可愛すぎる隣人が毎晩試作品のカレーを差し入れてくれるだけのラブコメ

干野ワニ

第1話 起端

 バリっと聞きなれた音を立て、大きさだけが売りの菓子パンの袋が破れた。無心にかぶりつくうちすっかり水分を取られた口中に、マグカップで水道水を流し込む。


 急な転職と引っ越しで、俺の財布はすっかり空っぽだ。だがカード会社に個人情報を渡したくない俺は、給料日までなんとかこれだけでしのぐことを決めていた。


 その時。キンコーンっと、安っぽい玄関チャイムが鳴り響く。俺は仕方なく重たい腰を上げると、すぐ近くにある玄関ドアへと声を上げた。


「はーい」


 なんか、まだ届いてない荷物でもあったのか?


 そう疑問に思いつつ、古臭い丸ノブに手を伸ばす。だがドア越しに聞こえてきた声に、俺はピタリと動きを止めた。


『あの、平野さんですか? 私、隣の三〇一号室の横川です。カレー作りすぎちゃったので、よければもらってくれませんか?』


 ――今どき、作りすぎたメシをもらってくれだって!?


 不審に思った俺は、恐る恐る小さなスコープを覗き込む。だが曇ったレンズごしに映る姿を見た瞬間、俺はチェーンも掛けずにドアを開けた。


 ほんのり栗色に染められた髪はつややかで、低めの位置でスッキリまとめられている。だがそんなシンプルで清潔感のある髪型が、逆に彼女のたれ気味の大きな瞳と形の良い輪郭を、さらに際立たせているかのようだった。つまり、ちょっと珍しいレベルの美人だったのである。


 まあ、引っ越し直後に隣人を門前払いなんかして、わざわざ嫌われるようなことしなくたっていいだろう。それにもし不審者だったとしても、少なくとも腕力で負ける気はしない。そして何より、かわいいは正義だ。


 軽くハジメマシテの挨拶を交わしてから。彼女は少しだけ恥ずかしそうに、小さなオレンジ色の両手鍋を差し出した。


「夢だったカフェを開店したんですけど、なかなか大変で。起死回生のために、看板になりそうなメニューを開発中なんです。でも毎日試作していると、私一人じゃどうしても食べきれなくて。もったいないからお裾分け、もらってくれませんか?」


 お裾分けって、マジなのかよ! まさか、田舎じゃけっこう普通のことなのか!?


 今どき隣人が手料理持って押しかけてくるなんて、マンガの中だけの出来事だと思ってた。つか普通なら、初対面の相手に渡された手作り品なんて何が入っているか分からないもの、絶対に食いたくないだろう。


「あの……ご迷惑、でした……?」


 だが次の瞬間、俺は鍋をサッと手に取った。


「いいえ全く。いただきます!」


 急に宗旨替えした理由? そんなもの、目の前でちょっと困ったように見上げる彼女が、すごく可愛かったからに決まってる。こんな話がうますぎるラブコメみたいなイベント、このチャンスを逃せば二度はない。


 それにまあ、お店をやっているということは、調理のプロだということだ。衛生管理はしっかりされていると考えてもいいだろう。さすがに調理師さんを信用できなくなってしまったら、何も食えなくなってしまう。


 そもそも遠くから引っ越して来たばかりで恨みを買う覚えもないし、ましてやこんなショボくれたオッサンに、ストーカーなんてつくわけがないのだ。ああ、自分で言ってて悲しくなってきた……。


 しかし築四十七年リノベなしのボロアパートに、こんな美人が住んでいるなんて。俺よりずいぶん若そうだが、自分の店を持つため生活費を切り詰めてがんばっているんだろうか。東京で失敗して逃げるように地元に戻ることになってしまったが、こんなに可愛いお隣さんがいるのなら、田舎暮らしも悪くない。


 笑顔で別れてドアを閉めると、俺は鍋と、オマケで渡されたラップにくるまれた白飯をシンク横の狭いスペースに置いた。レンジなんて高価なもの、この部屋にはない。だがコンロなら、どの部屋にも備え付けのものがある。彼女はそれすら気づかって、あえてこの小さな鍋で持って来てくれたのだろうか。


 古びた電熱線コンロに鍋をかけると、間もなく空腹を刺激するスパイスの香りが立ちのぼった。グツグツと音を立て始めたカレーの中に、俺は待ちきれずにラップを剥いだ白飯の塊をそのまま落とす。スプーンで崩しながら鍋ごと抱えて食い始めると、人の優しさが胃にしみた。思えば手料理なんか食うのは、何年ぶりのことだろうか。


 ――やっぱり、故郷ふるさとに帰ってきてよかったな……。


 俺はいつしか、泣きながらカレーを食っていた。

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