死んだら骨は拾ってください

 人は、みんな等しく死ぬ。

 好きな奴も、嫌いな奴も、どうでもいい奴も、家族も、他人も、死にたい奴も死にたくない奴も、みんな死ぬ。いつか死ぬ。

 手を伸ばしたところでどうにもならないし、「死ぬな」という方がワルモノのような気もする。俺たちは受け入れなければいけない。他人の死を、そして自分が死ぬことを。


 自分が死んだ後、世界はどうなるのだろうか。世界は自分がいなくてもずっと続くのか、それとも全部自分の幻覚みたいなもので自分が死んだらこの世界も消えるのか。それなら遺書を書くという行為は、自分が死んだ後も世界が続くと思い込んでの行動で、ちょっとした自己欺瞞にも思える。配慮と言えば、聞こえはいいのだろうか。



     ***



 ホームルームぎりぎりに登校してきた浅木草一を見て、北条は驚いた。浅木が、彼の背丈より少し高い、袋に包まれた長い棒のようなものを持って教室に入ってきたからだ。

 百八十センチ近い浅木の身長よりも長いのだから、きっとここまで来るのにも目立っただろう。ただでさえ浅木はガラが悪い。浅木の短い前髪の下に位置した細長い吊り目は人相を悪くしていて、成長期も相まってすくすくと育ったために体格もよかった。浅木は学校まで自転車か徒歩で来ていたはずで、登校時には多くの人をビビらせてきたのだろうと、北条は思った。現に、クラスメイトはビビって浅木に話しかけられないようだったが、視線は浅木に注がれていた。そして、すぐに念を込めるように北条に視線が移った。

「浅木、なに持ってきてんだよ」

 仕方ないが俺も気になるしなと北条は思い、肩まで伸ばされた色素の薄い髪の上半分だけを結わえながらそう聞いた。

「これ? 弓だよ。弓道部のやつがたまに持って帰ったりしてるだろ」

 確かによく見るとその棒は少しばかりしなっており、生真面目そうな生徒が持っている姿が連想される。だが、間違っても浅木が持っている姿は思い浮かばなかった。繋げたゴルフクラブが包まれていると言われた方が、まだ想像できる。

「お前いつ弓道部に転部したんだよ。帰宅部だろ?」

「中学ん時からやってんだ。ユーレーだけどな」

 そう言って浅木はへらりと笑ったが、北条は少し面を食らった。礼儀を重んじる“弓道”を、不良の端くれみたいに怖がられている浅木がやっているとは全く思えなかった。しかも中学生の時から。

 北条は高校から浅木と知り合ったから、中学の時のことは浅木が話さないとよくわからなかった。特に、ちゃんとやっていないというなら尚更だ。

 武道をかじっておいて、どうやったらこんなに適当な人間になるんだ……と思ったが、よく考えたらやけに行儀がいいこと、それにスポッチャのアーチェリーが上手かったことを思い出した。

「そんで、なんで持ってきてんだよ。転部したわけじゃないんだろ?」

 北条がそう聞くと、浅木は教室の後ろ側に弓を立てかけ、教室の一番端の一番後ろの席に座った。

「道場行ってから家帰ろうと思って」

「幽霊じゃなかったのか?」

 真面目に弓を引こうだなんて、きっと今まではなかったんだろうな、と容易に想像できた北条はそう聞いたが、聞かれた当の本人は気恥ずかしそうに視線を外した。

「……ちょっとな」

 北条はさらに驚いた。学年のマドンナにも、コンビニの端の棚にも、興味の欠片も持たなかった浅木が、健気に顔を赤らめモゴモゴと気恥ずかしそうにしている。

「相当ボインのねーちゃん先生でもいたのか?」

「ちげぇよ! お前には言わね」

 北条がそうからかうと、浅木はむくれたように言って机に突っ伏してしまった。気になることは何一つわからなかったが、北条はもうこれ以上浅木から何も聞けないと判断して、黒板の方へと向き直った。

