二人ぼっちのブーケプルズ
M.S.
二人ぼっちのブーケプルズ
私だけが知っていた。
図書室からの帰り道、連絡通路で鳩が死んでいるのを見掛けて足を止めた。
近付いて見下ろすと潰れていて、生命の
夢占いに
私は占いが好きだ。
悪い事が起こったら占いの
私が失敗を犯すのは運勢の所為で、私が自由を侵されるのは星の巡りの所為。学校が嫌いな社会不適合者になったのは仏滅に私が産まれたから。受験に失敗して動物園みたいな高校にしか入れなかったのは受験会場近くの公園で
得てして切望する程の願いというのは叶わないもので、悲願という言葉の成り立ちは、本当は成就しなかった願いから来ていると思う。
もし私が
屈んで鳩に触れようとした所、鳩の嘴の先から──まるで
鳩の羽根に付着している方の血はすっかり乾いているようだが、嘴の先に落ちている斑点は上履きで
鳩の喀血は渡り廊下の向こう、この時間誰も使用していない
この学校は廊下のリノリウムが赤いので気に掛けないと恐らく誰も気付かないが、私には血というものが廊下の赤いリノリウムに、実際はあまり親和しない事を知っていた。
保健室の廊下で大腿から血を溢している事が多い私には
注視して初めて気付ける血痕を
そしてそれは四階の視聴覚室の扉で途切れていた。
誘われるように開ける──と言うと、言い訳がましい。
完全にこの奥に、同種が居るという確信が有った。最早この学校という組織の中で少数派にすら属せない程
開けた教室内は鉄の匂いが充満していた。
並べられた長机の一つ、その机上に血の主は腰掛けていて、天板と床を自身の血で汚していた。
私が教室に入ると彼は肩をびくりと震わせ、恐る恐る面を上げた。
「あ......、先生には、言わないでね」
血の主はうち捨てられた人形のような風体でそう言った。
「どうして、切ってるの?」
私が訊くと、彼はその
「......鳩が、死んでた」
そしてぽつり、呟いた。
「鳩も学校じゃ、ノアの元に帰れないよなって。代わりに僕が死んでたら、あの鳩は
「......」
いや──もうその
痛い程に、解ってしまった。
細やかなものにでも良いから、何かに
非難や
その返答を聞いただけで──私は彼を好ましく思った。
そんな
私は長くしてあるスカートの裾を
彼は、私が腿に彼の手首と似たような
そんな笑顔も泣き顔も似合いそうなあどけない顔の下で、彼──
私だけが知っている。
†††
高校三年生になり、私は叶他君と同じ学級になる事が出来た。フェンスに
斜め後ろの座席に座る叶他君を
この一年はあの瞳の深さを、自傷した切り傷を定規にして私だけが測れるのだと思うと、もう胸が切なくて切なくてどうにかなりそうだった。
鳥の死骸を目にする夢というのは必ずしも凶夢ではなく、物事が好転する吉夢でもあると、先日図書室で学んだ。
であればやはり、私はあの日渡り廊下で死んでいた鳩に感謝するべきなのだ。
......え? 鳩が死んでいたのは夢でなく現実じゃないのかって? もう今の私にとっては夢も
†††
私達は業後
本棚を背に肩を寄り添えば、理不尽な打撲痕も破かれたスカートの裾も忘れられた。
活字に触れた事の無い生徒達の記憶からは失われている図書室の、誰も訪れない社会・経済・歴史コーナーの本棚裏が私達の聖域だった。
叶他君は本を読むのが好きで、私は本を読んでいる叶他君の横顔が好き。
だから毎回縋るように、叶他君の肩に頭を乗せた。すると叶他君は書見を中断し、手にしている本の内容を噛み砕いて
「......そして七日待って、ノアが放した鳩が橄欖の小枝を咥えて戻って来たのが、鳩と橄欖が平和の象徴とされる
「じゃあもしその鳩が
私の言葉に叶他君は失笑する。
「はは、その頃欧州に樒は無かったんじゃないかな」
「ふぅん。欧州にもあったけど隠されてたんじゃない? 樒って木に
「確かに、もし鳩が樒の毒で死んでいたらそもそもノアの元まで帰れないしね」
勿論
「にしても樒だなんて、
「じゃあ叶他君がノアだったら、鳩にどんな花を持って来て欲しい? その答えで、占いをしてあげる」
叶他君は手にしていた創世記をぱたんと閉じて、本の小口を見詰めながら──
「そうだね......、僕が放した鳩は──真っ白な
花の名を口にする流れに誘導すると、叶他君はそんな返答で花に言葉を
白い紫羅欄花の花言葉は──密かな愛。
樒と
「......紫羅欄花と答えた
「......」
「特に赤でも紫でもなく、白い紫羅欄花と答えた貴方。その花言葉と同じように胸の内に秘めた想いを秘め続けるのなら、世界どころか一人だって気付けません。ですが、自白しても
と、あくまで占いの結果だという
「さぁ、当たってたかな?
