貴方へ

レイラ

 男の言葉に、少女はただ、立ちつくすことしかできなかった。指先から、全身から、力が抜けていくのがわかる。手からナイフが滑り落ちたことも気に留めず、少女は力無く、男の傍らに座り込んだ。


 心臓が早鐘を打っている。上手く呼吸ができない。いくら息を吸っても、酸素が入って来なかった。

 視界がぐるぐると回るような錯覚の中、少女は頭に反芻する、男の声を聞いていた。


レイラ……』


 瞳が、揺れた。淀んだ赤は、ゆっくりと、星屑のような光を宿していく。目の奥が熱くなった。と同時に、涙が溢れた。 それは、苦しみや悲しみで流すものとは違う、暖かい、暖かい涙だった。


 彼は、見つけてくれたのだ。誰にも届かないと諦めていた、少女の声を。


 そして、呼んでくれた。記憶の奥で、が呼んだ、その名前を。


 ちらりと、男の方へと目をやる。殺すつもりで斬った肩からの出血は酷かったが、幸い命に関わるものでは無かった。

 一定の感覚で、胸が上下している。少女は、それが命を失う直前の呼吸では無いことを理解していた。

 多量の出血による気絶。頭を打った様子もなかったし、そのうち目を覚ますだろう。


 夜風に攫われる月白の糸を、そっと指で掬いあげる。少女の触れた場所は、目の覚めるような赤色だった。


「あなたは、気がついてくれたのね」


 全てを奪った男は、皮肉にも少女の最も欲していたものを与えた。


『今ならまだ、戻れる』


 その言葉の通り、男は少女を導いた。たった一つの、淡い希望の元へ。

 ずっとずっと、閉じ込めていた記憶が、音を立てて溢れた。


 世間の注目を一身に浴び、鮮烈な華を人々の目に焼き付けた連続殺人鬼、悪意の華ロベリアの、歩んだ軌跡。


「わたしの声を、聞いてくれるかしら?」


 頭上に浮かぶ満月が、何も言わない男の代わりに頷いた気がして、少女はゆっくりと、声を紡いだ。


 それは、悪意の華ロベリアでは無い。

 レイラの、1人の少女の記憶だ​──────。



 *+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+*



 刺さるような潮風と、絶えず舞う砂の雨。絶景と謳われた宝石の海ユウェールすらも、色を失うような白黒モノクロの街が、少女の世界だった。


 美しい海も、色とりどりの人たちも、露店に並ぶ宝石のような果実も、少女の世界には無い。あるのは、崩れた瓦礫と、息が詰まるような濁った空気だけ。


 なんでこんな場所に住んでいるのか。物心ついた頃には、だいたい理解していた。自分の日が、自分の髪が、他の人とは違うこと。そのせいで、美しい世界では暮らせないこと。


 白い日で見られることも、心無い言葉をかけられることも確かにあった。しかし、この世界の住人は、どうやら他人を気にする余裕はあまり無いらしい。


 少女は、自分が世間からは“忌み子”と呼ばれる存在であることも、人々が忌み子にどれほどの黒い感情を抱いているのか、知らずに育った。


 何故、少女が人々の悪意に触れることがなかったのか。理由はもう一つ。普通なら虐げられ、酷い扱いを受ける少女を、深く愛した人物がいた。


 ──────それは、いつも私のそばにいてくれた、あたたかい人。


『レイラ』


 あたたかい声。その声がする方に、顔を向ける。艶めいた、琥珀の髪がふわりとゆれた。


『おいで?』


 青空をはめ込んだ、蒼玉サファイアの瞳がふっとはにかんだ。真っ白で、細い腕を広げる。琥珀の髪は、相変わらずふわふわとゆれている。


「お母さん!」


 腕の中に、駆け寄った。ぎゅっと、強く抱きしめられる。不安になるほど細い腕。でも、その中はびっくりするほどあたたかくて。


 ─────ああ、そうだ。はいつも、陽だまりの匂いがした。


 家族と呼べる存在は、母ひとりだった。自分の父や、祖父母という存在が、この世にいるのか。少なくとも、少女が会うことはなかったし、母も語ろうとはしなかった。


 ────後にわかった。は私を守るため、を捨てたこと。言葉にできないような、酷い仕打ちを受けていたこと。


 瓦礫の街での暮らしは、楽では無い。夏は満足に水を飲むこともできないし、冬は一日にひとつ、硬いパンを食べるので精一杯だ。

 側から見れば、それはそれは辛い生活だ。しかし、少女は幸せだった。

 どんな暮らしも、母がいれば、かけがえのない時間だった。


 ────は決して、笑顔と希望を絶やさない人だった。


 母は、少女に遠い街の、美しい景色を語って聞かせた。母はたくさんの知識を、少女に与えた。優しい、優しい声で紡がれる、未知の世の数々。そのひとつひとつを、鮮明に覚えている。

