キョウキの言葉

淳平

@

英語が話せたところでなんなんだ。


学生時代に、勉強をしないことに対する言い訳として私がよく使っていた言葉だ。世界共通語かなんだか知らないが、自国の言葉を話せればそれでいい。他の国に行くつもりなど毛頭ないのだから、話せたところで利点がない。そんな哀れな考えを持っていたのだ。


だが、私は今それを激しく後悔していた。目の前の綺麗な女性が何を言っているのか、全く理解できないからだ。なんとなく英語を話していることはわかるのだが、具体的な意味が全くわからない。まるで見えない言葉の壁が大きく立ちはだかっているかのように、彼女との意思疎通を不可能にしている。


こうなってしまうと、無知な私としてはなす術がない。当然ながら私の言葉なんて通じないし、身振り手振りも通じない。

一体どうしたものか。女性はひどく取り乱している。


「どうか安心してください。」


無駄な言葉が私の口から飛び出ていった。通じるとは微塵も思っていなかったが、言わなければいけないような気がした。

無論、彼女にその言葉は理解できないようだった。訳の分からない言葉に余計怯えた様子で、ただ同じ言葉を何度も繰り返している。


私もその言葉の意味は解らない。


だがふとこうも思った。もしかしたら、彼女は私の意志を理解しているのではないかと。私が何を考えているのかを、言葉無くして、彼女は理解しているのではないかと。


彼女がひどく取り乱しているのがその証だと思った。彼女が最初から私など見ていなかったことが、何よりの証拠だったのだ。


彼女は私の右手を見て、理解したのだ。


これから私が行う行為を、私の秘めたる心の内を、彼女は理解したのだ。私の右手に持つモノが、まるで万国共通の言語のように、彼女との言葉の壁を切り裂き、その意志を伝えたのだ。


私はゆっくりと彼女に歩み寄る。

暗い夜道、月明かりに照らされて白銀色に光るナイフが、彼女の瞳に映るのを眺めながら。


「Don't kill me!」


私の辞書には存在しない彼女の言葉が、また暗闇に吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キョウキの言葉 淳平 @LPSJ1230

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