意地悪にも、なる。
「......花が好きなら、解るでしょ」
「解っちゃって、良いんだ」
顔を向けると叶他君は不自然に目を
「じゃあ私がもし──『君の頬に
「──こう、取る」
私は、叶他君のらしくない不意打ちに一瞬理解が及ばなかったが、彼の
†††
叶他君は虐められていても尚、孤高だった。
傷を隠す為に一年中着ている学ランを剥がされて腕を嘲笑された時も、昼食に出処不明の汚い調味料を追加された時も、上履きを化学の時間に燃やされた時も、ただ厳かに項垂れていた。
机の上に花束を置かれた時は、花瓶を持参して教室の隅で育ててさえいた。
叶他君は確かに項垂れてはいたけれど、そこに
虐めは段々エスカレートしていった。
最近の
ある日体育の更衣から教室に戻って来ると、叶他君は他の男子に背後から両腕を捕まれて正座させられ、背中に足を掛けられている所だった。両腕と背中、三点を固定されて微動だに出来ず、白の体操服は所々血が滲んでいた。
叶他君が、拘束をしているのとは別の男子から無防備な所を攻撃されている事は容易に想像出来た。
──またか。
直後に訪れるだろう日常を
私を押した女子は嫌らしい笑みを浮かべて、転んだ際に落とした私の体操着入れをぶん取った。
私物を取られた上に退路を断たれて、進退
「おお、雨束。丁度良い所に来たな」
叶他君を拘束していた男子が下卑た加虐心に満ちた声を出す。気持ちが悪い。叶他君以外が私の名前を口にしないで欲しい。
突き飛ばされた女子にセーラーカラーを掴まれ引き
今日は一体何をさせられるのだろうと──私は胸を躍らせた。
「俺、良い事思い付いちゃってさー。これ、取っといたんだよね」
叶他君を殴っていた男子が制服のポケットから取り出したのは──食パンに塗るような個包装のジャムだった。
意味がよく解らず、私は当惑する。
その男子は包装を破き、空手の方で叶他君の髪を掴んで無理矢理面を上げさせた後、ジャムを叶他君の口元に塗りたくった。
「おい雨束。これ、全部舐めろよ」
......大丈夫。
──その程度なら大丈夫。
だってもう私と雲仙君はとっくに──こんな場所ではなく、高度な次元で繋がった恋人同士なのだから。
私達にとってはそのような事、思春期の男女を狭い籠に閉じ込めるような程度の低い青臭さがあって、逆にその所為で羞恥を感じる。
そこまでこいつらが計算してのこの所業なら脱帽もするのだが。
けれど何の心的負荷も無いからと言って嫌がる素振りも見せずに事を速やかに終わらせると、この
だから、ゆっくり時間を掛けて私は叶他君を奇麗にしていく。まるで健気な犬が飼い主を慰めるみたいに。
肩で息をしていた叶他君はその呼気に、徐々に湿り気を帯びさせてきた。初めの頃はそんな事無かったのに、この頃はそうしてくれて嬉しい。
私達の頭上で、野卑で耳障りな笑い声が響いている。
でも何の
†††
図書室だろうと虐めの教室だろうと愛し合って来た私達ははっきり言って無敵だった。敵自体は居たのだがそれをいちいち敵と認知しない程、私達はすっかり
卒業式の前日深夜に二人で校舎に忍び込み、私達の机にそれぞれ叶他君が教室で育てていた白百合を新しい花瓶に生けて、一部はコサージュにして添えておいた。
当日の式は休んで叶他君の運転するレンタカーに乗り、那須の旅館へ温泉に入りに行った。
†††
高校を卒業後、在るべきものが在るべき形になるよう自然、同棲する事になった。確か一緒に新宿御苑を歩いている時に、叶他君が
私としては同行二人、不離一体の私達の心はお互いの胸の内に
その足で物件を決めに行った。
木造アパート一階の1DKが、私達の新しい居場所になった。
