ロミ

雀村

ロミ


 ある夏の日に、私の心は壊れた。

 ロミという名の人に恋をしたからだ。


 ロミは女性だ。私と同じ――。


 ロミの口元が好きだった。やわらかく肉厚な唇や、いびつに並ぶ白い歯が。

 そこから生み出される声を聴くだけで、私の胸は締め付けられ、鋭い鼓動が体の内側を叩いた。


 彼女と出会ったのは一年前。私より三つ年下のロミは高校生、私は大学生だった。


 場所は市立美術館。大作展が開催されており、そこには一つだけ作者不詳の絵があった。

 群青色を背景にまんべんなく塗りたくり、中央にどす黒い赤が弧を描くようにすり込まれた絵。一見して禍々しく、それでいて目を離せない不思議な絵だった。他の絵と並ぶと明らかに異質なその作品を、一体誰がどんな気持ちで描いたのか私は気になって仕方がなかった。


 誰もが有名な作品の前で立ち止まり、その不思議な絵の前には私ともう一人。若いショートヘアの女の子しかいない。

 それがロミだった。


 ロミはじっと目を見開き、微動だにせず真っ直ぐ絵を見つめていた。彼女の独特な佇まいが不思議な存在感を放つ。まるでこの少女まで作品の一部ではないかと錯覚するほどに。

 いつしか私は、絵ではなくロミを見ていた。青く染めた髪とその隙間から覗く数種類のピアス。およそ私とかけ離れた外観を持つ彼女に、興味を抱かないわけにはいかなかった。


 三十分は経ったろうか。その場に立ち続けたロミは、ふいに私の視線に気づいたらしい。顔をそらし足早にそこを立ち去ろうとした。 


 私は思わず「待って」と口走った。どうしてそんな言葉が口を出たのか、自分でも混乱し慌てて口元を両手で抑える。


 「え?」ロミはそう言って立ち止まった。

 あたりを見渡し、自分が声をかけられてるのだと気づく。するとこちらを怪しみながら目を泳がせた。私は続く言葉が見つからず気まずい沈黙があたりを満たす。


「あの……ごめんなさい」 

 先に口を開いたのはロミだった。

「あの絵、気になっちゃって……。私じゃまでしたよね」

 申し訳なさそうにそう言った。


 私は慌てて否定する。「ちがうんです……! ……そうじゃないの。こっちこそごめんなさい……急に声をかけちゃって……」


 そうでないならば一体何だろう? ロミが困っているのが見て取れた。


「……あの絵、私も気になって。なんだかすごく存在感がありますよね」


 私がそう言うとロミも小さくうなづいた。


「でも他の人たちはそう思ってないみたいだから、……みんなこの絵を見て通り過ぎるだけだし。あなたがずっと絵を見つめているのを見て、嬉しくなったんです。その……私だけじゃなかったから」


 それを聞いたロミは急に嬉しそうな笑顔を見せた。子供っぽい無邪気さと冷めた大人っぽさが混在する不思議な笑顔だ。


「……ですよね? 私も不思議でした。どうしてみんなこの絵をちゃんと見ないんだろうって。この絵に比べたら他の絵なんてすごくつまらないのに」

 そうロミは言った。

「もちろん他の絵だってすごく上手だし、作者もこんな小娘につまらないなんて言われたくないだろうけど……。でも、どうしても小手先の上手さばかりが目立っちゃうんだよなぁ……。この絵と違って、所詮人間が描いたものだし」


「……この絵を描いたのは人間じゃないってこと?」 私が言った。


「いえ、何て言うか……例えみたいなものです。きっと人間を越えたような人が描いたんだろうなって。すごく狂気じみた、でも深い悲しみを抱えたような」


 なるほど、と思った。たしかにこの絵を描く人を想像すると、そんな人である気がする。


 「ほら、中心のところなんかは、筆じゃなくて手で直接描いてるんです」

 そう言って画面の中央を指さした。

 「手に絵の具を塗って、5本の指でキャンバスを引き裂くように描いてる」


 その言葉通り、荒々しく何かを削り取ったように絵の具が盛られている部分があった。


 ロミは言った。「きっとこの絵には、魂みたいなものが封じ込められているんじゃないかな。これを描いた人と、その人が大切にしている何かの……」


「大切にしている何か……?」


「そう。この作者はたぶん、それを失くしてると思うんです。家族なのか、恋人なのか、それが何でどんな理由でそうなったのかは分からないけど……。でも深い絶望と悲しみと怒りで、作者はそれを表現しないわけにはいかなかった。辛くてどうしょうもないのに、絵を描かないでいられなかった。葛藤とか自責の中で、作者は狂気に溺れながらこの絵を完成させたんだと思います。でも――」


