彼女の依頼

板倉恭司

出会い

 あの日、俺の心は死んだ。




「隆一、ちょっとコンビニでお醤油買ってきて」


 扉越しに、母の声が聞こえてきた。春山隆一ハルヤマ リュウイチは、面倒くさそうに答える。


「今は忙しい」


「忙しいって、どうせスマホいじってるだけでしょ」


 聞こえてくる母の声を無視し、隆一は自室でスマホをいじっている。高校生の彼にとって、母の頼みは聞かなくていいものだった。

 やがて、母は溜息を吐く。


「わかったわよ。もう頼まないから」


 ぶつぶつ言いながら、母は出て行った。コンビニは、歩いて十分ほどの距離である。すぐに帰ってくるだろう。


 突然、サイレンの音が鳴り響く。次いで、怒鳴るような声が聞こえてきた。

 隆一は顔を上げる。いったい何事が起きたのだろう。

 まあいい、俺には関係ない話だ。隆一は、再びスマホに視線を落とす。

 それから十分ほど経った時、ドアを叩く音がした。ノックではなく、拳で叩いている音だ。

 なんだなんだ、と思いつつ自室を出る。直後、玄関のドアが開かれた。

 そこに立っていたのは、制服を着た若い警官だ。すぐそこの交番勤務の青年である。彼は、ドアが開くと同時に慌てた様子で口を開いた。


「すみません。春山亜由美アユミさんと思われる女性が、遺体となって発見されました。来ていただけますか?」


 春山亜由美は、母の名前である。隆一は呆然となり、とっさに言葉を返せなかった。


 それからのことは、断片的にしか覚えていない。

 はっきりわかっていることはひとつ。母はコンビニに行く途中、公園を突っ切ろうとして通り魔に襲われ刺殺された。不意を突かれ滅多刺しにされた挙げ句、公園の茂みに放置されていたという。

 通り魔は、その後も通行人を襲った。駆けつけた警官たちに取り押さえられるまで、三人を殺したという。一番最初に襲われたのが亜由美だった。




 死体安置所で、隆一は父と共に母の遺体と対面した。

 死体と化した母の表情は、ひどく歪んでいた。死ぬ間際、どれだけ苦しい思いをしたのかが伝わってくる。

 その顔は、お前のせいだ、と言っているような気がした。


 ・・・


 それから、十年が経った。

 ここは閑静な住宅地だ。周囲は静まり返っており、物音はほとんど聞こえない。そんな場所で、隆一は電柱の陰に潜んでいた。

 時刻は午後十時を過ぎている。周囲は、既に暗闇が支配していた。隆一は、スマホを見ている……ふりをしながら、周囲に気を配っていた。




 やがて、遠くから足音が聞こえてきた。隆一は、表情を堅くする。

 ひとりの男が、こちらに歩いて来るのが見えた。歳は、二十代前半から後半だろうか。隆一と同じくらいの年齢であろう。

 ただし、風貌は真逆である。彼はアイドルのように整った顔の持ち主であり、ホストのような髪型をしていた。細身のすらりとした体に、ブランド品の高級スーツを着ている。身につけている装飾品も、高級なものばかりだ。がっちりした筋肉質の体を運送会社の作業服で覆い、坊主頭に帽子を被っている隆一とは正反対のタイプだ。

 男は、まっすぐ歩いていく。片方の手でスマホをいじくりながら、警戒心のかけらもない表情で隆一の前を通り過ぎていった。

 なんと愚かな男なのだろうか。自身のこれまでしてきた悪行について、全く考えていないらしい。

 この若者の名は秋本義春アキモト ヨシハルだ。これまで、その綺麗な顔とモデルのようなスタイルそして口の上手さで、大勢の女を騙してきた。聞いた話では、被害者は十人以上いるらしい。

 そんな悪行を重ねてきたにもかかわらず、秋本はスマホをいじくりながら路上を歩いている。周囲を警戒している雰囲気は、まるで感じられない。

 その警戒心のなさゆえ、この男の運は今日で尽きた。隆一は、音も立てずに背後から忍び寄る。

 後ろから、そっと首に腕を巻き付けた。


「歩きスマホは危ないよ。次回があったら、気をつけるんだな」


 耳元で囁きながら、一気に絞め上げる──

 秋本は、ようやく自分が危機に陥ったことに気づいたらしい。スマホを落とし、必死でもがく。だが、その抵抗は無駄だった。隆一の腕は彼の気道をふさぎ、頸動脈を絞めていく。

