水底へ

 その日は、激しい雨が降った翌日だった。

 一日中続いた灰色の空からは一変。濁った空気も晴れていて、少女の世界にも一面の青空が広がっていた。


 しばらくぶりの晴れ間に、心が躍る。運良く────今となっては不運にも、働きに出る必要がなかった母と、少女は二人、海辺を歩いた。


 この時、繋いでくれた手を、鮮明に覚えている。あたたかく、優しい、体温を。


 いつもなら喉を突き刺すような潮風も、この日は無い。日差しが暖かく、穏やかな日だった。


 そう、穏やかな日だった。過ぎていく日々と同じ。少女の記憶の、ほんの一欠片になるはずの一日に過ぎない。そう、思っていた。


 あの女が現れる、その瞬間まで。


 こつ、こつ。ハイヒールの足音が響いたのを、いやに覚えている。


 鮮烈な銀色と、純白を引き連れて、女は少女の前に現れた。


 ふわりとした純白のドレス。裏地から覗く赤色は、咲き誇る前の蕾のようで。緩く巻かれたプラチナブロンドの髪は、光を受けて硝子細工のように煌めいていた。


 自分とは、いや、普通の人間とは何がが違う。そう感じさせるような威圧感に足がすくんだ。気高く鋭い黄金色の瞳は、じっと、少女を見据えている。目が合った瞬間、喉からひゅっと、声にならない悲鳴が漏れた。


 ふわりと揺れるプラチナブロンドの髪が、美しい笑みが、なぜだかひどく恐ろしかった。


 と、立ちすくむ少女の横で、母が突然跪いた。地面についた膝が濡れることも一切躊躇わず、母はゆっくりと、その女に首を垂れた。


 その異様な光景を、ただ見つめることしかできない少女に、母は鋭い声で言い放った。


『頭を下げなさい!』


 初めて聞くような母の声に、慌てて従う。地面に触れた足が、じわりと冷たくなっていくのがわかる。少女は顔を顰めたまま、ゆっくりと頭を下げた。


 何が起こっているのか、この人物は誰なのか。何もかもが分からなくて、母の方へ目をやると、その背中はひどく、震えていた。


 こつ、こつ。ゆっくりと、足音が近づいて来る。

 音がするたびに、心臓が大きく脈打つ。妙な緊張で震える唇から、小さく息が漏れた。


 こつ、こつ。白いドレスとは対照的な、真っ赤な靴が視界の端に映った。何も見たくなくて、少女はさらに、頭を深く下げた。


 それでも、足音は近づくばかりで。音が鳴るたび、頭がじわじわと痺れていくような錯覚を覚えた。


 やっと足音が止まった頃には、両方の靴が、視界の真ん中に、はっきりと映っていた。指先が震え、嗚咽が漏れそうになる。そんな少女の目の前に、女はゆっくりとしゃがみこんだ。

 真っ白なドレスの裾が地面に触れ、じわじわと汚れていくのが見える。女の後ろに控えていた、護衛らしき男二人が、血相を変えていたのを覚えている。


 そんな周りの動揺を気にも留めず、女は手を、少女の方へと伸ばした。爪は、目が覚めるような赤い爪化粧が施されていた。艶やかで、どこか毒々しい赤。それが、ゆっくりと、少女の頬を掴んだ。女は顔を掴んだまま、無理矢理上を向かせた。


 金色の目が、目の前に、あった。声にならない抵抗は、か細い悲鳴となって消えていく。その瞳で見つめられると、脳が痺れたようになって、身体中からがくんと力が抜けるような気がした。


「……瓦礫の町ここに忌み子がいるというのは、本当だったのね」


 ひどく冷たい声で、女は言った。少女目を見つめたまま、唇を横に歪める。


「こんな幸せそうな忌み子を見たのは初めて。まさか、母親からも愛されているとはね」


 女の言葉に、母がびくりと震えた。何も言わぬまま、じっと首を垂れている。女は満足そうに笑うと、少女の顔から手を離した。力が抜け、体が身体が地面に投げ出される。地面に触れて濡れる感覚も、もう感じなかった。