叶他君は昼間に仕事へ行き、私は歓楽街でバイトを始めた。
†††
朝方、バイトから家に戻るとリサイクルショップから引っ張ってきたソファに叶他君は小さく腰掛けて、舟を漕ぐようにうつらうつらしていた。その舟が、昔図書室で話したノアの方舟だったら嬉しい。
私と叶他君だけが乗ってる舟にお花だけを乗せて、この星を出てしまうのだ。
「叶他君、おはよう」
私がそう声を掛けるといつも叶他君は瞼の下に
「おはよう。もう朝なんだね」
「布団で横になってて良いって、いつも言ってるのに」
「低血圧だから、ソファでこうしてるのが丁度良いんだ」
「血圧、低そうな寝顔だもんね」
「それ、どんな寝顔?」
気恥ずかしそうに掻いている頬は少し染まったものの、それでもやっぱり
「じゃあ、行ってくる。おやすみ、此処乃」
「うん、行ってらっしゃい。気を付けてね、叶他君」
だって、奇麗なものを拾った時は、失くした時の事も考えてしまうから。
──私、こんなに幸せで良いのかしら。
ソファのヘッドレストに染み付いた叶他君の匂いに、そんな事を思う。
そしてある日、そんな私の憂いを
夕方、ソファで
「これを」
そう言い叶他君は集合ポストに入っていたのだろう、それを私の目の前に差し出した。
どうやらその葉書が彼の表情の答えらしく、私は不穏当なものを感じながらもそれを受け取る。
「......」
その葉書はどうやら結婚式の招待状のようで、差出人は高校の頃私達を
「どうしてここの住所が分かったんだろうね」
「
「......どうしよう」
私達の世界に
「......うん」
腕を組んで思案顔をしていた叶他君が、何かを決意するような
「良い考え......いや、悪い考えがあるんだけど、聞いてくれる?」
そう続けた叶他君は至純な幼い少年のように、悪戯な顔で
聞き終えたその考えは実際良い考えであったし、確かに悪い考えでもあった──笑ってしまうくらいに。
「ふふっ。それ、すごく面白そう」
「だろ?」
もしその考えが上手く行けばそれ程痛快な事も無いし、今後彼らの
「やってみようよ」
「そうこなくちゃね──あいつらの結婚式、めちゃくちゃにしに行こう」
叶他君は葉書の『御出席』の〝御〟に二重線を引き、〝出席〟に丸を付けた。
それからは二人で顔を寄せ合ってスマートフォンを
〝計画〟を上手く運ぶ為、実際に式を挙げるのは私達でもないのに、式場の見学まで申し込んで事前に現地視察もした。
学校の勉強はしなかった癖にこういう事は面白い程に
先生に見つからないよう教室の隅で、校舎を
叶他君もいつも以上に
綿密に練った〝計画〟はこれ以上無い程に馬鹿馬鹿しくて、しょうもなくて、大真面目な舞台をしらけさすのに最適なものになった。
†††
式のある当日、朝のワイドショーでやっている星占いを見ていた。私の星座である水瓶座は最下位でその上ラッキーアイテムはブロンズという、どう捉えれば良いのか解らない結果内容だった。
けれど、私は
今日を笑って越えられたのならそれは私達の成果だけれど、失敗したらそれはこのワイドショーの
「準備出来たよ。行こうか」
「うん」
叶他君が顔を出して、私はテレビの電源を切り立ち上がった。
まるでふらっとスーパーの買い出しへ行くような足取りで、玄関を出る。
渋谷駅から徒歩十五分程度の立地にあるその専門式場はヴィクトリア調のチャペルで、厳かな雰囲気がコンセプトの大聖堂を模したものだ。
会場の入り口には人だかりが出来て〝ここでこれから成功者が式を挙げます〟と言いたげな人間のマーブリングが形成されていた。