 ――最後はなんて言ったのか思い出せない。

 気付くと私は、真っ直ぐにロミの目を見つめていた。


 ロミの細く白い指が私の心臓に触れた気がした。

 私のすべて見透かすようなその瞳に、私は視線の行き場を失った。


「……ごめんなさい。会ったばかりで急に変なこと言って……。引いちゃいました?」


 ロミが私の固まった表情を見て言った。


「ううん、大丈夫。あなたの話があまりにも……その、深くて核心的だったから驚いちゃっただけ」


 私は笑ってそう答えた。もしかしたら笑顔は引きつっていたかもしれない。


「当たっているかどうか分かりませんよ? もしかしたら、天才的な3歳児が、たまたまお父さんの絵の具と大作用のキャンバスを使って壮大な落書きをしただけかもしれないし」


「天才的な3歳児?」 


 私はおかしくなって、今度こそ本当に笑った。


「可能性はゼロじゃないですよ?」 そう言ってロミも笑った。



 それが出会いだ。


 そのあと私たちは流れのままに美術館のカフェに行った。

 二人で色んなことを話し、少なからず共通点があることに驚きながらも不思議なくらい会話がはずんだ。ロミという名前もそのとき初めて教えてもらった。

 芸術系の大学に通う私はよくこの美術館に来ていたが、ロミは初めてだといった。友達との約束がキャンセルになり目についたこの美術館にふらりと立ち寄ったらしい。絵が好きだと言っていたが、体系立てて芸術を学んだわけじゃないそうだ。

 それにも関わらずだ。先程の絵を見る目に私はロミの才能を深く感じ、そして感銘を覚えた。

 ロミは自分の興味があることしか知らず、知識量は私より圧倒的に少なかったが、ユーモアのセンスと物事への独特の感じ方に、私はすっかりのめり込んでしまった。

 他の誰といるよりも、その日初めて会ったロミといる方がはるかに楽しかったのだ。

 別れる前にロミと連絡先を交換し、次に会う約束もした。

 私は大学生で彼女は高校生。共有できる時間は少なかったが、私は無理してでもロミと会う時間を作りたかった。強く興味を惹かれていたのだ。ロミという存在に。



 それから私たちは何度も顔を合わせた。

 ロミは会う度に自分に起こった様々な出来事を語ってくれた。その口調はときに楽しく、ときに重く、私をいつも夢中にさせてくれた。どうしてロミの周りにはこんなにたくさんの出来事が起こるのだろうと私は思った。私には語るような日常は何もないのに。けれど、ロミは自分の話をし終わった後に、必ず私にも話をせがんだ。何でもいいから教えて欲しいと、昔であれ今であれ、知りたいと言った。

 要望に応えたくて私はいつも必死に話を思い出した。作り話の通じる相手ではなかったから、幼稚園の頃にさかのぼって友達の失敗談を話したり、何気ないと思っていた日常を話したり。

 ロミは私の目をじっと見ながらいつも楽しそうに話を聞いていた。

 自分がこんなにも様々な体験をしていることに、ロミを通して私は気づくようになったのだ。


 私たちはいつも駅前のカフェで待ち合わせた。そしてしばらく街をぶらついたあとに、どちらかの家に行くのだった。

 お互いに実家住まいだったから、自然と私はロミの家族と、ロミは私の家族と仲良くなっていった。私は嬉しかった。ロミの人生に私が深く関わっていることが誇らしく思えた。ロミとの時間があれば、他の何もいらないとさえ思っていた。