 始業のチャイムがなる。そろそろ担任が来る時間だった。


     **


 キリキリと右耳の横でツルの音がする。完全に引き分けた弓の先、それに交わる矢の先の先まで、吸って吐いた息が行き渡る。背筋がピンと伸び、今この時だけは、世界に一人ぼっちな気がした。静寂。人々の話し声も、落ち葉が風で舞い、重なる音でさえも鼓膜を震わすことはない。しかし、一人だということに寂しさなんて感じないほど、その世界は狭かった。自分と、弓矢と、一直線に並んだ二十八メートル先の的。それだけ。

 矢は、ちょうど、的の中。

 手がツルから滑るように離れる。

 カァン……

 体から引き離された矢はまっすぐに飛んでいき、的の真横、九時の方向に刺さった。

「惜しかったなぁ。力みすぎだ」

 声の方に振り向くと、白髪を短く切りそろえた初老の男が立っていた。無愛想な顔だったが、決して怒っているわけではなく浅木にはむしろ愉快そうに見える。

「センセェ!」

 両腕を左右に投げだし大の字で立っていた浅木は、そう言って先生の方に駆け寄った。本当は的中する姿を見せたかったが、その悔しさよりも今は会えたことの喜びが大きい。前に会ったのは先週の土曜日、五日前だった。

「あほ。残心までして来い」

「あ、すんません」

 弓道において、射法八節は絶対的な基本動作で、省略は御法度。だが、矢を射る「離れ」とその後の「残心」は格好こそ同じなため、浅木はすっかり気を許していた。

「今日は来たんすね、深瀬センセ」

「あぁ。……矢、取ってこい。見てやる」

 浅木がどんなに深瀬を待っていたか。深瀬健晴は基本土日のどちらかと平日は気まぐれでしか道場に来なかった。それに浅木と深瀬が通っているK市の弓道場は二、三十人ほどの会員が集まる古い小さな道場で、ただでさえ七段の段位を持っているのは会長を除き深瀬だけだったから他の会員も自分の射を見てもらいたそうにしていた。

「そう、そのままの姿勢で肺に空気を溜めてくように左右にグーっと伸びろ」

 浅木が的前に立ち矢をつがえると、深瀬は浅木の正面に立った。浅木は弓につがえられた矢を見つつ、頭の半分ほど低い深瀬をこっそりと見下ろす。白髪の割合が半分以上になった髪は薄毛を知らず、組んだ腕は歳のわりに筋肉質だ。そして白髪の混じる髭に囲まれた深瀬の薄い唇がぱくぱくと動く。

 深瀬の見上げた茶色の瞳と目が合った。

「おい、聞いてんのか? そのまま弓あげろって」

「……うす」

 いつの間にか凝視していたらしい。浅木は気づかれないようにわざとゆっくり的に向くと、呼吸を整えながら弓を上へとあげた。

「手の内変えんなよ」

 深瀬の低く安心する声を聞きながら、浅木は孤独の淵へと吸い込まれていく。


 弓を教えてもらうのはいいことだらけだ、と浅木は思っている。まず、何より距離が近い。どうしても先生は生徒に教えるとき体を触る。その方がわかりやすいし、感覚的な部分が伝わりやすい。十センチほど浅木より背の低い深瀬が腕を上げながら浅木に教えるその姿は、無愛想で強面な深瀬のイメージとかけ離れており、その面倒見の良さが好きだった。

 そして何より、教えてもらった後の的中を喜ぶ深瀬が、浅木は好きだ。

 カァン……

 と音がして矢は真っ直ぐに飛んでいく、そして、的を破る音と共に、矢は的の中心を射抜いた。

「お、上手いじゃねぇか」

 深瀬は的の方を向いたままそう言う。浅木はそんな深瀬を横目に、大の字に放り投げた両腕を下ろし、そして深瀬の方に視線を移した。

「その調子だ。頑張れよ」

 深瀬は目を細めながら、わしわしと浅木の頭を撫でるとそう言って満足げに控室の方へと戻っていった。残された浅木は「ヘイジョーシン、ヘイジョーシン」と心の中で呟きながら頬の緩みを必死に抑え、次の矢をつがえ始めた。