 ぐるぐると回る頭で、不規則な呼吸を繰り返す。視界が霞みがかっていたのは、錯覚ではないはずだ。


 女は、そんな少女を一瞥し、護衛の男たちに言った。


「捕まえて」


 また、足音が近づいて来る。ここにいてはいけない。わかっていたが、足に力が入らず、少女はその場に座り込んだままだった。なにか、激しい音がする。


 ────なにもかも、わからなかった。


 そんな少女を現実に引き戻したのは、母の声だった。


「レイラ!!」


 慌てて、母の方を向く。母は、地面に押さえつけられていた。何度も何度も、少女の名前を呼ぶ母の頭を、男が踏みつけた。 表情が歪む。それでも、母は少女から目を逸さなかった。


「レイラ!お願い、早く逃げて!」


 護衛が、『黙れ!』と怒声をあげ、母の身体を蹴り上げた。

 苦しげな悲鳴が、脳裏に響く。


「お母さん!!」


 無理矢理足に力を入れて、立ちあがろうとする。


「お母さん……お母さん!」


 何度も、名前を呼んで、母の方に手を伸ばした。

 一緒に、あの女から逃げなければ。


「……レイラ、お願い、逃げて……!」


 震える母の声。それが、最後。


 頭の後ろに強い衝撃を感じて、記憶は途切れた。



 *+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*



 目覚めた時、少女は見知らぬ部屋の床に転がされていた。冷たく無機質な、石の床。壁も天井も、同じ色の部屋だった。


 頭が、まだ鈍く痛む。ぼんやりとする記憶を遡りながら、少女はゆっくりと立ち上がった。


「お母さん……?」


 返事は無い。ただ、自分の声が反響するだけだ。

 それが、酷く不安で。少女は何度も母を呼びながら、無機質な部屋を歩き回った。


「お母さん!お母さん……!」


 何度名前を呼んでも、返ってくるのは沈黙ばかり。あまりの不安と恐怖に、少女はその場に座り込むことしか出来なかった。


(なんで……。何が起きてるの……)


