薄明

 月が白み始め、夜を待ち望んでいた獣たちは名残惜しそうにその気配を消していく。

 夜空が青みを帯びていく様子を、ルディは静かに見つめていた。


 夜明けの名を冠した探偵は、やってくる朝を迎えるようにその双眸そうぼうを細めた。


 事務所には香ばしいコーヒーの香りが漂っている。その匂いもまた、彼に朝の訪れを感じさせるものだった。

 白いカップに注がれたそれを一口。口に広がる苦味は、彼の中に残った少しの眠気をそっと奪い取った。

 コーヒーをもう一口、とカップを傾けたその時、騒がしいベルの音が彼の耳をくすぐる。


 カップを置くと、彼は受話器を耳に当てた。


『早くにすまないね、ルディ。アイザックだ』


「構わないよ、ザック」


 柔らかな口調で、ルディは微笑んだ。この旧友の声は、なぜだか彼を落ち着かせる。

 一方のアイザックはまだ半分夢の中なのか、普段より気の抜けた声音だ。


『自由に話せる時間が少ないんだ。ロベリアのおかげで、俺の地位も揺らいだね。この街の信頼にも、酷く傷をつけてしまったよ』


 アイザックは苦笑すると、ひとつ咳払いをした。

 2人の間に、静かな緊張感が走る。


『ルディ。お前は今どこまで掴んでいる?』


 ルディは瞳を怪しげに細めた。


「……ロベリアが狙う人の共通点だ。今回の黒狼卿殺しで、確信したよ」


 アイザックが、小さく息を飲んだのが聞こえた。

 それもそのはず。彼ら調査員が血眼になって探していた彼女の手がかりを、今この探偵は握っているのだから。


「……ザック。この話は他言無用だ。それだけ約束してくれ」


『何故だ?その情報はロベリアの逮捕に必要不可欠だ。調査を進めるには共有が必要だろ?』


「……理由は、すまない。依頼人との約束でね。

 私は、探偵なんだ」


 背中がぞくりと粟立つ。穏やかな口調に隠された有無を言わせぬ圧に、アイザックは彼の提案を飲むことしか出来なかった。


「……ロベリアが狙うのは、貴族だ」


 電話越しに、アイザックが息を飲むのが伝わってくる。

 それもそのはず。ルディの言葉は、認めたくないほど理にかなっていたからだ。


 脳裏に浮かぶ今までの被害者。そして黒狼卿。

 その全てが、ここヴィエトルに訪れた貴族たちだった。


『……何故、ロベリアはそんなことを……』


「動機はまだ分からない。だが、一つだけわかることがある」


 ルディは笑みを浮かべながら言った。


「ロベリアもまた、力を持つ者だという事だ」


 少し冷めたコーヒーを一口飲み込み、続ける。


「貴族の巡礼情報は極秘だ。地位のある─── 君のような調査員総隊長や、国の上層部しか握れぬ情報だ」


 察しが着いたのか、アイザックが身動ぎした。


『なるほどな……。その情報を持たぬ者が、どこにいるかもわからぬ貴族標的を狙って殺すのは……』


「そう。ほぼ不可能に近い。1回ならまだしも、5回もだ」


 先も見えぬほど濃い霧が晴れるような、そんな感覚がアイザックを襲った。


 この殺人には、間違いなく何か大きな力が絡んでいる。

 それは小さな小さな手掛かり。しかし、何にも変え難い大きな一歩でもあった。


「私が伝えられることはこれで全てだ。少しでも君の力になれたかい?」


『ああ。感謝してもしきれない。俺も何か分かればすぐに連絡する。本当に感謝しているよ、ルディ』


 興奮を隠しきれないといった様子のアイザックに、ルディは苦笑した。

 まるで幼い子供のような、無邪気な声色だ。


 そんなアイザックを嗜めるように、ルディは小さく息を吐いて問うた。


「ザック。ロベリアが目撃者を見逃すと思うか?」


 虚を突かれたかのような質問に、アイザックはたじろいだ。

 そしてしばらく黙り込むと、静かにこう言った。


『…まずないだろうな。ロベリアは華以外に現場に何も残さない。誰が起こした殺人かは一目でわかるが、ロベリアは誰かはわからない。そんな策士が目撃者なんて危険を残すとは思えない』


 至極真っ当なその答えに、ルディは静かに頷いた。


「……たとえその目撃者が、貴族ではなかったとしても…?」


 その質問に、アイザックは答えなかった。いいや、答えられなかった。

 ロベリアにとって、「貴族を殺す」ということがどれだけ重要な事なのか、まだ掴めていない。


 アイザックは押し黙ったまま、彼の質問の真意を考えていた。


 嫌な沈黙を破るように、ルディは笑う。


「すまないね。変な事を聞いた。忘れてくれ」


 否、アイザックは沈黙を貫いている。 彼はまだ、アレータという目撃者の存在を知らない。

 それがわざわいし、ルディが何かを抱えていることに感づいたのだろう。  それを彼はまだ言いたくないことも。


(ルディ……。お前の目が何を写しているのかは、今でもわからないよ)


 アイザックは小さく息を吐くと、苦笑した。


『……今回の情報には本当に感謝している。何度も言って悪いが、くれぐれも深入りだけはするな』


「ああ。君も、調査の時は気をつけて」


 静かになった受話器を置くと、ルディは視線を窓へ移した。

 空はすっかり青に染まっていて、朝の賑やかさが街を包む。


 そんな柔らかい朝の空気の中、ルディの瞳は狩人のような闇を湛えていた。


(……ザックの言う通りだ。あれほどの力を持つ殺人鬼が目撃者──しかも一般人を逃すわけがない)


 ルディは踵を返すと、事務所の真ん中に置かれたテーブルに触れた。

 その中央に置かれた花瓶には、少し色褪せて入るものの可憐に咲く一輪の花。


 純白の花弁を揺らす、アネモネだった。


「……貴方だったのか。大きな真実を抱えていたのは」


 真実の華──アネモネの名を冠した女性こそ、を胸に秘めていたのだ。

 血が湧き上がるような高揚感に、ルディは笑った。


 夜明けと共に目覚めた獣は、である彼女をその目にとらえた。


「アレータ・シュヴェスター様。貴方には、もう一度真実を語って貰おうか」


 止まった時が動き出すように、事件の真相に辿り着くための歯車が一つ、動いた。

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