 K市の弓道場にやってくる人は大体が昼過ぎからで、三時が近づくと一度みんなでお茶やお菓子を食べながら休憩するという文化があった。平日は人も少なく、夕方から来る人が多かったからこれは土日だけだが、その時間が主な交流の場だった。

 だが、深瀬はこの時間も一人弓を引き、みんなの休憩が終わるころに帰ることもままある。浅木はそれをカッコいいなと思いつつ、疲れと小腹が空く時間帯に休憩ができるのはありがたかった。特段好きでもなかった弓を引き続けているのには、深瀬という存在の次にこの休憩があるまであった。

「草一くん。もう休憩にするから、一応深瀬先生にも声かけてきて」

 ちょうど弓を置いた浅木に、四十代くらいの生真面目そうな男が声をかけた。浅木は名前なんだっけなと思いつつ、すぐに了承した。

「深瀬センセ、休憩だって」

「おー」

 ゆるく返事をした深瀬は、そう言って机にお菓子を並べる人たちに向かって歩いていく。

「センセェ、今日は休憩?」

「まぁな。そういえば草一は昇段審査、受けねぇのか」

 休憩室の壁には、審査や大会のお知らせ用紙、道場の予定などが一面に貼ってある。それに、先程浅木に声をかけた男が数日前に五段に合格したとかでやけにチヤホヤされていたのを浅木は思い出した。三度では受からず、四度目の正直だったらしい。

「シンサ? あー初段とかのやつすか」

「初段は確か次の審査は冬でまだ先だがな、もし受ける気ぃあるなら連れてってやるよ。お母さんに声かけにくいだろ」

「……そっすね」

 浅木が母子家庭だというのをくんでの発言だった。父親は浅木が中学二年の時に事故で亡くなり、その時まで弓引きだった父親の影響で浅木はこの道場で弓を引いていた。その当時、深瀬はこの道場にいなかったはずだが、どうやら周知の事実らしいことを知った。弓は特段好きでも嫌いでもなかったが、父親と共に弓を引く理由はなくなった。それから三年、今は家にあった父親の弓と矢を使っている。

「審査って何やるか知らないんすけど、フツーに的前立って実技試験ってこと?」

 浅木はカントリーマアムを口に放り込みながら隣に座る深瀬にそう聞いた。

「まぁそれももちろんあるが、初段はよほど酷くなきゃあ実技は大丈夫だ。的に当たらなくても受かる」

「あら、草一くん初段受けるの? じゃあ問題は筆記試験かしら」

 浅木の反対隣に座る、ふくよかな初老のマダムが話に入ってきた。

「げ、筆記とかあんの?」

「書けば受かるさ」

「記述だけど、対策して当日寝なければ大丈夫よ」

 マダムは愉快そうに笑ったが、浅木は笑えなかった。実技試験は問題どころか自信しかなかったが、筆記試験もあるとなれば別だ。大量の赤点のテスト用紙が脳裏に浮かぶ。

「必勝法とかさ、ねぇの?」

「今度問題やるよ」

 深瀬はそう言って立ち上がると、浅木の頭を撫でて出入り口へと向かった。身軽な装いから見るにタバコ休憩だ。浅木はその後ろ姿を見ながら、絶対に筆記で落ちるわけにはいかないと心に誓った。


     **


「なぁお前さぁ、最近マジで付き合い悪くね? そんなオモロい? 弓道だっけ」

 ホチキスで左端を留められた紙の束と睨めっこしている浅木を見て、北条はそう言った。ここ最近、というか弓を学校に持ってきて以来、浅木は放課後と土日のほぼ全てを弓道に当てていた。今まで一緒にゲームセンターに行ったり、飯に行ったり、買い物に行ったり、暇を潰していた時間が綺麗さっぱり弓道の二文字に塗り替えられ、最初は面白がっていた北条も夏休みが過ぎだんだんと複雑な気持ちがしてきていた。