 やがて、秋本の意識は途切れた。隆一はスマホを拾い上げ、親しげな様子で肩に腕を回す。


「おいおい、どうしたんだよ? 飲みすぎたんじゃないのか?」


 くだけた口調で語りかけながら、彼を運んでいく。

 秋本の体を車の中に運び入れ、両手両足をきっちり縛りあげる。さらに、体を大きな絨毯でくるんだ。あとは、この「品物」を届けるだけだ。

 運転席に移ると、再び車を走らせる。これから依頼人に会い、若者を差し出す。それで、仕事は終わる。

 秋本は今後、死ぬよりも恐ろしい目に遭わされるのだろう。もっとも、隆一の知ったことではないが。



 翌日の夜、都内のとある事務所にて、隆一とふたりの男が向かい合っていた。


「ご苦労さん」


 中年男は、札束の入った封筒を隆一に渡す。全身から、堅気ではない雰囲気を漂わせている。傍らには、チンピラ風の若者が控えていた。パッと見で、どんな職業の人間なのか判別できる。今時、裏社会では珍しいタイプだ。


「ありがとうございます。また何かありましたら、よろしくお願いします」


 隆一は一礼し、事務所を出ていく。その後ろ姿を、チンピラは顔を歪めて見つめる。


「兄貴、あいつ本当に暗いっスね。もうちょっと愛想良くすればいいのに」


「そうなんだよ。こないだキャバクラに連れてったら、あいつニコリともしやがらねえ。女が気を遣っていろいろ話しかけてんだけど、ずっと不機嫌そうな顔してんだよ。おかげで、場がすげえシラケちまった」


「マジっすか。キモいッスね」


「ああ、キモい奴だよ。何があっても表情ひとつ変えねえ。まあ、仕事はきっちりやってくれるけどよ。あいつ、感情ないんじゃないか」




 事務所を出た隆一は、地下駐車場へと入っていった。停めておいた車へと近づいていく。が、おかしな声が聞こえてきた。


「ナメてんじゃねえぞゴラァ!」


 明らかに普通ではない。隆一は、そっと近づいていった。

 大柄な若者が、地面に倒れた小柄な中年女を蹴飛ばしているのが目に入る。傍らには、なぜかスタンガンが落ちていた。


「ざけんじゃねえぞ、このババア! ブッ殺してやるよ!」


 喚きながら、若者は中年女を蹴り続ける。だが中年女は、なおも闘おうとしていた。蹴とばされながらも、必死の形相で足に掴みかかろうとしているのだ。


 なんだ、こいつは?


 興味を感じた隆一は、無言で足音を立てずに近づいていった。この若者、かなり大きい。身長は百九十センチ近く、体重も九十キロを超えている。このままだと、中年女は殺されるだろう。

 見知らぬ女が、死のうが生きようが関係ない……はずだった。しかし、なぜか放っておけないものを感じた。

 隆一は、音も立てず若者の背後に回る。と同時に、落ちていたスタンガンを拾う。

 次の瞬間、若者に押し当てた──

 若者は悲鳴をあげた。完全に不意を突かれ、地面に倒れる。しかし、意識は失っていない。何やら喚きながら、すぐに立ち上がろうとする。

 立ち上がらせてはまずい。この男、体は大きく力も強そうだ。仕留めるのに手こずって、誰かに見られたら困る。出来るだけ早く仕留めなくてはならない。

 隆一は、起き上がろうとしている若者に、もう一度スタンガンを押し当てた。バチバチという音の直後、若者は激痛のあまり転げ回る。その隙に、若者の首に腕を巻き付けた。そのまま、一気に締め上げる。

 やがて、若者の体の力が抜けていった。意識が途切れ、そのまま動かなくなる。




 トランクに積んであったロープで男を縛り上げ、車の後部席に乗せた。

 次に、中年女の方を向いた。彼女は、未だ地面に座り込んだ体勢だった。呆然とした表情で、こちらを見ている。

 隆一は、しゃがみ込み尋ねた。


「あんた、こいつとどういう関係なんだよ? よかったら、話を聞かせてくれねえか」


「で、でも──」


「俺は、あんたを助けたぞ。礼の代わりに、事情を聞かせてくれや。なあ、いいだろ」


 隆一が、いかつい顔を近づけて来る。その迫力に押され、中年女は語り出した。




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