その中へ私達はいかにも新郎新婦の数居る友人の内の一組ですという顔で受付を済ませ入場し、聖堂の身廊、その両脇に無数に配置された端の方のチャーチベンチに腰を下ろした。
控え目な灯のシャンデリアも
人垣の向こうで
「すごいよね。自分達がやった事を棚上げにして、あんな顔が出来るなんてさ」
叶他君は起立したものの拍手はせず
「よし、行こうか」
「うん」
叶他君に先導され本来関係者以外立ち入り禁止のバックヤードへ
そのまま事前に見学の時〝調べた〟通りの順路を使って私達はバックヤードから参列者を見下ろせる二階部分──
左手には冷やかしの
「皆さん、こんにちは。......ご紹介に
参列者達の顔が磁石に作用する砂鉄のよう一斉にこちらを向く。その顔達に驚きと動揺が滲んでいるのが良く分かる。
叶他君から拡声器を受け取り、私は友人代表としてスピーチをする体で話し始める。
話す内容は考えていない。
元々口だけは回る方だし、今までされてきた事の汚いエッセンスを抽出し、それを皮肉に乗せるだけで良い。
要は、いつも通りで、話すだけだ。
「この度はご結婚おめでとう御座います。......とは言っても新郎新婦はお色直しでこの場を離れておられますが。二人の前で話すには少々
忌み言葉を駆使した私の長広舌に聴衆は次第に不快感を露わにしていく。私が新郎新婦のお幸せを重ね重ね心から願うと口にした頃、桟敷に立つ私達に向かって聞くに堪えない罵詈雑言を投げる人がちらほら現れ始めた。
私は拡声器を階下に放り、叶他君は桟敷の隅に設置された聖歌隊の像、その像が手にしている細く長い十字架を乱暴に外し──それを聖堂の天井から下がっているシャンデリア目掛けて思い切り
腕木と装飾をばら撒きながら落ちるシャンデリアを避けるよう蜘蛛の子を散らした参列者達は、光源すら失った闇の中で阿鼻叫喚となった。
そんな暗がりに乗じて私達は罰当たりにも主祭壇の壇上を足場にして階下に飛び降り、新郎新婦が入場に使ったリムジンに転がり込んだ。叶他君がハンドルを握ってエンジンを掛け、身廊を疾駆してそのまま式場を脱出した。
丁度ホームに停まっていた列車に駆け込み乗車して、閉扉のアナウンスを耳に肩で息をし膝に手を付いた。
扉が閉まり列車が動き出す頃、私達二人は──
「......はは、はははは」
「......ふふ、ふふふふ」
「あっはっはっはっ」
「うふふふふふふっ」
この世界を
この世界でやっと
人生で初めて心の底から笑った。
終点で停まり、改札横の駅員室で切符を落としたと伝え通してもらった。もっと大事なものを落としたような気もするが、思い出せないという事はそれ程大したものではないのだろう。
八番出口から地上に出て、目の前の横断歩道を通って
橋の中程で
「えいっ」
投げたブーケは放物線を描いて隅田川の川面に着水する。きらきら揺れる大きな水鏡の上で
私達の過去を
そのまま東京湾の向こうまで流れて、あの夕日で火葬もされれば良いと思う。
「さぁ、これからどうしようね」
「あのブーケを見届けたら、
「良いね、賛成。......北と南、どっちが良い?」
「寒いのは苦手だから、南が良いかも」
「じゃあ、青ヶ島なんてどう?」
「ふふ。本当に、南だね」
「
「うん。こんなにわくわくする逃避行は人類史上で初めてかも。青ヶ島、楽しみ」
とんでもない
欄干で
私達が出逢ったあの日に渡り廊下で死んでいた鳩の喪に服した後、私達は東京を出た。
二人ぼっちのブーケプルズ M.S. @MS018492
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