「おもろ……くはない? でも、ガッカリされたくねぇし」

「へぇー」

「興味ねぇじゃん」

「そりゃ興味はねぇよ。……彼女でも作ろっかなぁ」

 北条は後頭部で手を組んでそう言った。

「いいじゃん、お前モテるし。むしろ今までいねぇのが不思議なくらいだろ」

「まぁな」

「ちょっとは否定しろよ」

 そう言ったものの、北条はモテていた。爽やかで気の遣える性格もあったが、なによりその中性的な整った顔にバリバリ校則違反の長髪は垢抜けて見えて、そういうことに興味のない浅木から見てもおしゃれだと思ったし実際私服もよくわからない柄のシャツや色数が多いものを着こなし、一つは必ずアクセサリーをつけてくるような男だった。服飾デザイナーである姉の影響だと言う。

 だが、北条にとっておしゃれをすることはただの趣味だった。他人から好意的に思われるのはその副産物で、モテるための手段ではなかった。だけど周りは、それを理解してくれる人は少ない。その点、浅木は人からモテることにも、北条の格好にも全く興味がない。だからこそ北条は浅木とつるんでいるのが居心地よかった。

「ま、それで楽しいならいいわ」

 北条はそう言って立ち上がった。

「どこ行くんだよ」

「トイレ」

 北条は自分が子どもじみた感情を抱いているのを自覚していた。廊下を歩きながら、モヤモヤとしたその黒い感情を喉の奥で握りつぶす。放課後だけだったのに、いつの間にか学校にいる時まで弓道が、その”先生”とやらが浅木を侵食していく。一体どうしたらそんなにも浅木の心を鷲掴むことができたのだろう。北条はそのまま階段を降り、中庭を抜けて今はとっくに封鎖されてしまった裏門のあたりまで歩いていった。そこはいつも浅木と二人でサボる時にいる場所だった。近くを通る人も少ないし、木と草に覆われたこの場所は夏でも涼しく比較的長時間いられた。ここで話したり早弁したり漫画を読んだりしていたことを思い出す。

「楽しいなら、いいか……」

 北条は草むらに隠れるようにして座り込み、膝を抱えた。まるで拗ねた子どもみたいだと思ったが、この格好が一番いい気もする。吹く風も冷えてきて、だんだんと夏の暑さを忘れていくように、落ち葉が北条に寄り添った。


     **


「じゃあ、頑張ってこいよ」

「モチロン!」

 白い胴着に真っ黒の袴姿がすっかり見慣れるようになった浅木は、しっかりと弓と矢を握りしめ、恩師に手を振って見送られた。季節はすっかり冬になり、寒さ対策として、周りの人々は胴着の下に長袖のアンダーシャツなどを着ていたが、浅木は半袖の胴着一枚だった。寒そうだとついさっきまで深瀬の上着を着せられていたが、浅木は自分を気遣う深瀬にそれどころではなかった。

 午前中は実技試験で、昼食を挟んでから午後に筆記試験。そして結果はその日中に会場で発表される。控えに行くとすぐに番号を呼ばれた。数人、社会人のような大人もいたが、初段を受けるのはほとんど弓道部に所属している高校生のようで、個人で申し込んだ浅木の試験は初段でも最後の方だった。緊張した面持ちの人々と、安心したような面持ちの学生たちが入り混じっている道場で、浅木は意外と緊張はしていなかった。

「君はここ。座って待っていてください」

 係りの人に促されるまま、浅木は道場の横に五個ずつ二列に並べられた椅子の、二列目の前から二番目に座った。目の前にはすでに同い年くらいの小柄な少女が座っていて、隣の列では次に試験を受けるのであろう人が神妙な顔つきで座っている。そして、壁を挟んで反対側では試験が行われていて、定期的に矢の放たれる音やツルがキリキリと伸びる音、的に矢が刺さった音が聞こえてきた。