 私たちは時々、美術館で絵を眺めた。長い企画展だったから、あの大作はいつも静かに美術館の隅で私たちを待っていた。

 誰かが絵の前にいることはなく、まるで私たち二人のためだけに存在しているように思えた。

 二人は絵の前に置かれた椅子に腰掛け、長い間黙って絵を眺めた。群青色の絵の具はいつも新鮮な闇を湛え、深い赤は見る度に形を変えているように思えた。

 ロミと過ごすその空間は、私にとって世界で一番幸せな場所になった。



 私たちの関係に亀裂が生まれたのは、出会って一年が経った頃だった。

 ……ロミに恋人ができたのだ。


 「私ね、好きな人と両想いになれたんだ」

 そう打ち明けられたとき、私の中で何かが崩れ落ちた。

 崖下をのぞき込んだように胸がすくみ、足から力が抜けた。ロミは不思議そうな顔で私を見ている。自分の言葉のどこに私が衝撃を受けているのか分からずに困惑していたのだ。


「……おめでとう、良かった……」言い終わらないうちに涙がこぼれた。私は力なくしゃがみ、その場で泣きじゃくった。自分ではどうしようもなかったのだ。どうしてこんなにもショックを受けるのか私自身が分からなかったから。


 “好きな人”という言葉を私は受け入れられずにいた。女同士、友達でしかないことは分かりきっていたのに。けれどロミに好きな人がいたこと、それが私ではなかったことが明白になり、私は立ち直れないほどの傷を負った。失恋そのものだ。その事実は私自身を驚かせた。


 その日からロミの私を見る目が変わった。

 どこかきごちなく、私からの連絡を避けるようになった。

 世界がいっぺんに色を失う。

 私の心は執拗にロミを求めていた。避けられ、会えないことが一層強い執着を生み出す。どうしてこんなことになったのだろうと何度も考えた。自分の気持ちを隠し通してさえいれば、こうはならなかったのに。私は後悔で泣いた。


 ロミのことを考えない時間は1秒たりともなかった。否が応でもロミが恋人と愛を育む姿を想像し、その度に嫉妬と悲しみで気が狂いそうになっていた。私は居場所を見つけられずバラバラになって宙をさまよっている。死にたい。そう思った。


 「しばらく会うのやめよう?」


 久しぶりに電話に出たロミが一言めに言った。


 「どうして? 友達でしょ? 彼氏の方が大事なの? ねえ!」


 愛情は憎しみに変わる。私はロミを責め立てた。


「友達なのは分かるんだけど……でもごめん、今は会えない」ロミは静かな声で言った。


「分かってない! ロミは何も分かってないよ!」


 私がどんなに電話口で叫んでもロミは静かな相づちを打つだけだった。

 関係は決定的に崩れてしまった。ロミがかつてのように私を友達だと思ってくれることはないし、一緒に美術館に行くこともない。すべてはもう戻らない。ロミが私を見つめてくれることは二度と無いのだ。


 私はそれから毎日美術館に通った。

 大学の講義も休み、美術館の絵の前に座り続けた。


 いつか訪れるかもしれないロミを待って。


 馬鹿げていると思った。こんなこと終わりにしようと。あの子を追うのはやめようと何度も思った。けれど、押し寄せる波に抗う小舟のように、私の心は頼りなく感情に流され続けた。



 そしてある夏の日。それは薄暗い空の向こうで、くぐもった遠雷が聞こえる日だった。


 人々は足早に美術館を後にし、がらんとした館内にいるのは私一人だった。


 相変わらずあの絵を見ながらロミの言葉を思い出す。


 『深い絶望と、悲しみと、怒りで、――作者はそれを表現しないわけにはいかなかった――』



 今の私じゃんか。


 ロミという大切なものを喪失した、今の私そのものだ。


 そう思ったとき言いしれない強い衝動が私を動かした。


 おもむろにバッグにしまっていた携帯用のハサミを持つと、立ち上がり勢いよく絵に近づく。


 離れた展示室にいた学芸員の女性が緊張した顔で立ち上がった。


 私は構わず柵をまたぎ、群青に染められたキャンバスの前に立つ。


 学芸員が何かを言っている。でもそれが何なのか聞き取ることが出来ない。


 かまわない。もう何も関係ない。


 私は右手をふりあげると――力いっぱいにキャンバスを引き裂いた。


 誰かの叫ぶ声が聞こえる。

 けれど私はやめない。何度も、何度も、絵に向かってハサミを突き刺す。


 ロミの居場所を失くしてやるんだよ。二度とこの絵の前に戻ってこれないように。


 気がつくとぐしゃぐしゃに切り裂かれた絵がそこにあった。

 元あった形は消え去り、まるで戦争の後みたいに空虚な破片となっていた。


 ロミはもうこの絵を見ることはできない。永遠に。

 ざまみろ。私に喪失を与えたロミにこの絵を見る資格なんてないんだ!


