本と鍵の季節 獏

@Talkstand_bungeibu

黄金の本

『春の柔らかな風を感じながら石灰岩を一歩一歩踏みしめる。広大なカルスト台地の上では進めど進めど立ち位置が変わった気がしない。自分の悩みなんか小さなものなんだと思えてさっぱりした気分になる。かれこれ1時間くらいだろうか。歩き回っていたら少々疲労を覚えたので、近くの岩場に腰をかけ水筒の水を1口飲む。ほっと一息ついていると、ふいに声がかけられた。「今日は良い天気ですね。」』

書きかけの小説を保存し、パタンとPCを閉じる。どうにも筆が進まない。インスピレーションが湧かないのだ。やはり物語の出発点はヴィヴィッドなイメージを持つことからだ!と意気込み予約サイトをクリック。新幹線のチケットを買い東京駅から新山口駅まで向かった。

秋なのに秋らしいことを何もしていないな。そう思って東京駅で買った栗おこわ駅弁をつつきながら酒を飲む。少し飲んでは本を読む。そんな穏やかな時間を楽しんでいると、右手に富士山が見えてきた。幸いにも今日は快晴で富士山が良く見える。雄壮な佇まいを眺めていると、なんだか今なら良い作品が作れるはずと意気軒昂にノートPCを開いた。

しかし、さっぱり進まない。ここのところ、何を書きたいのかも全く分からない。これまでは書きたい情景が、知って欲しい心模様が、誰かしらに向けた思想があったはずだった。今まではそうしたエートスを一つの世界観の中に構築するために必ず舞台を視察し、脳裏に登場人物の生活を描写してきた。しかし、今回は見切り発車もいいところで、もしかしたら、舞台すら変わるかもしれない。「これは慰安旅行かな」そう心の中で呟いてそっとPCを閉じた。

ぼんやりと外を眺めながらうたた寝を繰り返していると、「新山口、新山口」とアナウンスが聞こえてきたので、意識を気合で浮かび上がらせる。僅かな荷物を持って外に出ると少し落ち着きを取り戻した心地良い風が吹き抜ける。改札を出て外に出ると、レンタカー屋が見つかったので入店、車を借りた。さあ出発だ。


 新山口駅周辺は比較的交通量も多く、慣れない土地であることもあっておっかなびっくり運転していたが、10分ほどすると民家もまばらになり車通りもだいぶ減ってきた。車窓を開けて、ビッケブランカの「秋の香り」を流しながら運転していると、非日常感もあって何か特別なことが起こるような期待感に胸が膨らんだ。

 カーナビの指示に従い秋吉台の展望台に向かっていると、平坦な道のりから徐々に傾斜を登りはじめた。カルスト台地と言われるように、周囲と比べて標高が高くなっているのだ。いよいよ目的地に近いんだというワクワクと共に、一向に岩肌が見えないことに違和感も覚えていた。ナビゲーションの指示も終わったので車を降り、展望台まで歩いてみると、辺り一面ヒメヒゴダイ、アキヨシアザミ、ススキといった植物に覆われ、石灰岩もその植物たちの影に隠れてしまっていた。そこは、朱、黄、薄紫に満ちた黄昏の世界だった。

 インターネット検索で見た緑と灰の景観とは全く異なる眼前の景色に、不思議と落胆ではなく高揚を覚えた。今なら全く違う作品が書ける。


『「こんにちは」

ススキの群生の中に佇む女性に向かって声をかけた。久しぶりの遠出で開放的になったのだろうか、普段の自分では考えられない行動だった。女性は振り返ると薄く笑みを浮かべた。

「こんにちは。今日は晴れて、景観が良いですね」静かで透き通った声だった。

「とても良い天気ですよね。旅行ですか」

「ええ、小旅行のようなものです。貴方は旅行ですか」

「僕も似たようなものです」

「お互い、楽しい時間を過ごせると良いですね」

彼女は静かにそう言うと一歩踏み出した。どこか翳りを纏う彼女の後ろ姿は、夕焼けとススキとに混じり、溶け合い、その輪郭がぼやけていく。僕は、今はまるで夢の中で、何を言っても誰も聞いてないのだろうという不思議な感覚に囚われ、虚空に呟くように彼女の背に向けて言葉を投げた。

「僕は久しぶりに外に出たんです」

彼女の歩みが止まる。僕は彼女を追うようにゆっくりと歩き出した。

「仕事を頑張っていたんです。自分なりに頑張っても頑張っても上手くいかなくて。周りからは、やれ年次がどうだ、やれ今の大変さが糧になるだのと、どんどん仕事を押し付けられ。ダメ出しばかりで、仕事も積みあがるばかりで…体調を崩したんです。」

彼女は立ち止まったままだけれど、何も言わない。それが心地よかった。

「仕事は辞めました。実家に帰ることにしたんです。今日が引っ越しの日なのですけれど、久々に外に出て、ふと秋吉台の名前が浮かんだので寄ってみたんです」

彼女は立ち止まったままだった。一通り話終えると僕は彼女の横まで辿り着いた。彼女はちらりと僕に目をやると、口を開いた。

「ここは、私が幼い頃に父によく連れてきてもらった場所でした。思い出の場所です」

彼女は少し言い淀む。漏れる息から震えるのを押さえつけるような、努めて平静を保とうとするような気配がした。時間がいるのだろうと黙して待っていると、彼女は「でも」と続けた。

