22話 暗澹 (1)


蚊神は冷たい座席に座りながら情景が変わる窓を眺めていた。

腕はまだヒリヒリと痛く包帯に血が絡まり固まっているのが分かる。


座り直すたびに背もたれに背中のあざが当たり顔をしかめる。

馬の鼻息と車輪が石ころに当たってガタガタッと車内が揺れる。


もう真っ暗で外は建物から漏れる明かりと街灯の光のみだった。


「誰とやりあったんだ?」


久蛾は蚊神の向かいの席にいた。


「ダールとか言う男です。喧嘩請負人の」


蚊神は何故か暗澹あんたんたる気持ちだった。

今まで人を殺す事に何の違和感も感じなかった。

それは殺した人間がどうしようもなく最悪で生きる価値もないと思っていたからだ。


「……お前が出られてるってことはそのダールって男は生きててお前を庇ったってことか?」


久蛾は足を組んで背もたれにどっぷりと浸かっていた。


「まあそうっすね。なんかあんまりよく分かんないんですけどね」


蚊神の気持ちは何故か晴れなかった。

曇り空で雨さえ降りそうな曇天。


身体中が痛くて腹の底からイライラしていた。


「……ダールって男は復讐か?」


久蛾はゆっくりと目線を外を向いてる蚊神に合わせる。


「そうみたいっすね。俺が弟を殺したその復讐で」


蚊神は髪をかきあげる。

腕が悲鳴を上げてやめさせる。

小さく舌打ちした。


「……お前が初めて人を殺したのはいつだ?」


蚊神は窓から目を離して久蛾を見た。


宇支曇うしくも槐郎えんじゅろうですよ」


「やっぱそうか」


蚊神はその事を思い出して胸に空洞が広がるようだった。


鶯谷のラブホテルでデリヘルを待ってた宇支曇うしくものニヤついた顔。


首を切りつけた時の驚いた表情。

何度も何度も刃を刺した。


「久蛾さんが殺された時……あいつは新聞に名前が出ませんでしたよ。それにあいつは証拠不十分で不起訴。20日の勾留で出やがった」


「出たとしても名前は松丘太郎だろうしな」


酔っ払いの歌い声と馬車に轢かれそうになった老人が悪態をついているのも聞こえる。


「……俺がムシノスで会った時、最初に思った事はやっぱり転移者か、だった」


蚊神は目を逸らして座席にもたれかかった。

痛みが襲ったが気にしなかった。


「俺が転生して学校に行った時に異界学ってのがあった。驚いたよ俺らがいた世界の学問だ。そこに転移者と転生者の違いってのがあった」


馬車は21区を過ぎようとしていた。


「転生者は前世で殺された人。そして転移者は自殺した人って書いてあった。俺は死ぬ前にあれほど…」


「甘い匂いがしたんだ」


蚊神の空洞が深くなっていく。


「なに?匂い?」


宇支曇うしくもを殺した時から記憶は曖昧だった。やり遂げた達成感と肉が刃に当たって深く刺さる感触それに嘔吐感…まるで胸焼けした時みたいに胃はムカムカするし気持ちが悪かった」


蚊神は天井を見上げる。

そこには光源に集まった蝿がいた。


「とにかく帰ろうとして電車を待ってたんだ。そしたら甘い匂いがしたんだ。ケーキとかじゃない蜂蜜みたいな匂いがした。その時に俺、気づいたんだ」


久蛾は真っ直ぐ蚊神を見ていた。


「何に?」


「朝から何も食べてなかったって。腹が減った何か食べたいって思った。そこに行けばいいと思ったんだそれが当たり前だと思った小学校に行くみたいな…寝る家があるみたいに。当たり前を持つことの安心さってあるでしょ?」


「あるな」


「俺はその安心さが欲しかった」


久蛾は大きく息を吐いてもたれかかっていた座席から少しだけ上体を持ち上げて座り直す。


「空木が言う安心さは死ぬことで得られたのか?」


蚊神はその言葉を聞いて少し驚く。

まるで自分が思っていた事と違ったからだ。


「違いますよ。俺は当たり前の安心さが欲しかった。その時は腹が減ったら食事をするその当たり前が欲しかったんだ。その間だけはその事だけに集中できる」


「でも死んだ」


辺りは静けさが増して明かりも少なくなっていた。


「正直言って自殺する時なんて無意識ですよ。案外、誰も死にたいなんて思ってない。異界学にも書いてあったでしょ?死にたいと思った時は平気だ。何も考えていない時それこそ1番危ない時だって。転移者の誰かが言ってた」


「初めて会った時に老人がいただろ?インチキ宗教のハゲた爺さん」


蚊神は震えていた老人を思い出して少し笑った。


「ああ。いましたね」


「そん時にお前、殺しますか?って俺に聞いたんだ」


「聞いたのはアゲハっすよ」


「でもお前も殺そうとしてただろ?」


沈黙が流れる。

聞こえるのは馬の鼻息と足音それに運転手が酒瓶を飲む音ぐらいだ。


「前世だって人は殺してましたよ?どうしたんすか?久蛾さん」


蚊神は怪訝そうに眉をひそめて身体を傾ける。


「お前は殺そうとはしなかったいつもな。それは一線を越えるってずっと言ってた──まあ俺は耳を貸さなかったが」


「久蛾さん何が言いたいか教えてくださいよ」


蚊神は両腕の傷それに全身の打撲でイライラとしていた。それに久蛾の言わんとしてることが薄々わかってきたからだ。


「人を殺したりするのは俺の役目だった。無理してお前はしなくていい。前世で一線を超えたかもしれないが超え続けなくてもいいだろ」


そこで初めて久蛾が蚊神から目を逸らした。

蚊神は歯を食いしばる。


「迎えに来てくれた事は感謝してます。それに俺を気にかけてくれてる事も理解してるつもりです。でも俺は超え続けますよ。線を跨いで戻る事はしない」


「人を殺す事は覚悟と責任がつくぞ──俺だったらダールを殺してる。憎しみの連鎖を止めるには全員を殺さなきゃ断ち切る事は出来ない。その連鎖がたとえ偶然、生まれたとしてもだ」


「でも俺は……」


「生半可な気持ちで同情なんてするなよ?それが自分が味わったことがあったとしても共感できたとしても、そんなものは関係ない」


蛾はいつの間にか彷徨い始めて窓に当たり続ける。

久蛾は窓を開けて蛾を逃す。


窓を開けると冷気と風が入り込んできた。

蚊神の髪が風で揺れる。


「覚悟と責任わかっているつもりでした。でも確かに俺はあの時、あいつに共感して同情した自分の話までしようとした」


「覚悟と責任が持てないならお前は前世の時と同じように線を跨いで戻れ──わかったか?」


久蛾の目は蚊神を掴んで離さなかった。

胸の空洞が埋まっていくのがわかる。


今、俺は覚悟を持っているかどうか問われてるわけじゃない。覚悟を持つ覚悟があるのか。問われているんだ。


蚊神は唾を飲み込みながら考えた。


「わかりました」


久蛾は窓を閉めた。

風はまるでこの沈黙に耐えられずに逃げ出したようだった。


しかし冷気はこの沈黙に溶け込み、蚊神と久蛾を眺めていた。






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