 私は背中で息をしながら、散らばった絵の具のかけらの中にひざをついた。


 ふいに冷静になると、たちまち後悔が押し寄せる。

 私はとんでもないことをしてしまった、と。


 けど、それ以上はもう何も考えられない。

 きっとどこにも行けないのだ。この先へ進むことなんて出来ない。


 このまま死んでしまおうと思った。手にしたハサミを首筋に突き立てて。


 うまくいけば一瞬で死ねる。うまくいかなくても、たとえ苦しみでのたうちまわってもいつかは死ねる。肉体の痛みなんてこの胸の苦しみに比べればいくらでも我慢できるはず……。そう思った時だった。


 ふいに、床に散った絵の具がドロドロと溶け始めた。

 一瞬のことに頭が混乱する。

 どこにこれだけの熱量が存在しているのか分からなかった。

 床の温度は決して高くない。むしろひんやりとした冷気を感じるくらいだ。

 なのに絵の具はどんどん溶け続け、やがてぐつぐつと沸騰し始めた。


 あちこちで蒸気が立ちこもり、群青色の中から透明な水色が流れ出す。それらはまるで得体の知れない生き物のように床を這い私のひざにからみついた。

 私はそれをただ眺め続ける。絵の具が体をよじのぼり、手を覆い、顔を覆っても、私はじっと動かなかった。

 ロミを失った時点で、私の世界はとっくに壊れているのだ。海が蒸発し月が降ってきたって私にはどうでもいい。絵の具が体をよじのぼるなど、裁縫の針で指を刺す程度のささやかな出来事だった。


 全身が覆われ何も見えないが決して怖くはない。私をこの世界から隠してくれるのだからむしろ心地良いくらいだ。


 ほどなく意識が遠のくと私は深い闇の底へゆっくりと沈み込む。

 ――そしてしばらく経って目が覚めたとき、訪れたことのない場所にいた。


 どろどろとした群青色の沼が地平線まで続き、厚く黒い雲が空一面を覆っている。所々に開いた雲の切れ目からは、鮮やかな赤い光がチラチラと見え隠れしていた。

 私はこの風景に見覚えがある。


 「私、絵の中にいる…」

 直感的にそう思った。


 湿った風が髪を揺らす。辺りには嵐の前兆のような気配が立ちこめていた。

 これが現実なのか、あるいは意識の中の出来事なのか確かめる術はない。


 沼をかき分け歩き出す。

 群青の沼はまるで無限に広がっているように見えた。実際そうなのかもしれない。地平線の距離は目の高さから換算して約14km――と以前何かの本でそう読んだ。歩けば3時間ほど。この沼が無限に続くかどうか、まずは14km先まで歩いて確かめようと思った。


 音の無い世界を私は歩く。

 時間は止まり、あらゆる命が息を潜めた無機質な世界。どこまで進んでも空は動かず風は湿ったままだ。


 変わらない景色を見つめるうち私の頭に自然とロミのことが浮かぶ。こんな時でさえ私からロミがいなくなることはないのだ。


 私が絵の中にいると知ったらロミはどう思うだろう……うらやましいと言ってくれるだろうか――いいえ、ダメ。これ以上ロミのことを考えたら苦しみでおかしくなってしまう――あるいはもうとっくにおかしくなっているのかもしれない……そうね、わたしはとっくに……

 ふいに風が強く吹いた。


 首のあたりがざわざわとして立ち止まる。 

 誰かの気配がする。すぐ近くで。


 背後から水のはねる音がして、とっさに振り向いた。

 群青色の沼が波打つと、どろりとした液体が水面から飛び出した。それは宙に向かって縦に伸び、やがて人型に変わる。

 顔のないそれは虚ろに揺れる。目はないが私を見ていることが分かる。


 『私を知ってる?』 


 人型のそれが話しかけてきた。声ではなく、頭に響く思念のようなもので。

 