「私の父は先週亡くなりました。仕事をしていた私は、父の死に目に会えず、今になって思い出を手繰っているのです。ここに来るチャンスだって何度もありました。」

しばしの沈黙を挟む。日が落ちかけ冷えてきた風が指先の熱を奪っていく。

「僕はここがとても綺麗な場所だと思ってます。けれど、どこか純粋に景色を楽しんでいるわけではないんです。どこか喪失を埋めようとしているのです。もしダメなる前に転職していたら、もし大学のサークルであの子に話しかけていたら、もし高校生の時に変に気取ったりしなければ。友達や、もしかしたら彼女とここに来られたのかもしれません。そんな、失った時間にありもしない記憶をなぞっているのです。」

彼女の方を向く。視線に気付いたのか、彼女もこちらを向く。ほんの僅かとも永遠とも言えるような時の流れを感じる。

「あの、またお会いできませんか」ひと呼吸置いて僕は続ける。

「今度は、楽しい話をするために」

「今日は冷えてきましたからね」

「また今度」そう言って彼女は立ち去った。』

僕はここまで書き上げると一息ついた。


風を切りバイクを走らせる。夕暮れの交通が少ない道のりを、私はエンジンをふかして走り抜ける。目的地まで到着し駐車場にバイクを止めヘルメットを脱ぐ。肌寒さを感じて駐車場を足早に抜けると、目の前には辺り一面ヒメヒゴダイ、アキヨシアザミ、ススキといった植物に覆われた黄昏の世界が広がっていた。

一帯を味わうように歩いていると、ススキの影に隠れた石灰岩に腰をかけ、何やら作業している男性を見つけた。明らかに真っ当な観光ではない異様さに関心を持ち、近寄ってみる。なにやらせわしなく文字を打ち込んでいる。執筆をしているようだ。もの凄い集中しているらしくこちらに全く気付かないようなので、面白半分で後ろから覗き込んでみる。どうやらたった今終わったらしく男性は一息ついた。ちょうどいい、声をかけてみよう。


「ねえ、何をしているの」

頭上から声が聞こえる。驚いて振り返ると、黒のライダースジャケットに身を包んだ長身の女性が立っていた。

「小説を書いていたんです。この景色を前にすると、シチュエーションとかストーリーが閃いて筆が進むんですよ」

「ここは綺麗だからね。私が風景画家ならここを描くね」

女性にしてはやや低めの声とサッパリしたもの言いが、細くて高い身長や黒くてきもち長い髪の毛といった見た目の雰囲気とよく似合っている。誰か知らないが絵になるな、などと考えていると女性は石灰岩の端に腰掛けてきた。

「どんな本を書いているの?」

「心に傷を負った2人がここで出会って、という話です」

「ふーん、どっちかが声かけたの?」

「そうです。男性側がこの場所の雰囲気に押されて一歩踏み出すんです」

「なんか分かるね。綺麗だけど、秋の冷たさもあって、ちょっとロマンチックじゃん」

「そう思ってもらえるような物語にしたいです」

「ハッピーエンドなの?」

「できれば完成品を読んで欲しいんですが」

「教えてよ。私ハッピーエンドが好きなの」

「仕方ないですね…じゃあ、これだけですよ。ハッピーエンドです」

最高ね。女性はそう呟くとウンと伸びをして、片脚を伸ばして片脚は曲げて足の裏を岩につける姿勢をとった。

「ねえ、あんたは私を口説かないの?」

流し目でこちらを見ると、女性はそう言った。あまりに唐突な発言に心臓が裏返りそうになる。

「えっ、どういうことですか」

「だってほら、その小説。その男性は、要は登場人物の女性を口説いたわけでしょ。それでハッピーエンドになったわけじゃん。旅先の出会いは一期一会だよ」

「いや、口説かれても困るでしょう」

「そう?私はオーケーと言ってるけど」

女性は試すような眼差しを向けてくる。破天荒な人だと内心でごちて、僕は意見した。

「たとえあなたが、本当に口説かれても良いと思っていても、僕はしませんよ」

「どうして?」

興味深そうに聞いてくる。僕は「これのためですよ」と自分のPCを指す。

「僕は小説家です。文字で人に夢を見せる職業です」

女性は何も言わずこちらをじっと見つめる。何も言わずとも「もっと説明して」という催促を感じ説明を続ける。

「エッセイじゃなくて小説を好む人がいるのは、現実ではどうにもならない物事が上手くいく、あの時手に入らなかった選択肢が手に入る。そんなifを切望するからだと思うんです」

「漫画とか映画とかもそうだし、私がハッピーエンドを好むのも、そういう理由かしらね」

「かもしれません。物語の書き手は皆そうかなと思いますが、たとえ皆がそうでなくとも、少なくとも僕はインスピレーションがストーリーを作るんです。だから僕は不足を感じなくてはならない」

「あなたの作品にはあなたの願いが詰まっているのね」

「はい。僕にはこの文字の羅列は、眼前の黄金色よりもまばゆく輝いているんです」

「素敵ね」

彼女は立ち上がる。

「いつかあなたの描いた夢を読みたいわ」



 旅行から3年。あれから書き上げた本は、本当に幸運なことにメディアに取り上げられ、多くの人の目に留まり映画化する運びとなった。監督として都内のスタジオに入ると、多くの人があくせくと動き回り何やら準備にいそしんでいた。皆が一斉にこちらを向き、「こんにちは!よろしくお願いします!」とはきはきと挨拶をしてくるので、思わずたじろぎ小声で挨拶を返すのであった。人の活気と、「先生」と呼ばれる気恥ずかしさから現場の隅の長椅子に腰かけると、緊張の糸が解けたように息を吐いた。

「ねえ、何をしているの」

頭上から声が聞こえる。革ジャンを羽織った長身の女性が立っていた。女性は挑発的で妖しさを纏う笑みを浮かべる。

「今度は私を口説くのかしら」

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