第8話 山川天の戦い

 声が遠のき、木々の中で一人になる。


 第一ポイントは、スタート地点から道なりに谷を上がったところ。最初に現れる分岐。

 先輩たちが他チームと差をつけてくれた。こちらが有利な状況だ。焦ることは無い。

 自分を落ち着かせる。


 まずはまっすぐ登山道に沿って走る。巨岩と小さな滝が現れる。地図には『源氏の滝』とある。滝の脇に石段があって、登るとお堂が現れる。地図では卍マーク。開けた明るい道を走る。傾斜はきつくない。まだほかのチームの気配はない。

 送電線が頭上でクロスする。そこから道はゆるやかに右へ曲がっていく。右、右……。


「――あった!」

 そうこうしているうちに、一つ目のポイントを見つける。右手の尾根にとりつくための分岐から少しそれたところ。木々の間から、白と橙の三角柱が見えた――


 ――が、別のものも見えた!


「やぁ」


「なんで藍ちゃんがここにぃいいいいいい⁉」

 絶叫する。


 あたしより数歩先に第一ポイントへたどり着いたのは、白いノースリーブ。帝王寺高校一年・広瀬藍ちゃんだった。デジャブか?


 背後に気配は無かったはず。てっきり、もっと後ろにいるからだと思っていたが……。


「天気がいいからね、上を向いて走ってきたよ」

 藍ちゃんは爽やかな笑顔をこっちへよこし、すぐさまあたしに背を向けて走りはじめる。ショートボブの毛先が揺れる。


 見上げると、木々の間から送電線が見える。おそらく藍ちゃんは頭上の送電線でおよその距離を測って一直線に道なき道を走ってきたのだ。


「帝王寺高校のルーキー。異例の一年生レギュラー。その天性の走りに付いたあだ名は『獣道けものみち白帝はくてい』――」


 出発する前に畷くんから聞いたセリフだ。


 獣道。飯盛山でも見たことがある。鹿や猪なんかが通った跡。人が歩く登山道ではない。道なき道だ。


「くそっ!」

 あたしもすぐに第一ポイントのコントロールユニットにカードをかざし、彼女の背中を追う。


 第一ポイントで逆転されてしまったという結果は、スタート兼ゴール地点にいる先輩たちにも知られてしまっているはずだ。


 ……失望、されただろうか?

 暗いイメージが浮かぶ。

 模擬戦の時と同じことが起こっている。

 それぞれの先輩と修業し、頑張ってきた。

 風子先輩と基礎体力訓練。

 燐先輩と読図訓練。

 卓美先輩と鬼ごっこ訓練(?)

 今日、その先輩たちが他のチームに差をつけてくれた。

 それが、たった数分で、崩れた。あたしが、台無しにした……。


「うわぁあああああああああああああ」


 一人で悲鳴を上げる。


「――オラァ!」


 その後、気合とともに自分で自分の頬をビンタする。ママにも打たれたことないのに! 自分で!


 パシコーンという小気味良い音が響く。小鳥たちもビビッて一瞬振り返ったほど。


「まだ……まだ――負けてない!」


 小さな声でつぶやく。自分に言い聞かせる。

 走馬灯見てる場合じゃなかった。

 こんなところで諦めては、先輩たちに会わせる顔がない。


 沢沿いの道に戻り、息を整えながら、一瞬地図に目を通す。第二ポイントへ行くには、この道を通るしかない。

 ただ、この道は細くて狭い。たとえあたしに上りで藍ちゃんに追いつく脚力があったとしても(もちろん実際には無いが)、追い抜きが困難だ。

 おそらく藍ちゃんはそこまで見越して、第一ポイントへのわずかな距離で仕掛けてきた――そしてここで、一気にあたしを突き放すつもりなのだ。


「すぅー、はぁー」

 考えたって仕方がない。今は追いかけないと。


 第二ポイントはこの沢の出どころである池のほとり。つまり水の流れをたどっていくのが最短ルートであり、迷いようもない。

 濡れた道を走り、橋の下を通る。橋の上は車道らしい。通り過ぎると一気に視界が広がる。斜面を駆けあがるとウシガエルの声が響く池に出る。


「おっ」

 爽やかな笑顔とすれ違う。

 第二チェックポイントにカードをかざして、すぐに彼女を追う。


「待てコラ」

 卓美先輩に影響されたのか、口が少々悪くなる。


 次のチェックポイントは交野山山頂。めちゃわかりやすい。単純に登りの体力を試される区間だ。池を後にして、現れた車道を安全第一で横切ると、尾根道に入る。


 一段、一段、踏み出す。

 心が急く。身体は悲鳴を上げる。なかなか距離は縮まらない。

 ぶるぶる頭を振って、雑念を追い払う。マイペースだ、マイペース。

 姿勢は、風子先輩の背中を意識する。背中に一本の棒を入れたイメージ。体重移動はバランス良く。速すぎもせず、遅すぎもせず、止まらず、一定のペースで。


 気がつけば、視界が開けていた。なだらかになった尾根道を、藍ちゃんが走っていくのが見えた――よかった。まだそんなに離されたわけじゃない!


 額の汗を腕で拭い、生まれたての小鹿みたいに震える自分の脚を、その拳でぶん殴る。もうちょい頑張ってくれよ、あたしの脚!