 「知らない」 私は声に出して答えた。


 『それは嘘。あなたは私を知っている』 それが言った。


 「嘘なんてついてない。私はあなたに会ったこともない」


 『会ってるわ。何度も。あなたは私を求めてる。のどから手が出る程私を欲してる。そうよね……?』


 否定しようとした。あなたのような気味悪いものを欲しいはずがないと。だが出来なかった。どろどろしたそれは、少しずつ、やがてはっきりとした姿を帯びたからだ。


 何もなかった顔には目と鼻と口が浮かびあがり、群青色の皮膚は人間の肌色に近付いていく。髪の毛が生え、やわらかく乳房が盛り上がり、うす紅色に染まっていく。


「ロミ?」


……そう、ロミそのものの姿に変わったのだ。私があれほど求め、欲したロミが、目の前に現れた。


『あなたは私に会っている。そして私を求めている。そうよね?』


 私は小さくうなづいた。


『ここがどこか知っている?』 ロミが尋ねた。


「……あの絵の中でしょ。私達がいつも見てた」


『その通り。あなたが開けたのよ。この世界の扉を』


 ロミはまっすぐに私を見て言った。


 ロミは裸だった。

 感情の揺らぐ様子を楽しむように、一糸もまとわぬ姿のままで私の手をそっと握る。

 湿った風が彼女の淡い陰毛をなびかせた。私の胸がことりと音を立て、同時に目眩が起こる。

 ロミは私の手を握ったままで話を続けた。


『この絵が生まれたのは19世紀の初め頃……。フィンランドの画家によって描かれたの。題名は知ってる?』


 私は首をふった。美術館の展示カードには作者もタイトルも書かれていない。


『――喪失。それがこの絵の題名』 


 少しずつ風が強くなってきた。


『作者はもともと腕の良い画家だったの。天才ともてはやされたけど、やがて才能に溺れた。ごう慢になって人の恨みを買い、事件に巻き込まれ……家族をみんな失った』


 私は何と答えて良いのか分からず、黙って話の続きを待った。

 ロミは続ける。


『彼の心は大きく波打ち、狂気を帯びた。

 誰も信じず、口もきかず、窓のない真っ暗な部屋で、昼も夜もなく絵を描くようになった。

 苦しみを絵に映して、何とか命をつなぎとめていた。

 でもやがて、この絵が生まれ落ちたときに彼はようやく眠りについたの。安らかに、まるで憎しみも悲しみも全部消えてしまったみたいに、ひっそりとね……』


 なぜ今その話をしなければならないのだろう。漠然と私はそう考えた。ロミがそれを見透かしたように言う。


『知っていて欲しいの。この世界の成り立ちを。一人の人間を狂気に堕とした深い喪失を。なぜならあなたが——』

 「――私が、……その人と同じだったから?」


 ロミがうなづく。


「近しい想いを持っている。彼ほどではないけど、執着に狂い死を望んでいる』


「ロミ……あなたは一体なに? 本当は誰なの?」


 私は苦しくなって問いかけた。

 ロミが妖しく微笑んだ。


『私はロミ。あなたが一番良く知っているじゃない。すごく会いたかったんでしょ? 私を一人占めにしたかったのよね』 


 ロミが握った手に力を込める。


『ここなら二人きりだよ……。私たちだけで、誰の邪魔もなく永遠に一緒にいられる。それがあなたの望みでしょう?』


 ロミは私をたぐり寄せ、柔らかな乳房をそっと押しつけた。

 私は動くことができない。あんなに求めていたロミが目の前にいる。裸体をさらし私を抱き寄せている。でもこれなんだろうか、私が求めていたものは。私が望む幸せは叶ったといえるのだろうか。


 「ううん……違う……」 そう呟くと同時にふいに涙が頬を伝った。


 『何が違うの? 私はもうどこにもいかないんだよ?』


 どう言葉にしていいのか分からない。でも何かが決定的に違っていた。


 『……本当は知っていたんだ。あなたがそういう目で私を見ていたってこと。気付いてた。もっと早くこうしてあげれば良かったよね。ごめんね?』


 ロミは私にくちづけした。やわらかな唇が私の唇を覆い、舌が違う生き物のよう にからみつく。


『愛してるわ。本当よ。あなたが私を想うのと同じくらい愛してる。だから……』


「やめて!」


 私はロミを強く突き放した。


「あなたはロミなんかじゃない!」


 強く叫んだ。


 そう。私の知っているロミならこんなことはしない。

 心の中の、一番弱くて脆い場所に入り込むような真似を、ロミなら絶対にしない。



 ロミは不思議そうに顔を覗き込む。


『どうしてそんなことを言うの? 私はロミだよ?』


「違う! 違う、違う、違う!」


 私は何度も強く首を振る。

 それを見たロミがくすりと笑った。


『じゃあ、あなたの知っているロミはどんな子なの?』


 私は答える。


「ロミはいつも……まるで空を歩くように自由で、明るい子。そして素直な子。

 私が間違ったときは違うと言ってくれて、傷ついているときは、何も言わずに優しくしてくれる。自分の感情に真っ直ぐで……いつも私を楽しい気持ちにさせてくれる……」


 つまづきながら、少しずつロミを思い出しながら、私は続けた。


「……あの子はいつも私を満たしてくれた。他の誰よりも、私を受け入れてくれた。私の目を見て、話を聞いてくれた。だから欲しかった……あの子を手放したくなかった。私がロミを特別だと思うように、ロミの中でも私が特別な存在であって欲しかった」