 後ろの開け放たれた扉から、続々と試験を終えた人が規則的に出てくる。係りの人の呼びかけがあり、浅木の隣の列に座っていた五人が一斉に立ち上がった。自分の番が、だんだんと近づいて行くのが目に見えてわかる。

「この列の方、隣の列に移ってください。あとツル回収します」

 ずっと静かだ。

 係りの声と、一瞬の掛け声、すると聞こえるのはもう弓と矢の音が会場中に響き渡る。会場はいつまでも静かで、弓道の厳格さがうかがえる。浅木はずっと、叫び出したかった。早く弓が引きたい。弓を引きに来たのだ。こんなところで、道場の目の前で何分も待たせて、緊張もなにもない。早く引いて忘れないうちに筆記をくぐり抜けて、そして、合格の二文字を手に入れたかった。先生に、認められたかった。

「じゃあ立って、そろそろだよ」

 その声で、浅木は いの一番に立ち上がる。

 目の前の小柄な少女も立ち上がり、列はそのままに道場の入り口に縦に並んだ。前の少女が左足を踏み出し、続いて右足を出す。ゆっくりと、先に並んでいる審査の先生方に頭を下げる。始まりの合図だ。浅木も一歩踏み出し軽く頭を下げ、すり足で前に続いた。前を進む少女は浅木の一回りも二回りも小さかったが、試験が始まった途端、ピンと伸びた背筋は息が通っていて思っていた何倍も大きく見える。静かな圧を、後ろの四人にかけているみたいだ。浅木はそう思いながら、少しだけ自分が緊張していることに気がついた。

 的の方に向くと、右端で一人の白髪が目についた。深瀬だ。

 浅木は息を浅く吸うと、ゆっくりと吐く。呼吸はリズム。深瀬が言った言葉を思い出しながら、滑るように弓に、矢に、手を伸ばす。視線を動かす。

「草一は力があるから力で引きやすい。もっと力を抜け。力がなくても、的に当たる。そういうものだ」

 静寂。

 世界はもっと、静かになる。弓を膝から離した瞬間、肩より高くあげた瞬間、見えていた世界は陽炎みたいに揺らいで自分と弓矢と的の、一直線だけになる。キリキリとなるツルの音。右耳の後ろでカチリと音がして、全身に流れた息は溶けていくように左右に流れていく。

 カァン……

 矢は真っ直ぐに飛んでいく。

 そして、的を破った音がした。



「皆中おめでとさん」

 控え室に戻った浅木に、深瀬は目を細めてそう言った。実技試験は矢を二本与えられていて、見事浅木は二本とも的に当てたのだった。

「まぁな! この調子で一発合格だ」

「そうしてくれ」

 浅木の心は晴れやかだった。晴れ舞台で皆中し、深瀬に良いところを見せることができた。それに深瀬も嬉しそうだ。朝コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、浅木は同じくコンビニのおにぎりの封を開けている深瀬を見る。シワがよってクシャリとなった顔は無愛想で近づき難く、鋭い眼光の奥の優しい瞳は引き込まれるみたいだった。それに声はとびきり危険で、低く安心するその声は、ゆっくりと彼の思考が侵入してくるみたいに耳に入り込む。

「なにぼけっとしてる。筆記の勉強でもしていたらどうだ」

 深瀬の声で我に帰る。見すぎたかもしれないと浅木は不安になったが、とりあえずここ数週間見続けてボロボロになってしまった、提示された試験問題の紙の束で顔を隠した。


 昼食後に行われる筆記試験は睡魔との戦いだったが、勉強の甲斐あってか、はたまた基礎中のキソであったためか、浅木はかなり手応えを感じていた。

 そして、結果発表。

 この時間にもなると、試験中にはありえなかった話し声と喧騒がどこにでもついてきた。そして会場となった道場にガラガラと音を響かせ、紙が貼られたホワイトボードが設置された。人が集まってきて、浅木も深瀬に背中を押されてその群衆へと紛れ込む。合否の名簿は、受けた段位ごとに番号順に分けられている。初段は高校生が多くそれもまた学校で分けられているため、一般の試験人数はそう多くはない。すぐに見つかった。