 暑い、汗とか土とか汚い、お風呂入りたい、ベッドで寝たい……初めて山に登った時に感じたネガティブな感情たち。それが今はまったく出てこない。


 血液が沸騰しているみたいに、身体が熱い。蒸気が出ている気がする。汗でも涙でも、出たければ好きなだけ出ればいい。泥だらけになっても――今は勝ちたい! 負けたくない!


 交野山の山頂には観音岩と呼ばれる巨石がある。すばらしく景色が良いが、今はそれに構っていられない。以前に翔子と見たから、今日は結構。遠慮しときます。


 いくつかの道が合流しているが、即座に地図を見てルートを選択する。

 その道に足を踏み入れる。藍ちゃんの通ったあとと思しき痕跡がある。比較的ゆるやかな尾根道。ここから4番目のチェックポイントまでには途中で何本も分岐があるので注意が必要だ。


 タンタンタタン。リズムよく駆け降りる。左手から一本の道が合流するが、これは無視して直進。やがて木々の向こうに送電線が見えてくる。ここで地上は道が三本に分かれる。真ん中の谷を降りていくと1番のポイントに戻ってしまう。ここは左の尾根道を下るのが正解だ。


「…………」

 そこで、あたしは足を止める。


 くだりは得意だ。でも、このまま馬鹿正直に追いかけて、天才・広瀬藍ちゃんに追いつけるだろうか?


 もう一度、地図とコンパスで現在地をアイデンティファイする。

 このまままっすぐ行くと、もう一度送電線の下をくぐって道は左へカーブを描く。 

 よく見ると、地図上の送電線が途中で折れている。これは鉄塔があるということを意味する。道はこの鉄塔をよけるために左へ曲がっているのだ。


 おそらく藍ちゃんは、あたしがもう追いつけないと見て、順当にこの道を下って行っただろう。その方が確実だ。

 つまり、一発仕掛けるなら、ここしかない。


「――よし!」


 方向をしっかり見定め、道なき道へ踏み込む。


 地図の読み方――読図の仕方は、燐先輩に教わった。燐先輩の課題でも、道なき道に飛び込んだことを思いだす。あの時は、ギリギリだったけれど上手くいった。今回も、できるはずだ。

 鉄塔を大きく迂回する道には入らず、そのまま直進。


 方向を見失わないように、ある一点を決める。そこへのルートを、瞬時に考える――いや、考える間も無く、身体が動いている。

 あの木の左側から抜けて、あの窪みに右足を、その次はあの根のそばに左足を。重力に引っ張られる。スピードがどんどん上がる。枝を避け、茂みを飛び越す。

 斜面が少しなだらかになり、元の登山道が現れる。


「ここだ!」


 景色が歪んで後方へぶっ飛んでいく。位置エネルギーを頼っている部分はあるが、こんなスピードで走ったことなんて、今までの人生で無かった。


 きっと、本気で走ったことが無かったのだ。

 まぁあたしはこんなもんだと、勝手に割り切っていた。

 頑張らなかったから、負けても悔しくなかった。


 ――だが、今は違う!


「お・い・つ・い・た・ぞ、ウラァ!」


 自分でも聞いたことが無いような馬鹿でかい声が、自分の喉から出る。

 そう、追い付いたのだ。

 最後の分岐にある、4番目のチェックポイント。そこで今まさに読み取りの機械にカードをかざそうとする藍ちゃん。


「な、どうやって――⁉」

 彼女は一瞬呆けて目を丸くしていたが、すぐに気を取り直して走り始める。


 あたしは斜面を下ってきた勢いを殺さず、チェックポイントを通過――その差は約三秒といったところか。


 あとは追いかけっこだ。


 藍ちゃんの背中を追いかけながら、深北緑地で卓美先輩と繰り広げた鬼ごっこを思い出す。卓美先輩と比べたら、彼女のスピードも大したことないような気がした。もしかしたらあたしがスピードに乗っているからかもしれない。


 あたしが脚を動かしているのか、あたしが脚に動かされているのか、もはやわからなかった。何かネジが飛んで、脚が外れるんじゃないかと思った。


 でも、回転を止めるわけにはいかない――潰れるなら、ゴールしてから……目の前の藍ちゃんを追い越してからにしてくれ――


「おおおおおおおおおお!」

「ああああああああああ!」


 どっちがどっちの叫びか、わからない。あとはがむしゃらに走った。ほとんど横に並んだ……。

 汗が目に入って視界がぼやける。ぼんやりした視界の中で、ゴールが見える。皆が、待っている。


「ゴォォォル!」


 倒れるようにして、卓美先輩の胸に飛び込む。さほど弾力は無いけれど、温かい。


「よう頑張った。よくやってくれたで!」

「お疲れ様です」

「かっこよかったで~」


 卓美先輩があたしの背を叩いている。燐先輩がタオルで汗を拭いてくれる。風子先輩が水を飲ませてくれる。


「ど、どうなったんで……すか? 前が、よく見え……ない」


「勝ちましたよ!」

「勝ったで!」

「優勝や!」


 汗じゃないものが、頬を伝う。


「やだ……なんでだろ……」


 べつに悲しいわけでもないのに、むしろ嬉しいのに、涙があふれて止まらなかった。


「好きなだけ泣いたらええねん。涙が出るってことは、泣くほど嬉しかったってことで、そんだけ頑張ったってことやねんから……」

「うぐっ……うわあああああん」


 あたしは卓美先輩の胸で、子どもみたいに、泣いた。

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