第4話 森本燐の活動報告より

 高校生になったらアルバイトをするつもりでいた。しかし楠木高校は進学校で、表向きはアルバイトが認められていなかった。夏休みなんかにこっそりアルバイトをしている生徒がいることは知っていたが、ついにその機会を逸してしまった。


 別段両親に頼まれたわけでもないが、長女たる私はできるだけ下の弟妹たちに迷惑をかけないようにしなければという使命感を勝手に持っていた。


 中学生の頃は、まだ小学校にも通っていない末っ子の瑠璃るりを保育園へ送り迎えするという体で、三年間帰宅部を貫いた。


「お前はそんなことしなくていい。子どもらしく、好きなことをしなさい」

「そうよ、送り迎えくらいお母さんがやるわ。あんたたち姉ちゃん二人と双子をここまで育ててきたプロやで。舐めたらあかんで」

 両親はそんなことを言っていたが、私の家が裕福でないことくらいは人付き合いの下手な私でも、同年代の子供たちを見ていたらわかる。

「大丈夫、大丈夫。私が好きでやるんだから」


 ただ、部活には入らなかったが、周囲からの期待と内申点のために生徒会の仕事をやったこともあった。その点はたいへん中途半端だった。優等生キャラというやつを知らぬうちに演じていたのだ。


 優等生キャラは当然、受験勉強も頑張らなければならない。塾にも通わず、中学校の先生を使えるだけ使って勉強する。内申点もしっかり付けてもらう。生徒間のキャラ付けというのは、しっかり大人にも浸透しているのだ。優等生キャラには相応の内申点を。


 しかし家に帰ったら弟妹の世話で時間を取られる。勉強をするのは瑠璃や双子のれんれいが寝静まってから。日付を跨ぐのはもちろんのこと、睡眠時間が三時間を切ることもしばしば。


 そういう生活を十五歳の中学生が続けているとどうなるか。そのくらい予想は着きそうなものだ。私は受験直前に風邪をひいた。寝不足で体力が落ちているところに、瑠璃が保育園からもらってきたウイルスか何かをまんまと受け取ってしまったらしかった。


「お姉は、何でもかんでも一人で抱え過ぎだよ。ウチらを子供扱いしてさ……」

 反抗期に片足を突っ込んだ当時中学一年生の蘭子らんこがそう言ったのを、ぼんやりとした頭が覚えている。



「お? お前もオリエン部志望か?」


 体験入部期間初日に女子オリエンテーリング部の戸を叩いた変わり者は、私の他にもう一人いた。それが木村卓美だった。


 部活動紹介冊子の中からわざわざそのマイナースポーツ、マイナークラブを選んだのには、深いわけは無かったような気がする。


 受験期に体調を崩したことと、どうせアルバイトは禁止されているということを鑑みて、高校一年、二年の内は体力を付けるのが急務だと思われた。幸い、末っ子の瑠璃も小学校に入学するから送り迎えは不要になる。


 また、地図と自然を読み取る知的なスポーツという点にも興味を持った。体力も付けつつ、地理的な、地学的な知識も身につけば一石二鳥ではないか。


 さぞ知的な学友がその部活動を通じて得られるだろうと思っていた矢先、いかにも文武の武の方に偏っていそうな少女と遭遇したものだから、正直なところいささか幻滅していた。大変失礼な話だが。


「森本燐」

「ん?」

「お前ではなく、森本燐です」

「おっとコイツァ失礼。オレは木村卓美。よろしくな、燐ちゃん」

「いきなり馴れ馴れしい!」

「ん? なんかゆうたか?」

「なぜそこだけ聞こえない!?」

「ええからええから」

 言いながら、彼女は部室(倉庫)のドアノブに手をかける。


「たのも〜」

「その挨拶はおかしい」


   ◇◇◇


 回想は終わりです。


 その後、我らが先輩にして伝説の部長が登場するのだが、それはまた別の話。次の日だかその次の日だかに、卓美が風子をほとんど拉致する形で連れてきて、私たちの代は三人になった。


「燐ちゃん!」

 その風子の声。


「よく頑張りましたね。あとは任せて!」

 知らず、胸が熱くなる。風子が一番に繋いでくれた地図を開く。


 交野山こうのさん一帯の地形図は既に頭の中に入っている。別に難しいことではない。舞台がここだとわかった時点で国土地理院の地形図をダウンロードして印刷して、毎日考えられ得るルートをシミュレーションし続けてきただけのこと。勉強の基本は反復練習だ。


「ふむ」

 思考は走りながら。


 風子が一位で帰ってこられたのは、ひとえに上りで差をつけたからだ。下りや平坦は、ひいき目に見ても彼女の実力は平均程度。追いつけるだけの実力を持った下り専門がたまたま第一走者にいなかっただけのこと。