《浅木草一》

 名前の横には、

《合格》

「センセェ! 受かった! おれ受かった!」

 くるりと反対を向いて、浅木は叫んだ。

 対して深瀬はその唇に人差し指をあて宥めようとしたが、嬉しそうな浅木に思わず頬を緩めている。

 群衆から抜けてきた浅木はスマホの画面を見せ、また笑顔になった。先程、合格の張り紙を写真に撮ったらしい。

「見てよこれ、合格だってさ。受かると思ったよ」

「あぁ、そうだな。おめでとう」

 深瀬はそう言って腕を上げて浅木の頭を撫でる。

「合格したからなぁ、ご褒美を渡そうか」

「ゴホービ? なに? 焼肉?」

 踵を返して控え室の方に歩いていった。控え室にはほとんど人はおらず、みんな結果を見に行っているようだった。深瀬は自分の荷物を漁ると、十センチほどの細い棒状のものを浅木に渡した。木で出来ているようで、ツルツルとした表面には木目のような凹凸が不恰好にくっついている。そして上の方にボタンみたいな突起がある。

「なにコレ」

「ギリ粉入れだ」

 ギリ粉は、弓を引く時の滑り止めのような役割を担っていた。右手につけるグローブのような“ゆがけ”の中指につけて、親指で擦ってなじませる。浅木も使っていたが、イマイチ効果があるのかは浅木にはよくわかっていなかった。

「この上のところを回すと穴が見えるだろ、そこから出てくる。ちょっとカテェが草一なら大丈夫だろ」

 浅木が上の部分を持って回すと、キリキリと音を鳴らしながら確かに回り半回転ほどで小さな穴が見えた。

「あとこれ、これはギリ粉がなくなって詰め替える時にスプーンみたいに使え」

 次に渡されたのもまた木だった。スプーンと言われたが、地べたに置いておけば木片と相違ないように見える。浅木は、コレで粉すくえんのかなと思いつつ、感謝の言葉を述べた。