『そうではなかったの? あなたは特別な存在じゃなかった?』


「……分からない。でも、あの子には私だけじゃない。他にも愛してくれる人がいる」


『愛にも種類があるの。親友と恋人では役割が違う』


「私は……怖いの! あの子が自由であるほど私をどんどん置きざりにしていくのがすごく怖い! 不安で仕方ない!」


『だからロミを傷つけた……』


「傷つけてない! 傷つけられたのは私の方でしょ!?」


 ロミは薄く微笑みながら言う。


『あなたは不安をごまかすためにあの子を憎んだの。憎まれたロミが傷ついていないとでも?』


 私は思わず顔を覆った。


 どうして?このロミはどうして私を責めるの?


『思い出して。——あなたはどうして私を好きになったの? 私の何が良かったの?』


 私は黙って顔を覆ったままだ。

 それでも頭の中はぐるぐると答えを探す。


 どうして? そんなの決まっているじゃない。

 あの子は……


「——あの子は、いつも変わらず私のそばにいてくれたから……」


 目の前のロミがじっと私の目を見つめていた。


「ロミはいつも変わらずそばにいて、どんな時だって、明るく、楽しそうに笑ってくれた。だから……好きだったの。ロミはいつもロミのままでいてくれたから」


 自分の言葉なのにそれは私の頭にはっきりと響き渡る。くぐもった霧が鮮やかに晴れる感覚を覚えた。

 

 そうなんだ。変わってしまったのは私自身なんだ……。 

 嫉妬と後悔で自分を見失い、思い通りにならないロミにまるで子供のような態度をとって困らせてしまったのだ。


 電話越しの冷たかった声。

 ……ううん。あれは……初めて聞いたロミの悲しい声だった。


 傷ついたのは私じゃない。友達を失ったのも私じゃない。

 本当に辛かったのはロミなんだ。


「ごめんね、ロミ」


 気がつくと涙が止まらなかった。

 私は目の前のロミに問いかける。


「ねえ、あなたは誰?」


『ロミよ。あなたの大好きなロミ』


 私は首を振る。


「違うわ。本当のあなたは


 ……私自身。


 そうでしょ? ロミ……」


 ロミは驚いた顔で目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。


「……もう分かった。ここは私の中。

 あなたは私が望んだロミで、ここは私が望んだ世界……。

 自分から堕ちた悲しみの世界」


 群青の沼がうねりロミの体にまとわりついた。


「でもね、私はもう……ここに居たくない。あなたにも触れられたくない。私はもう……ここを出て行く」


 そうつぶやくとロミは群青色のどろどろした絵の具に戻り、広大な沼のひと雫となって消えていった。

 やがて黒い空がゆっくりと落ちて、大きく波打った群青の沼が一息に私を飲み込んだ。 


 真っ暗な闇の底で私は思い出していた。始めてロミと出会ったあの日、ロミがこの絵を見ながら最後に言ったことを。


「作者は狂気の中でこの絵を完成させたと思うんです……。でもきっと、絵が完成に近づいたとき、作者からは怒りとか悲しみとか、全部消えてしまったんじゃないかな」


「消えてしまった? どうして」 記憶の中の私が尋ねる。


「この絵が全部吸い取ってくれたのかも……たぶん。

 中心にあるコバルトブルーの部分。きっと最後に塗られたんだと思うけど、なんだか異質で。そこだけ感情が透明なの。全部なくなって、純粋な気持ちだけがそこにあるって感じ。だから……この絵は怖いだけじゃない。本当は優しさも持っているんだと思うな」


 さっきのロミは最後に微笑んでいた。あれはもしかしたら、絵画そのものが私に微笑んだのかもしれない。


 暗闇にまどろむうちに闇の底はいつしか光に照らされた水面へと姿を変えていた。

 私の体はゆっくり浮かびあがり、鮮やかなコバルトブルーの波間から顔を出す。まぶたの向こうから差し込む強い日射しを受けて、私は目覚めた。




「ねぇ! 目が覚めたよ! 目が覚めた!」


 聞き慣れた声がした。


 辺りを白い壁に囲まれ、開け放たれた窓辺ではレースのカーテンがゆらゆらと風になびく。少ししてそこが病室だと分かる。そして、心配そうに私の顔を覗き込んでいるのは……ロミだった。