 よく晴れた夜には、空に瞬く星の物語を。雨の降った日には、晴れ間に掛かる七色の虹の物語を。


 ────の言葉全部が、私の宝物なの。


 そんな数々の物語の中で、いちばん記憶に残っている話。


 それは、彼女と同じ真っ黒な羽を持つ、小さな鳥の物語だった。


『むかしむかし、それはそれは黒い翼を持つ鳥がいました。その鳥は、みんなとは違う翼のせいで、ひとりぼっちでした。


 鳥の唯一の友達。それは、夜空の星々。黒い翼を夜空と思った星たちは、鳥を暖かく迎え入れました。


 しかし、鳥はいじわるな人たちに石を投げられ、もう二度と、飛ぶことは出来なくなってしまいます。


 鳥はひどく悲しみました。唯一の友達である星たちを失い、鳥は何日も何日も、ひとりで泣きました』


 ああ、自分みたいだ。そう思ったのを、覚えている。

 母という唯一の支えを失ったら、どうなるのだろう。この鳥のように、朝も昼も夜も、季節が何回巡っても、泣き続けるのだろうか。


『それから、長い長い時が過ぎました。飛べない鳥の元に、ひとりの少女がやって来ます。それは、鳥と同じ、真っ黒な髪の女の子でした。


“こんにちは。あなた、どうしてそんなに悲しそうなの?”


 鳥は答えます。


 ────もう二度と、飛べなくなってしまったの。空の友達にも会えないの。


 ぽろぽろと涙を流す鳥に、少女は楽器を弾いて見せました。あちこちでこぼこの、古いハープ。そこから流れる音に、鳥は心を打たれ、また涙を流します。それは、あたたかい、やさしい涙でした』


『それから、少女は毎日鳥の所へやってきて、楽器を弾くようになりました。鳥は、少女が来るのを心待ちにするようになりました。

 少女と過ごす時間は、取りにとってかけがえのないものでした。


 少女と出会ってから、三度目の冬。少女は、いつもの元気な様子ではありませんでした。真っ白な肌、ハープを握る指は、枯れ木のようにか細くなっているではありませんか。


 ────どうしたの?何があったの?


 慌てて、鳥は尋ねます。 少女は、痩せた頬で笑って見せました。


“ごめんね。私はもう、あなたと一緒に過ごせないみたい。私はね、もうすぐ星になるの。だから、あなたにあげる。いつか、飛んできてくれる?”


 少女は、鳥にハープを手渡しました。


 ────ねえ、お願い。置いていかないで。私はもう、飛べないのだから。


 少女は、そっと鳥を撫でました。その顔は、とても安らかで。


“大丈夫。きっと、飛べる”


 少女はもう、何も言わなくなりました。何度も何度も、鳥は少女に声をかけ続けましたが、二度と、目を開けることはありませんでした。』


 ああ、なんて可哀想なんだ。友達を奪われ、大切なものまで奪われて。

 自分なら、きっと耐えられない。


『鳥は、深く傷つきました。何日も、少女のハープを抱きしめ、泣きました。

 それでも、鳥を突き動かしたのは、少女の最後の言葉。


“きっと、飛べる”


 鳥は、空を見上げました。頭上には、満点の星空が広がっています。ずっと、ずっと前に離れ離れになった、友達の姿でした。


 鳥は、少女のハープを抱え、動かない翼を必死に動かしました。ひどい痛みが襲います。それでも、たとえ羽がちぎれそうになっても、鳥は諦めませんでした。


 ついに、鳥は空を飛びました。 鳥の周りを、星々が包みます。


 星たちの祝福の中、鳥に向かってひとつの星が、手を差し伸べました。それは、優しい星となった少女でした。


“ありがとう。約束を守ってくれて”


 少女は、ゆっくりと鳥を抱きしめると、額にそっとキスをします。


“あなたは、とても誇り高い鳥。優しく、勇気がある。そんなあなたに、星の祝福を。あなたに、星の名を”


 少女は鳥をそっと夜空に放ちました。星となった鳥は、少女の傍で悠々と翼を広げます。


 美しく、誇り高き星の名は、“レイラ”。


 その星は、今も夜空で少女と共に、輝き続けています。』


 この話を終える度、母はいつも、『貴方も誰かを思い、誰かのために動ける人になりなさい』と言った。


 母が自分の名前に込めた思いも、願いも、全て大好きだった。その願いに応えたいと思ったし、何よりも自分を愛してくれる母を、何よりも大切にすると誓った。


 しかし、少女は自らの手で、一番大切なものを手折ることになる。


 たったひとり。たったひとりの、たった一言で人生が一変することを、少女はまだ、知る由もなかった。


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