「じゃあ次も頑張れよ、次は弐段だな」

「え、俺またベンキョーすんの?」

「人生は勉強の連続だぞ。そんで弓道は人生だ。草一がそうなるかは、お前次第だがな」

「まぁ、またセンセェが連れてきてくれるならやるかな。遠いし」

「もちろんだ。だが、必ずしも一回で合格する必要はないさ。合格した時が合格する時なんだよ」

 なにを当たり前のことを、と浅木は思った。そりゃあ不合格だった時は不合格だし、合格の時は合格だ。だが、深瀬がなにか大切なことを言っているような気はしていた。

「ねぇ、先生」

 そして、浅木はもう我慢ならなかった。大切にされるたびに心は飛び跳ね、周りが見えなくなるほどに深瀬しか見えなかった。弓を引いている時と同じ。静寂。

「俺、先生のこと好き。めっちゃ」

 深瀬はその言葉に笑って同意しようとしたが、すぐに浅木の緊張した顔に言葉が詰まった。

「それは、たぶん、笑い飛ばしちゃいけねぇやつだろ」

「うん」

「申し訳ないね。俺は結婚だってしてるし、孫もいるし、残念ながら草一みてぇな若い子に恋をするほどの感情も体力も残ってねぇんだ」

 わかっていた。

 むしろこの歳の男に告白して、気持ち悪がられないだけマシだった。いや、これが最高の結果だ。だから特段、心抉られるような喪失はなかった。

「だが、そうだなぁ」

 深瀬は少し声色を変え、言葉を続けた。

「俺が死んだらぁ、骨くらいは拾ってもらいてぇな。草一には」

 深瀬の後ろから、喧騒と共に合否を受けた人々が戻ってきた。静寂は止んでしまった。



     ***



 そう言った先生は、俺が高校三年の夏、癌で死んだ。肺癌だそうだ。

 俺は葬式にも通夜にも行かなかった。

 昇段審査の後しばらくは普通に来ていたが、だんだん姿を見かけなくなって、俺も審査の後は毎日道場に行くようなことはなくなって、そして、気がついたら訃報を聞いていた。草一には入院していることを言うなと言われていたらしい。道場で、俺だけが先生が病に伏していることを知らなかった。

 そして、これも後で知ったが、遺体のお骨を拾うことができるのは遺族と親族だけらしい。先生はああ言ったが、俺に先生の骨を拾うことなど、到底出来はしなかったのだ。先生は知っていたのだろうか、俺が骨を拾う約束を果たせないこと。からかわれたのだろうか。嘘、だったんだろうか。

 そんな考えが頭を巡って一週間が経った。

 学校には変わらず行っていたが、授業の内容も北条との会話も教師の怒声もよく聞こえなかった。聞こえるのはどこに行っても鳴り止まない蝉時雨。立っているだけで思考を奪われる猛暑と揺らめく陽炎に、ほとんど参っていた。

 その日も形だけの学校が終わり、家に帰ろうとアパートの階段を登ると、白髪の混じった初老の女がインターホンを鳴らしていた。ひらりとしている薄ピンク色をした洒落っ気のあるシャツに、ゆとりのあるジーンズのパンツを履いている。しかし、ラフだが洒落たその服装に反して、女の表情にはかげりがあり、やつれているようにも見えた。

 女の前の扉には、203号室と書かれている。

「ウチに用すか」

 俺が声をかけると、初老の女は少し驚いた顔をして俺の方を向いた。

「浅木、草一くん?」

「まぁ」

「アポなしでごめんなさいね。私、深瀬夏菜子って言います。深瀬健晴の妻です」

 深瀬健晴、俺の好きな人、先生、の妻。この人が。思ったより若い。深瀬先生はほとんど自分の家族の話を俺の前でしなかったから、写真ですら見たことがなかった。

 名乗られてもなお俺が黙り込んでいるのを見て、夏菜子さんは口を開いた。

「草一くんを探していたのだけど、道場にも顔を出してないって聞いて。申し訳ないとは思ったんだけどね、お家を教えてもらったの。ごめんなさいね。どうしても渡したいものがあって」

「渡したいもの?」

「そう。……あの、もしよかったらお店は行かない? 暑くてたまらないわ。あなたも私に聞きたいことが出てくるかもしれないし。もちろん、この後予定がなければだけれど」

「じゃあ、近くのファミレスでいいすか。五分くらい歩きますけど」


 ファミレスに着くまで、ほとんど会話はなかった。夏菜子さんも先生の葬式やらなんやらで疲れているようで、二人の沈黙の中に蝉の声だけが響いていた。

「すみません、アイスコーヒーひとつ。……と、何にする?」

「同じので」

「アイスコーヒーふたつでお願いします」

 店員のかしまりましたという声を聞きながら、前に座る夏菜子さんを見た。

「ケーキとかパフェとかもあったけどよかったの? もし頼みたくなったら頼んでいいからね。育ち盛りでお腹空くでしょう?」

「あざます。……でも、大丈夫です」

 今は何より、夏菜子さんが渡したがっているものが気になっていた。そして、彼女は俺が先生に告白をしたことを知っているのだろうか。もし、知られていたらだいぶ気まずい。涼しい店内に入ったからといって、名乗られてから感じている緊張は少しもほぐれなかった。