 今度こそ本物のロミだ。

 私の家族もいる。みんな心配そうな顔で私を見ている。


「美術館で急に倒れたって連絡きたから、驚いたよ。一体何があったの?」


 ロミが言った。


「……何がって……、あれからどれくらい経ったのかな……」


「丸一日。私もあんたのお母さんもすっごく心配したんだから。お医者さんは眠ってるだけだっていうけど、もしこのまま目が覚めなかったらって思ったら…」


 そう言ってロミが涙ぐんだ。

 ああ、いつものロミだ。マイペースで、無頓着で、でも時々すっごく優しい。


「ごめんね。ごめんねロミ。私、友達なのに、ロミに……!」


「え? 何が? 大丈夫だよ、こうして目が覚めたんだから」


「ううん、違うの……私……」


「他のことで謝ってるなら、気にしないで大丈夫だよ。何のことだか覚えてないし。むしろ心配しすぎてお腹空いたし」


「お腹って……」


 私とロミは顔を見合わせて、同時にぷっと笑った。



 不思議な気持ちだった。土砂降りの後の晴れた朝のように、すべてが真新しく洗い流されたような気がした。

 私もロミも、そして周りの全てがキラキラしていた。


 簡単な診察が終わり、すぐ退院することになった。

 ストレスと疲れから来る軽い脳しんとうとのことだった。


 母が病院の支払いを済ませている間、私はロミに尋ねた。

 

「ねえ、そういえば……あの絵って……どうなっちゃったかな……」


 気持ちが一気に憂鬱になっていた。美術品をハサミで引き裂いたのだ。立派な犯罪だし、私は逮捕されてしまうだろうか。それに一体いくら弁償すればいいのか……。


「絵? ……ああ、私たちがいつも見ていた絵ね。すごいことになったよね」


「……やっぱり」 私はため息をついた。


「フィンランドの有名な画家が描いたんだって。すごいよ。今マスコミが美術館に殺到してとても入れやしない。たっぷり鑑賞しといて良かったね。私たちって見る目あるわ」


「フィンランドの……?」


「そっ。昨日、専門家がたまたま発見したんだって。絵のすみに、何とかって有名画家のサインが隠れているのを。劣化した絵の具がはがれ落ちてたらしくて、その下にあったそうだよ。たぶんあんたが倒れたすぐ後かな。それで急きょ調べたら、間違いなく本物だって。夜のニュースでやってた。……でも何で知ってるの? ずっと眠ってたのに」


「ううん、それは知らなかった。……私、倒れる前にあの絵を傷つけなかった?」


「それはないと思うけど。学芸員さんの話だと、ふらふらっと立ち上がった後、あの絵の前で急に倒れたんだって」


 そっか、と私は言った。あれは全部夢だったのだろうか。でもあの絵はフィンランドの画家が描いたものだと絵の中のロミは言っていた。


 やはり、あれは実際に起こったことなのだ。現実ではないどこかで。

 ……あるいはあの絵が見せた幻だったのか。


「来週にはフィンランドに凱旋帰国するらしいよ。もう見れなくなっちゃうね」


 ロミが残念そうに言った。


「たくさん見たから、もういいよ。それに、見たくなったら一緒に行こう? フィンランド」


 私が言うと、ロミが笑って答えた。


「いいね、それ。私ムーミンに会う」



 外に出ると瑞々しい緑の匂いがした。

 病院の後だからか、太陽がいっそう眩しい。


 小高い丘の並木通りを歩きながら空を見上げると、混ざりけのない青がどこまでも深く広がっていた。

 空はこんなにも青かったのだ。


 私は隣を歩くロミに声をかけた。


「ねえロミ」


「なに?」 ロミは微笑みながら私を見る。


「今度さ、彼氏紹介してよ。私一度も会ってないじゃん」


 ロミは一瞬驚いたように見えたが、もう一度、今度はしっかりと笑顔になって言った。

 「いいよ」


 見下ろした街に日射しがきらきらと反射していた。


 また新しい今日が、素晴らしい今日が、これから始まるのだ。







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ロミ 雀村 @ykd_szm

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