 頭の中の地形図と実際の地図をアイデンティファイする。コントロールポイントを頭の地図の方にもプロットしていく。


 脳内の等高線はやがて立体的にそそり立ち、三次元の様相を呈する。私はその中に自分の現在地を俯瞰する。GPSもドローンも必要ない。大丈夫。完璧に掌握できている。


「さて」

 第一走者のポイント通過順は、スタート地点で待つ我々にも知らされる。第四のチェックポイントを通過したのは、楠木高校、帝王寺高校、千亀利高校、華大附属の順だった。脳内の地形に彼女らの想定される位置も配置してみる。無論余裕はない。すぐそこにいることが予想される。


 第一ポイントは無事に一位を守った状態でクリア。


「よし……というわけにもいかなそうですね」


 それは不気味な静けさだった。仕掛けるタイミングを測っているかのような。


「あら?」


 池のほとりの第二、そして山頂にある第三のポイントを一位通過。まだ仕掛けてこない。


「これは、下りの人たちですかね?」


 新入生の天さんは、元から下りを得意としていた。というか、ブレーキの掛け方を知らなかった怖いもの知らずなのかもしれないが。



「とらえましたよ!」


 シミュレートしていた順位を裏切る声がした。それは帝王寺高校の選手ではなく、その後ろにつけていた千亀利高校の選手でもなく……。


「ここまで来たら、あたしは止まりません!」

 華園大学附属高校次期部長候補の二年生。勇魚有いさなゆう。ロケットのように突っ込んでくるウェットスーツ。付いたあだ名はたしか……『陸のマグロ』。

 マグロは泳ぐのをやめると窒息してしまうから、睡眠中でも泳ぐのをやめないという話は有名だ。ここまでノンストップで走ってきたのだろう、得意げに笑みを浮かべてはいるものの、その頬は紅潮している。


 動くのをやめると死んでしまう。その性質から、落ち着きのない人に対して「お前はマグロか」という喩えツッコミが存在する。私は追いつかれてしまったこの後に及んで、我らが部長の顔を思い出して少し笑ってしまう。


「な、何を笑っているんです?」

 そんな私を見て、勇魚さんはギョッとした顔をする。


 確かに余裕ぶっている場合ではない。彼女が動いたということは、おそらくあちらも……



「尾根はいいねぇ」


やはり現れた。

 帝王寺高校の第二走者、副部長の増井長谷子ますいはせこ。木々の中でも目立つ高身長。


「『尾根おね炎帝えんてい』。聞いたことはありますよ」


 全ての尾根道は彼女のテリトリー。

 朱雀の尾。

 見下ろすように、見下すように、駆け降りてくる。


「尾根道は気持ちのいい風がふく。全てを見下ろせる」

 尾根道で炎帝に見つかれば、逃げられない。彼女の高身長も相まって、尾根道からの空間把握能力に長けているのだ。


「やれやれ……」

 尾根道には火花を散らす朱雀、陸にはただ真っ直ぐ進むマグロ。


「メチャクチャな人たちだ……。だがそれが面白い」

 眼鏡にかかった汗を振り落とす。私は別に、尾根から見下ろさなくても現状を把握できている。少々予想外の挙動をされたけれども、今目視で確認ができたから修正は完了。


「それでは!」

 全く唐突に、地図も確認せずに、茂みへ飛び込む。


「は?」

「ん?」

 尾根の炎帝と陸のマグロがキョトンとしたのがわかる。


 私はどうやら『森の精密機械シルヴァ・インストゥルメント』と呼ばれているそうだ。それほどに読図が正確で有名になったらしい。光栄なことだ。


 その私が、第四のチェックポイントを目前にして道を逸れた。それは当然気になってしまうだろう。今一度地図を確認するだろう。


 しかし、トップスピードで駆け降りているこのタイミングで、それは大きなタイムロスになる。なにしろ私の方は道を逸れても完璧にコントロールポイントの場所を捉えているからだ。


 マグロの軌道から逸れ、朱雀の視線から免れて、私は茂みの中を突き進む。蜘蛛の巣がひっかかったが気にしない。むしろ罪もない蜘蛛さんすいません。


 風子のように登りが得意なわけではない。

 卓美のように直線のスピードもない。

 私が辿り着いたのは正確な読図を極めること。地図を見る回数を減らすことによってタイムを縮める。地味だけれど、全体を見たときには効いてくるのだ。


 第四のチェックポイントも無事一位通過。とはいえ、随分と差を縮められてしまった。しかしそれほど焦りはない。なんでも一人でやることはないのだ。山を走るときはひとりぼっちだが、前と後ろにはバトンをつなぐ仲間がいる。


 卓美はもちろんのこと、つい一ヶ月少し前に出会ったばかりの山川天さんのことも、きちんと信頼できている自分がいた。卓美も信頼しているからこそ、あえてもう一度彼女にアンカーを託したのだ。

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