「これを、ずっと渡したかったのよ」

 そう言って鞄から取り出したのは封筒と、小さな巾着袋だった。

「これは」

「遺言書って言うの? 正式なものとは別に、草一くん宛に残していたみたいなの。実はね、私この手紙を見つけるまであなたのことほとんど知らなかったのよ。気にかけてる生徒さんがいるのは、なんとなく知っていたけど、あの人全然話さないんだもの。他にこうやって手紙を残している人なんていなかったし、あなたを探すの、ちょっと手間取っちゃったわ。でもきっとすぐに渡してあげないといけないって思ったの。……中、確認してみて」

 俺は促されるまま、封筒をびりびりと手で開けると、二つ折りされた手紙を取り出した。走り書きみたいなその文字は、先生を彷彿とさせるにはあまりにも弱々しかった。


《浅木草一くん

 俺はどうやらもう長くないらしい。

 こんな書き始めで申し訳ないが、手紙は書き慣れない。それに君も遠回しな言い方は嫌いだろう? それに堅苦しい文章も。自由奔放な君は、いつでも伸び伸びと弓を引いていたね。ブランクがあったが君の射は力強く安定していた。小柄な俺は少し羨ましかったよ。そして、俺に好意を持ってくれたこと、それも実を言うと羨ましかった。俺はもう十分生きたからな、今更ドキドキしたりカッコつけたりする気力も体力も落ちてきてるんだ。男に告白されんのは初めてだったが、この歳になって好意を持たれるなんて思っても見なかったから素直に嬉しいと書いておくよ。君は随分物好きだ。これから苦労するぞ。

 それと、これは俺のわがままだから無視していい。突っ返していい。むしろ断ってくれる方が君のこれからにはいいのかもしれない。それでも、もし受け取ってくれたら、それはそれで天国か地獄でいい酒が飲めそうだ。

 妻に、俺の骨を草一に分けてくれと伝えてある。好きにしてくれ。


 それから、君に弓を教えられてよかった。弓道は俺の人生そのものだ。これからも愛してくれたら嬉しい。


 君は母ちゃんに心配ばっかかけてるから地獄行きかな。じゃあ、地獄で待ってるぞ。俺以上に弓が上手くなってから来い。

 深瀬健晴》


 一緒に渡された巾着袋の中を開けると、小さい骨が一つ入っていた。

「骨を渡してくれって、遺言書に書いてあったの」

 夏菜子さんは良い人だ。何も知らない、葬式にも行かなかった俺のために手紙を渡し、夫の骨を分けてくれた。突っ返される可能性もあったのに。黙っていれば俺は何も知らずに生きていく。何を思って俺に、渡そうと思ったのだろう。なんならもっと遅く渡すこともできたのに。こんな死んでから一週間ぽっちで、会いに来てくれるなんて。

 先生は、愛されていたんだな。

「あの。先生の、健晴先生の墓の場所、教えてもらってもいいすか。……墓参りできるように」



 人は、みんな等しく死ぬ。

 好きな奴も、嫌いな奴も、どうでもいい奴も、家族も、他人も、死にたい奴も死にたくない奴も、みんな死ぬ。いつか死ぬ。

 手を伸ばしたところでどうにもならないし、「死ぬな」という方がワルモノのような気もする。俺たちは受け入れなければいけない。他人の死を、そして自分が死ぬことを。

「せんせぇ、どう? 副流煙おいしい? せんせが吸ってた銘柄なんだけど。……こういうのって墓に酒かけるのが一般的だよな。せんせぇは何の酒が好きだったんだろ、今度ビールでも持ってくるね」

 浅木の口から流れた煙草の煙が「深瀬家」と刻まれた墓を包む。

 煙草の火を消すと浅木は腰を上げた。半袖の白いワイシャツと制服に、左手にはハイライトが握られている。まだ残る暑さのせいか、墓に供えられた花は少々くたびれ、線香は風で倒れていた。花と線香も必要だったなと思いながら、浅木は立てかけていた矢筒を肩にかけ歩き出す。

 矢筒には小さな巾着が括られており、その中で遺骨が頷くように少しだけ揺れた。

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