第4話 四條畷の戦い
「なぁ、楠木高校の一年生」
中田先生がこちらを振り返って話しかける。
「や、山川です」
名前を認識されないままというのも悔しかったので、ビビりながらサングラスおばさまに自己紹介をする。
「なぁ、山川」
「はい」
律儀にやり直してくれた。
「
「ええと……まだ一年生は世界史のさわりしかやっていないので……」
日本史用語だというのはわかったが、高校入試範囲の知識では存じ上げない。日本史教師に向かって知ったかぶりをするのも自殺行為かと思い、正直に答える。
「なにぃ?」
グラサンの奥で瞳が光る。こぇええ。
「ひぃ、ごめんなさいすいません」
「はーい、先生。ボクも知りませーん」
あたしをかばうかのように、藍ちゃんが能天気な声を上げる。ていうか、一人称ボクなんだ……。
「習ったことしか知らんっちゅうのは、中学校で卒業せなあかん。地域の歴史くらい自分で勉強しいや。特に日本の山っちゅうんは歴史・宗教と切っても切れん関係や。知っとるのと知らんのとでは、見える景色が変わってくる」
我々は再び前を向いて階段をゆっくり進む。
「中田先生はな、語りたいだけやねん」
藍ちゃんがあたしの耳元でささやく。ちょっとこそばゆい。
「広瀬ぇ、なんか言うたか?」
「無知蒙昧で愚かな一年生たちに四條畷の戦いとは何なのかご教示願いたいと申し上げました」
飄々と流れるようにうそをつく藍ちゃん。
「しゃあないのぉ」
中田先生はサングラスに落ちてくる汗をぬぐい、語り始める。
「南北朝時代っちゅうのは知っとるわなぁ?」
「京都・北朝の足利尊氏と、吉野・南朝の後醍醐天皇ですね。朝廷が二つできちゃったっていう」
藍ちゃんが合の手を入れる。あ、あたしだってそのくらい知ってるけど。
「南朝方の後醍醐天皇に味方した
お、楠木さんは聞いたことあるぞ。
「その十年後やったかな、父正成の遺訓を守って足利氏に戦いを挑んだのが
この飯盛山山頂にたたずむ像。あれがたしか、楠木正行さんだ。初見で読めない名前だなと思った記憶がある。まさゆきじゃないの?っていう。
「わずか三千の兵を率いて吉野を出発した正行が、足利氏の武将、
切腹とか好きそうだなこの先生……というのは偏見なので置いておいて。
中田先生は、その容姿に似合わぬ優し気な目で眼下の街を見下ろす。知らぬ間にそれなりの高さまで登ってきた。おそらく我々の待機エリアまでもうすぐというところ。
「ちなみにさっき集合しとった四條畷神社は、その楠木正行を祀っとる」
「へぇ」
「ほー」
「神社の参道をまっすぐ行って、線路もまたいでもっとまっすぐ行ったら、道の突きあたりにクスノキ生えとる緑の場所があるやろ?」
「そうですね。通学路なので、一応毎日通ります」
「あそこが正行さんのお墓やな」
そうだったのか……まぁ、公園という雰囲気ではないから、だれか偉い人のお墓だろうとは思っていたが。
「山頂に銅像、ふもとに神社、駅をまたいだ向こうにお墓って……後の世の人々、正行さんのこと好きすぎとちゃいます?」
藍ちゃんはフフフと静かに笑う。
「せやなぁ……妖怪退治の伝説なんかも残っとるし、英雄やでホンマ」
なんて話しているうちに、目的地に到着。尾根上のちょっとしたピーク。
「そして今日、オリエンテーリング界の四條畷の戦いが始まるわけやね」
藍ちゃんがいたずらっぽく笑う。
「う、受けてたとう!」
反射的に答えたがしかし、この喩えでいくと、我々楠木高校は負ける側では?
