37.水中訓練

「こちら天満美影です。これより通信機のテストを開始しますね。稲村さん、そちらの具合はどうですか……」


 美影たちは〈モナルキア〉特別棟のなかに造られた、NBL――正式名称・Neutral Buoyancy Laboratoryの中にいた。

 これは長さ約六十二メートル、幅約三十一メートル、深さ約十二メートルにも及ぶ巨大な潜水タンクであり、摂氏三十度に温められた水で満たされている。


「ようやくわたくしの望んでいた訓練に入りましたわ」


 とはゲシュヴィッツ伯爵令嬢の弁だった。

 そう、これは宇宙飛行士が実際の宇宙における無重量状態での活動を可能な限り再現するための巨大な装置であり、タンクの底には実物大のISSモジュール模型が沈められている。


 この中に、EMU――Extravehicular Mobility Unitと呼ばれる船外活動宇宙服を身に着けて潜水することで、模擬無重量下における環境を体験できるというものだった。


 美影は現在、稲村と共にタンク内に潜り、宇宙ステーションの構造やメンテナンスを学んでいる。周りには四人のダイバーが、サポートのためについていた。

 二人が身に着けている白い宇宙服にはおもりが付けられており、水中での浮力バランスが絶妙に保たれるようになっている。


 無重量状態を再現するための工夫だった。

 体力的には早くもきついが、なんだかようやく飛行士らしい訓練に携われて愉しいというのも、正直な思いではある。


「……稲村だ。通信状況良好。システム全般も問題なし。なかなか面白いぞ」


 そう言って二人は軽く笑い合う。一方、地上のタンク外ではゲシュヴィッツが、EMUを着た状態のままつまらなさそうに待機していた。


「変ではありませんか。せっかく宇宙服を着たのにわたくしは待機だなんて」

「まぁまぁ、これも訓練の一環だと思って……」


 なだめるのはC・Fの仕事だった。

 実際のところ、EVAとは二人一組で行う作業であり――ISSにもEMUは二組しか用意されていない。


 この装備は一人で着脱ができないという不便なものではあったが、パーツごとにばらしては着用する各個人の体型に、ある程度あわせた調節ができるという利点もある。身体の細い美影たち少女でも着こなすことができたのは、そういう理由があった。


 訓練は全三段階に分かれており、一段階目は基礎として、宇宙服やエアロックなどの基礎知識の習得後、四回の水中訓練が行われることになっている。宇宙往還機の緊急対応やISSに関わる技術が評価され、次の段階へと進む。


 二段階目の技術向上訓練では、一〇回の水中訓練となる。作業手順の設定やパートナーとの意思疎通、役割分担を自ら決定し、課題に取り組むことになっている。

 このころになると体力の消耗も著しい。

 なにせ一度水に入ってしまえば最低八時間は出ることが叶わない。宇宙服という密閉された環境での耐久力も試されることになった。


 この課程から習得できた技量に応じて、「船外活動のリード役」「簡単な作業なら任されるパートナー役」「支援作業の身を行う補助役」の三つのレベルに分類され、認定がなされる。とはいっても彼女たちは本職ではない。習得するのはあくまでも真空下での活動の仕方と身の護り方だ。そこに重点が置かれた。


 最終段階である第三段階では、「フライト機器の設計検証・手順開発」に携わりつつ、技量の維持向上に努める……というのが本来の流れだ。

 軌道上での任務に指名されると、ミッション固有訓練が始まる。

 訓練はいわゆる「一〇倍ルール」が適用され、つまり――軌道作業の一〇倍の時間が水中訓練にあてられる。コストが甚大なため、ヴァーチャルリアリティを利用した訓練も併用されるのだ。


 だが、今回はここまではいかない。

 美影たちに求められたのは第二段階止まりだった。

 具体的に何をどうしろという指示は一切なかった。無重力下でお祓いをする真似事でもしてみようかしらとゲシュヴィッツが言ったが、そんな必要はないとC・Fは言い切ってみせるのだった。


(いったい〈軌道地鎮祭〉で、何をさせる気なのだろう?)


 彼女たちの疑問は、一向に晴れる様相を見せない。

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