第13話 魔の交差点
「君! 昨日任した業務、まだ終わってないじゃか!」
「すみません!」
「全く頼むよ。最近の若いもんは~」
そもそも仕事が遅れたのはあんたが別の仕事を優先しろって言ってきたからだろ、なんてことは社会で口にしても意味がない。
実際、要領の悪い俺が会社に縋りつくためにはこの程度の小言に憤っている暇はなかった。
毎日毎日頭を下げて、うだつの上がらない仕事に溜息が漏れようと、それは定年退職するまで一生続く。
人によってはそれを地獄と呼んで、人によっては修行と呼んで、どんな理屈でも苦行に変わらないだろうと思う。
だけど、そんな日々を過ごせるのは家族のお陰だ。
「ただいま~」
「おかえりパパー!」
五歳の娘が満面の笑みで飛びついてくる。
そんな娘の様子に思わず頬がにやけてしまう。
「おかえりなさい、あなた」
俺たちの様子を見てエプロン姿の妻が微笑ましそうにしていた。
たいして稼ぎがいいわけでもない、なにかに優れているわけでもない。
俺には過ぎた妻と娘。
二人がいなきゃあんな仕事をずっと続けるなんて耐えられない。
「きょうはね、あたらしいともだちができたんだよ!」
「おお、よかったなぁ」
「ふふっ。その子ったら帰ってきた時泥だらけで大変だったのよ」
「こら、あんまりお母さん困らせちゃだめだぞ~」
「はーい」
そんなやり取りもずっと笑っていられる。
幸せはここにある。
幸せはそこにしかない。
この幸せが続くなら、きっと俺は悪魔にだって魂を売るだろう。
それは俺が特別なわけじゃなく、誰だってそうだと思う。
だから、その連絡を聞いた時には耳を疑った。
勤務中、突然鳴ったスマホには見たことがない番号が表示されていた。
仕事関係かと思い出てみると、警察からの電話だった。
『奥様と娘様が乗った車が事故をしまして』
確認のために病院に来てほしいという連絡だった。
会社を早退して急いで病院へ向かった。
タクシーが赤信号に捕まるたび、早く早くと心が急いていた。
だけど急いだところで意味なんてなかったんだ。
「事故の直後にはもう既に……」
二人とも綺麗な顔をしていた。
ただ眠っているだけのようにも見えた。
「嘘だ、嘘だ!」
配慮されて体にかけられた白いシーツを拭った。
妻はお腹の部分が潰れてしまっていて、娘は足が一本無くなって、喉に穴が開いていた。
それは一目にも生きているはずがないと思わせるには充分な程に。
「嘘だ! ああああぁぁぁぁぁあああ!」
泣いても、泣いても、泣いても、泣いても。
慰めてくれる二人はもう声が出せず、ただそこで目を閉じたままだった。
二人は交差点で信号が間違いなく青の時に渡っているところ、若者が乗った車に轢かれたらしい。
目撃者によれば母親は娘を庇うようにしていたが、鉄の塊はお構いなしに二人を跳ね飛ばし、数メートル先で停車した。
かなりの速度が出ていたという話からして、二人の顔に大きな怪我がなかったことは奇跡的だといえる。
そして裁判が進み、進めば進むほど俺は絶望を味わった。
若者は政治家の子供だとかで、有名な弁護士を引き連れて車の故障を原因に罪を軽くしていった。
もちろん、俺だって戦った。相手の事故時、スマホで電話をしていたという証言があったからだ。
裁判は数年続いた。
そうして最終的に、若者は数百万円程度の罰金と執行猶予で釈放された。
車の故障は認められるとして刑期に問われなかったのだ。
スマホの電話は一証言として認められなかったのだ。
俺の愛する人を奪ったあいつは、最後の裁判で俺にこう言った。
「いや、ほんとすみませんね。でも俺も数年費やしたし、充分っすよね?」
まるで悪びれる様子なんてなく。
この世界に正義や悪なんてものはない。
そんなことは充分にわかっているつもりだった。
結局、俺は解っていなかった。自分に関わることがないのならどうでもいいと見て見ぬふりをしていただけだった。
それが悪いっていうのか?
誰だってそうじゃないのか?
国が悪かろうと、体制が悪かろうと、システムが悪かろうと、自分の番にならなければどうでもいいと、誰だって思っているだろう?
だから変わることなんてないだろう?