 何の変哲もない、そんな一日になるはずだった。なのに、なぜ。運命の歯車は、どこで狂ってしまったのだろうか。


 そんなことを考える少女の背後から聞こえたのは、聞き覚えのある、足音。


 こつ、こつ。静かな部屋に、規則的な足音が響く。頭が、ひどく痛む。


 霞みがかった頭に、記憶が一気に流れ込んだ。 母の呻き声。自身の叫び。そして何よりも。女の、黄金色の瞳。


 そんな悍ましい記憶と、沈黙を引き連れて、女は姿を現した。

 真っ赤な靴はあの時と同じ。しかし、身体を包むドレスは、上品な黒で、最小限の飾りしかないものへと変わっていた。

 その姿は、馬に乗って遠乗りに行くのではないかと思わせる。しなやかさや気品の中に、活発さを感じさせる姿だった。


「目が覚めたのね」


 冷たい声。背筋が、ぞくりと凍りつく。


「……相も変わらず、忌々しい瞳だこと」


 その瞳で、少女を睨め付けながら、女はくつくつと笑った。

 そんな女を、少女はなんとか見つめ返す。


「……お母さんは、どこ。ここからッ─────」


 返事の代わりに降ってきたのは、鋭い痛みと、乾いた音だった。腕が、焼けるように痛い。見ると、そこは赤く腫れ上がっていて、血が流れていた。


「口の利き方には気をつけなさい。呪われた瞳の子が、生かされているだけありがたいと思うべきね」


 女の手にあるのは、艶やかな黒の鞭。ああ、これで打たれたのだと理解するのに、しばらくかかった。


「あなたはもう、私の物よ。私の命令を聞き、実行する。あなたはそうするために生まれてきたの」


「訳がわからない……!お母さんは……!」


 鞭の音。焼けるような痛み。少女は声にならない悲鳴を漏らした。

 立ち上がり、女を睨みつける。それすらも、女は許さなかった。


 少女を蹴り飛ばし、何度も何度も、鞭の雨を降らせる。立ち上がることも、言葉を発することもできないような、正しく地獄のような時間だった。


 雨が止むまでの時間は、少女にとって永遠のようだった。やっと、痛みから解放された。その頃には、抵抗する力も、気力も、何もかも残っていなかった。


 そんな少女の前に、女───いや、主はナイフを放り投げた。微かな金属音ともに、ナイフは床を転がっていく。


「拾いなさい」


 黙って指示に従う。命令に背くことが、ただただ、恐ろしかった。

 握ったナイフの柄は、ひどく冷たい。


「それは、今からあなたの体の一部。片時も手放さないこと」


 頷く少女を見て、主は満足げに笑う。そして、女はもう一つ、少女の前に何かを投げた。 色褪せて、あちこちが破れたぬいぐるみ。床に転がるそれは正しく、母が少女のために作った物だった。


「……なんで」


 そんなつぶやきが、静かに消えていく。呆然とぬいぐるみを見つめる少女に、主は冷たい声で、


「切りなさい」


 と、告げた。


 理解ができなくて、主の顔を見た。感情のない瞳が、じっとこちらを見ている。ゆっくりと首を横に振ると、主は容赦なく鞭を振るった。

 それでも。何度打たれようとも、母との思い出を壊すことは、できなかった。


(……なんで、こんな事に……)


 心がちくりと傷んだ。それを感じた途端、目が熱くなって、涙が溢れた。拭っても拭っても、涙は止まらない。


 へたり込んだまま泣く少女を見て、主は大袈裟にため息をついた。

 黄金色の目が、ぎらりと光る。妖しい光を湛えたまま、女は歌うように語る。


「……あなたの母親は愚かだわ。高値で忌み子を買うと言っているのに、頑なに首を縦には振らない。どんなに痛めつけても、駄目なのよ。可哀想に。あなたのせいで、母親は今も拷問を受けているのでしょうね」


 息が止まるような、感覚。視界が激しく暗転するようで、ひどく気分が悪い。

 母が、自分のせいで、傷つけられている。自分が生きている限り、母が自分を見捨てない限り、地獄は終わらないのだ。


 吐き気がした。頭がまた、痛み始める。手が震えて、ナイフが床に落ちる。響いた金属音は、ひどく無慈悲なものに思えて。


「なんで……なんで、お母さんが……」


 震える少女の声を無視し、主は続ける。


「命令従わないのは構わないわ。好きにすればいい。

 けれど……あなたが従うまで、母親への拷問は続けるわ。もしも、あなたがしっかりと言うことを聞けるのなら────」


 黄金色が、こちらを覗き込んでくる。色のない、しかし眩い色彩の瞳に、思わず息を呑む。


「母親の命は、保証する。食事も、寝床も、何もかも。さあ、選んで?自分が、母親か」


 ぴき、と、心に罅が入った。大切な何かが、ゆっくりと、壊れていく。


 震える手で、ナイフを拾い直した。静かな部屋に、自分の鼓動だけが響いている。うまく、呼吸ができない。喉に穴が空いたような、か細い呼吸を繰り返す。


 目の前が、滲んだ。頬を涙が伝う。 涙を拭って、ゆっくりと。


 ぬいぐるみを、手に取った。


『レイラ』


 あたたかい。母の、体温を感じる。


『レイラ』


 あたたかい。母の、声を感じる。


「……おかあさん、ごめんね……」


 ナイフを、突き立てた。足元に、壊れた破片が散らばっていく。


 ぬいぐるみと一緒に、少女の中でも何かが、音を立てて、壊れた。


 ─────崩れていく視界の中、見えるのは、煌々と光る黄金色だった。

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