「ええけど、負けても自害はせんといてくれよ」
中田先生はその後、あたしたちを置いて山頂の方へ向かっていった。いちばん見晴らしのいいところで、この模擬戦の監督をするらしい。
厳ついジャージ姿が見えなくなると、急に静寂に包まれたような気がした。ゴールデンウィークの気持ちの良い風が森の木々をざわざわと揺らす音だけが聞こえた。
いよいよレースが始まるのだ。今までは基礎体力作り、読図知識の習得、謎の鬼ごっこしかしてこなかったから、誰かと競い合いながら山の中を走るのは初めてだった。なんだか緊張してきたかも……。
「どうしたん? 水でも飲む?」
あたしが深呼吸しているのを見て、藍ちゃんは自分の腰のボトルポーチからペットボトルを引き抜く。経験者の余裕なのか元からなのか、彼女の方はまったく緊張感がなさそうである。
「…………」
「あ、まだ口つけてへんから、大丈夫やで」
「いや、でも結構……です」
「『です』はいらんよ。一年どうし仲よくしよって言ったやん」
あたしが断ると、藍ちゃんは自分で水を飲んで、ちょっと残念そうにボトルをポーチに戻す。なんだかスポーツ飲料のCMみたいな爽やかさだった。
「天ちゃんは、最近オリエン始めたんやろ?」
「うん、そう」
「どんな練習したん?」
ムムム、これは高度な情報戦か? 阿呆なあたしから楠木高校の情報を引き出そうとしておるな? そうはいかないぜ。
「鬼ごっことか……かな」
「鬼ごっこ?」
嘘は言っていないけど、絶妙に相手の役に立たなさそうな情報を開示する。
「ええなぁ、そっちの方が面白そうや。こっちの先輩たちはバチバチのトレーニングが大好きやからなぁ……大阪人やのにまじめすぎるわ」
大阪人でもまじめにスポーツに打ち込む人はたくさんいるだろうけれど。
「期待の新人で、スカウトされたんでしょ?」
はじめて出くわしたとき、持田先輩がそう言っていた気がする。
「家が生駒山の方にあって、自然は友達ってだけ。チヤホヤしてくれるから入ったけど、伝統とか四天王とか、ちょっと堅苦しいね」
爽やかな笑顔で愚痴を言う。
「ボクはもっと自由に生きたいんやけど……」
自由……ね。誰かさんの顔が思い浮かぶ。午前十一時を少し過ぎたところ。第一走者であるあの人はもうスタートしている頃合いだ。
しばらくすると二人とも無言になる。運動会のリレーのように前の走者がどこにいるのか見ることはできないから、耳を澄ませないといけない。
あたしは心を落ち着けるために手元の地図をあらためてにらみつける。この一か月、何度も登りに来た山だ。地形図を見ながらその場の映像を思い浮かべることすらできる。
藍ちゃんはオリエンテーリング経験者とはいえ、学校の場所が
以前藍ちゃんとはここ飯盛山で会ったことがあるとはいえ、そう何度も訪れたことがあるわけではないだろう。地の利はこちらにある。
――ガサガサ
明らかに風の音ではない。来たか?
「こんにちは~」
違った。休日のハイキングおじいさんだった。
「「こんにちはー」」
藍ちゃんと声が重なるが、彼女の方は微妙に関西のイントネーション。
ドキドキしているあたしは、どちらが先に来てほしいのだろう?
アタシたちの前、第三走者は我らが風子先輩と向こうの増井長谷子副部長。もちろん楠木高校に所属するあたしは風子先輩が先に現れてくれることを願っているハズだが……せっかく先輩たちがつないでくれたバトンを台無しにするのではないかというプレッシャーがある。
帝王寺高校の方がリードしていて、新米のあたしは頑張ったけど、経験者の藍ちゃんには追いつけませんでした……というストーリーを望んでしまう自分がいる。その方が模擬戦としては無難じゃない? なんて。口に出したら怒られそうだけれども。
――ガサガサッ
今度こそ来た!
「天ちゃん!」
先に現れたのは風子先輩。
「はい! こっちです!」
先ほどまでのごちゃごちゃした考えは一度吹っ飛んでしまう。これがアドレナリンってやつかもしれない。
風子先輩の顔を見れば、一目瞭然なのだ。一度戦いが始まったら、先輩たちは本気も本気。大マジなのだ。練習だなんて思っていない。本気で勝ちに行く。
「落ち着いて、まずは目標を確認して!」
バトン代わりのマスターマップを受け渡しながら、風子先輩があたしにアドバイス。まずはコントロール・ポイントの位置を確認しなければならないので、陸上のリレーみたいにノールックで走り出すことはできないのがもどかしい。
ゴールである御机神社を示す鳥居マークまでの間に、チェックポイントは一つ。急坂を下って標高200mの等高線を超えたところ。登山道から少しだけ西にそれたところにある。
「いってきます!」
とりあえず急坂を降りてから考えよう。そこまでは道なり。得意なくだりだ。
まずはゆるやかな尾根道を爆走する。
もう藍ちゃんはバトンを受け取っただろうか? 気になるけれども振り返らない。どうせ一本道だ。来るなら来るさ。前だけ見よう。
「すいません!」
先ほどのハイキングおじいさんが前を歩いていたので、驚かさないように注意して迂回する。
「ほほほ、若いのぉ」
みたいな感想がドップラー効果っぽく聞こえた。
さて、ここからは急な階段。登るときはほとんど梯子のようにして登るところだ。下るときは足を踏み外さないように注意する必要がある。
「うおおおお」
えっちらおっちら足を踏み出すのがもどかしくなって、いさぎよく後ろを向き、それこそ梯子のようにして下る。前だけ見ようとさっき決意したばかりなのに……というのは置いておいて。
後ろを向くついでに坂の上を見る。
「あれ?」
藍ちゃんの姿は未だなし。もしかして先輩たちめっちゃ頑張って差をつけてくれたのでは?