じゃあ、なにが悪いんだ。
「俺はどうしたらいいんだ」
どこにこの気持ちをぶつければいいんだ。
二人がいなくなった悲しみを、どうやって紛らわせればいいんだ。
雨が降っていた。
この交差点で二人は死んだのかと、想えば想うほどに心がかき乱されて、頭の中身がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているようだった。
涙は枯れない。
何年間泣き続けても、ずっとずっと枯れない。
どれだけ生きていても、二人はもう戻ってこない。
それなら俺は――。
車が走る音が聞こえる。
まるでそれは俺を誘っているようで、身を投げ出すには充分だった。
涙でぼやけた視界の中に、笑っている二人は見えなかったけれど。
☆★☆★☆
暗い。
光が差し込むことはない。
たまに聞こえてくるのは、車の音だけ。
その音を聞く度に思い出す。
憎しみを。
車に対する抑えられない怒りを。
なぜそんなにも憎いのかわからないけれど、俺は走る車を許すことができない。
だから、死ねと、祈った。
誰もここを通るな、と願った。
二度と車の音なんて聞きたくない。
耳はいらない。
目もいらない。
口もいらない。
なにもいらない。
だから、壊れて、潰れて、死んでしまえ。
死んでしまえ。
死んでしまえ。
死んでしまえ。
その暗闇は、どこまでもどこまでも続いている。
地平線なんてものが感じられないほど、ただ暗く、いや黒く、闇がここにあり、闇そのものであり。
『え、あの、早くないか?』
車の音しか聞こえなかったその闇で、それ以外の音がした。
『力を貸してくれるって聞いたので』
『そりゃそうなんだけどね、少年。もっと我としては重大なことに呼ばれるつもりで身構えていたんだよ?』
『これも重大なことですよ。ずっとなんとかしたいと思ってましたけど、ようやくです』
『いやこれぐらいなら我じゃなくてもエンダに頼めば』
『あいつに貸しを気軽に作りたくありません』
ああ、そういえば、人だ。
これは人の声だ。
『ええ、でも……その腕に込めた力は一回分しかないんだぞ?』
『どうせもう引っ込めないでしょう?』
『あぁ……色々画策していたのに……なんて子だ……』
そうか、人だ。
全て人だ。
思い出した。
思い出したぞ。
若い人のせいで、俺は、俺は、おれは、オレは。
『それでどうするんだ、これ。苦痛でも与えればいいのか?』
『妹を傷つけた奴なので、最初はそう思ってたんですけど』
殺サナケレバイケナイ。
死ナナケレバイケナイ。
腹ヲ潰シテ、足ヲ飛バシテ。
『さっき、視えちゃったんで』
ドウシテ?
腹? 足? ナンデダッケ……。
『開放してあげられますか、この苦しみから』
『意外だな。もっと非情な子だと思っていたよ』
『別に僕は悪魔じゃないんで』
『がははっ、面白い冗談だ』
闇の中に一本の筋が伸びている。
その筋が、光そのもので、甘い蜜に引き寄せられる虫のように、ゆらゆらと近づいていく。
『だが、気をつけるんだぞ』
『心配されなくても、僕は優しくないので大丈夫ですよ。自分から進んで人助けなんてする気はありませんし』
『だといいんだがな』
光に振れるとその箇所から次第に闇が消えていく。
自分の手や足が形として見えていて、俺は俺のことを思いだした。
――パパ―!
――あなた。
光の筋の中でずっと会いたかった二人が笑って手を伸ばしていた。
二人の手を取りたくて前に腕を伸ばすも、拳を握って下ろす。
――パパ―はやくー!
ごめんな。
パパ、悪いことしちゃったんだ。だから、一緒には逝けないや。
――大丈夫よ。そんなあなただから、結婚したんだから。
――パパ―! 大好きだよー!
『エンダのことも、少しは気にかけてやってくれ』
『あいつは僕よりも大丈夫でしょう』
『そうでもないんだ』
『……はぁ。まぁ、友達ですから。ただ、僕になにができるとも思えないですけど』
二人が光の筋に溶けていく。
それを笑って見送りたくても、溢れる涙は正直だった。
再び世界が闇に染まっていく。
そして、肉体も光の粒子となって散っていく。
不愛想な、感情の薄そうな少年がいた。
ありがとう。
助けてくれて。
『……別に』
感謝されることに慣れていないのか、少年は罰が悪そうにそっぽを向いていた。
☆★☆★☆
「ねえねえ知ってる?」
「なになに~」
「八年くらい前に起きた魔の交差点の事故あったじゃん?」
「あったねー。最初の事故だっけ?」
「そうそう。あの事故起こした人、今更事故の責任は自分にあるって自首したんだって」
「なにそれ遅すぎ~」
「時間が経って改心したのかな?」
「するかな~?」
クラスの喧騒は右から左へ。
だけど、聞きたかった情報が聞けてなによりだった。
心配はしてなかったけど、悪魔というだけはあるようだ。
「おはようレイジ」
「うい」
自分のことじゃないと思いたくても名前を呼ばれたらどうしようもない。
「力を行使したみたいだね。簡単に使われたって嘆いてたよ、父さん」
「解決したいことなんて滅多にないからいいんだよ」
「それはそれで君らしいよ。それよりさ、もうそろそろ冬休みに入るだろう?」
「だな」
「君はどうせ冬も暇で暇で仕方ないだろう?」
「残念ながら多忙だ」
「そうかそうか暇かい」
人の話聞けよ、と睨みつけるもエンダはこっちを向いてなかった。
「仕方がないから私が遊んであげよう」
遊びに誘うことに慣れていないのか、耳まで真っ赤にして。
ふとおじさんがエンダを気に掛けるよう言っていたことを思い出す。
まぁ、こういうことではないだろうけど。
恥ずかしがっている様子が面白いから、どうするかなぁ、なんてからかって、焦燥するエンダを暫く楽しんでいた。
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