

 姓はクレバヤシ、名はアカネ。

 赤マントの紅林茜は、あのニヤニヤ笑いとは違う笑顔を浮かべていて。

 瑞貴はまた、その顔から目が離せないでいる。


「ねえ、ミズキ」

「何?」

「呼ばないの? 名前」


 そう言われて、瑞貴はドキリとした。

 紅林、茜。

 2人でつけた、赤マントの少女の名前。

 ただ、その名前があるだけで。

 なんだか、赤マントの少女をより強く此処に感じるように思えた。


「それは、楔だよ」


 赤マントの少女は、瑞貴の携帯を弄りながら瑞貴に教えてくれる。


「楔?」


 瑞貴が赤マントの少女の手から携帯を取り戻そうとすると、手をパシリと叩かれる。


「え? それ、僕の携帯だよね?」

「ミズキと、この世界との縁……執着とでも言うべきかな。つまりミズキは、この世界で私という寄る辺を認識して、ようやくこの世界に足を出してみる気になった……ってとこかな」

「ごめん、よく分からない」


 アドレス帳を何やら弄っていた赤マントの少女は、それをポケットにしまい込むと手を叩く。


「今まで蜃気楼か幻覚程度だったミズキは、ついに幽霊くらいにランクアーップ! おめでとう!」


 パチパチパチ、と拍手の音。

 そんな事を言われてもどのくらい違うのか分からない瑞貴としては、曖昧な笑顔を返すしかない。


「で、呼ばないの? 名前」


 携帯を瑞貴のポケットにねじ込むと、赤マントの少女はあのニヤニヤ笑いを浮かべる。


「呼びたいって言ったのは、ミズキじゃない」

 

 確かに、その通りだと瑞貴は思う。

 少女の名前を呼びたいと願ったのは、自分自身だ。

 だから、口にする。


「紅林……さん」

「リテイク」


 容赦の無いリテイク。

 折角決めた名前なのだからフルネームで呼べということだろうか、と瑞貴は思い直す。


「紅林茜、さん?」

「リテイク」


 赤マントの少女は机を指でコツコツと叩く。

 静かな教室に、苛立たしげな音が響き渡る。


「違うでしょ。ミズキはそういう呼び方じゃないじゃない」


 耕太や綾香の事を、瑞貴は思い浮かべる。

 あの二人は幼馴染であって、他の人に対する呼び方とは色々と異なるのだが……赤マントの少女は、それを要求しているのだと気付く。


「ミズキ。私が嫌い?」


 赤マントの少女は、そう呟く。

 そんな事、一言も言ってないと叫ぼうとする瑞貴の言葉を、更なる赤マントの少女の言葉が遮る。


「私はミズキと、もっと仲良くなりたい。もっともっと、話がしたい。ミズキが笑ってくれるなら、何だってしてあげたいのに。ミズキは、私が嫌いなの?」


 ざわりと。

 無音だった世界で、木のざわめく音が響く。

 赤マントの少女が、暗い光を宿した目で瑞貴の肩を掴む。

 ニヤニヤ笑いは消えていて、ぞっとするような無表情で瑞貴の顔を覗き込む。


「あ、茜。僕は」


 瑞貴の背筋に、冷たい汗が流れる。

 掴まれた肩が、痛い。動こうという事さえ考え付かないプレッシャーの中で、瑞貴は必死に言葉を探す。


「……もう一回」

「え?」

「もう一回、呼んで」


 緩んだ力。

 瑞貴の肩を掴んでいた手が、ゆっくりと離れていく。


「あ、茜?」

「うん」


 いつの間にか、木のざわめきは止んでいて。

 赤マントの少女……茜は、あのニヤニヤ笑いを浮かべていた。


「ごめんね、ミズキ。痛かった?」

「あ、いや……」


 瑞貴の肩をポン、と叩くと茜は教室の時計を指差す。


「そろそろ時間だね、ミズキ」

「……そうか、そろそろ授業が終わる時間なんだ」

「そうだよ、こんなところでサボって。悪い子だね、ミズキは」


 確かに此処にいるけれど、向こうにもいる。

 その不可思議に、瑞貴は小さな高揚感を感じる。

 望んでいた非現実を、自分は今体感しているのだ。


「またね、ミズキ」


 そして、また瑞貴の視界は歪んでいく。

「今度は、そっちでも会おうね」


 不鮮明な視界の中で、そんな声だけが聞こえて。

 瑞貴はまた、元の世界へと揺り戻されていく。

 そして、ダストワールドには再び半透明の瑞貴の姿が残される。

 茜はその姿にそっと手を差し出し……ゆっくりと、その頬に触れる。

 口元に浮かぶ笑みを隠そうともせず、茜は呟く。


「このままミズキがこっちに存在を移すのもいいかと思ったけど……やっぱり少し、危険すぎるよね」


 そう言うと、空中にぼんやりと映る光景を眺める。

 それは、瑞貴のいる世界の光景。

 ダストワールドから見える、銀幕の向こうの光景。

 その中に瑞貴の姿を見つけ、向こうからは見えないと分かってはいながらも茜は小さく手を振る。


「今度は、私がそっちに行くから。私をエスコートしてね、ミズキ」


 そう言って、茜は楽しそうに髪先を弄り始める。

 ポケットの中の携帯電話を取り出して、登録したばかりの瑞貴の電話番号を表示する。

 まず最初は、何を話そうか。

 そう考えるだけで、茜の心は激しく高揚するのだった。

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