もしかしてあたし、初陣で勝てちゃう?
「ふはははは」
あたしは強者の笑い方をしながら猛烈な勢いで急坂を逆向きに下る女子高生と化す。客観的に見るとヤバいな。
急坂終了。
振り向きざまにマスターマップを確認。方角を確認するのも面倒なので、目の前に伸びる道と地図上の道をアイデンティファイさせる。チェックポイントは少し進んでから左の茂みに入ったところに現れるはずだ。
――で。
たしかに思っていた通りの場所にオレンジとホワイトのポストが現れたのだが……現れたのはそれだけではなかった。
「やぁ。思わず本気を出しちゃった」
「なぜ藍ちゃんがそこにぃぃぃぃ!?」
見れば、爽やかな笑顔とともにコントロールユニットへEカードをかざす広瀬藍ちゃんの姿。息はあたしほど乱れていないものの、よく見ると服に汚れがつきまくっている。
「そのまま行っても追いつけへんと思ったから、比較的傾斜がマシな道なき谷筋を標高200mまで下って、そこから等高線沿いに走ってきた!」
というような説明を、あたしに背を向けて走り出しながらする。
「くぅぅぅ」
言葉にならないものをかみしめながら、あたしもEカードをかざす。
ここから追いつけるか?
頭が真っ白になる。
せっかく先輩たちが作ってくれた差を、簡単に埋められてしまった。
さきほどまでの浮かれ気分はどこへやら、悪い想像の通りじゃないか。ふははははじゃねえよ馬鹿野郎。
脚がもつれる。
息が詰まる……
完敗だった。
広瀬藍ちゃんは汗もかかずにニコニコと卓美先輩の横に立っている。第一走者である卓美先輩と持田先輩、それから本田先生はすでに御机神社で待っていた。
「ぐぬぬ……」
小さいころから自然の中で暮らしていた天才タイプに、つい最近まで関東平野で生きていたあたしでは歯が立たないのか……。
「すいません……バトンもらったのはこっちが先だったんですが……」
息を切らしながら、出てきたのは謝罪の言葉。
「あやまらんでええ。ナイスファイトやったで」
卓美先輩が慰めてくれる。
「これは練習。たかが模擬戦や」
たぶん心にもない言葉だ。卓美先輩には似つかわしくない。
「ほな、そのたかが模擬戦に負けた楠木高校の部長さん、罰ゲームわかっとるやろなぁ? さっき自分でゆうてんで?」
背後からぬっとあらわれる持田国恵先輩。
「罰ゲーム?」
「おう、待ってる間に決めたんや。負けた方の部長が昼飯買いにダッシュするってな」
「重ね重ねすいません……」
「だからあやまるなっちゅうとるやろ!」
卓美先輩があたしの頭に優しいチョップをして、そのまま走っていく。
「帝王寺高校メンバーは全員ビッグマックセット。ぐちゃぐちゃにならんように、ほんでからコーラも炭酸抜けんように、でもダッシュで戻って来いよ~」
持田先輩が無茶な注文をする。マクドナルドまでダッシュするつもりだろうか? 駅前だからまぁまぁ距離があるはずだが……。
「まぁ、なんや……」
持田先輩は気まずそうにあたしに背を向ける。
「そんなに落ち込むなや。初めてにしてはようがんばったと思うで? 敵に言われてもむかつくだけかもしれへんけど」
「あ、ありがとうございます……」
ライバルにまで気を使われてしまった。そんなに暗い顔をしているのだろうか。
「ボクはフィレオフィッシュがよかったなぁ」
藍ちゃんはあくまでマイペースだった。
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