第21話 ハイヒール

「買い物につきあってくれない?」


 和也がそう言うので、奈々子は黙って和也について銀座にむかった。


 何の映画を観たのか、2時間の記憶がまるでない。頭の中では、初恋の彼に失恋した時によく聞いていた歌が鳴り響いていた。


 連れていかれたのは、靴の専門店だった。


 薄暗い窓ガラスに阻まれ、外からは何の店か見当がつかない。和也に連れられて入ったところで、がらんとした店内に人影はほとんどなく、黒のワンピースをきた売り子らしき女性たちがところどころに控えていた。だが、和也と奈々子をみても、親しげに声をかけてくるわけでもない。


 店というよりはギャラリーのような空間に、商品の靴がアートのように陳列されていた。アップライトの光を受けて、ハイヒールたちは誇らしげなポーズをとっている。


 滑らかな曲線、心細げなヒール…彼女たちは、もはや履いて歩くという実用的な用向きを失って、女性を美しく演出するためだけに作り出されたアクセサリーだった。


「はいてみる?」


 美術品でもみるかのように眺めてまわるだけの奈々子に、和也は試着を勧めた。


「え、でも……」


 ためらう奈々子を、和也は革のソファーに座らせた。和也と二言三言言葉を交わした店員は店の奥に引っ込み、箱を両手に抱えて再度登場した。


 店員がうやうやしくささげもってきたのは、奈々子が一番熱心にみていたハイヒールだった。品よく艶めいた赤いエナメルのハイヒールで、ヒールの高さは10センチはあった。


「ステキなクツはステキな恋を運んでくれるんだよ」


 はかなげなものを扱うかのように奈々子の足をそっとその手にとると、和也はパンプスを脱がせ、その足にハイヒールを履かせた。ハイヒールは、すっぽりと奈々子の足を覆った。


「男はね、脱ぎ捨てられていったクツを片手に、そのクツの持ち主の女の子を探しているようなものなんだ」


 和也はもう片方のパンプスも脱がせ、ハイヒールを履かせた。


「ほら、ぴったりだ」


 和也の肩をかり、奈々子は鏡の前に立った。細い10センチのヒールは心もとなく、足元がふらついたが、見えた世界は大人びて、目も眩みそうなほど煌いていた。


「持ち主はあなたでしたか」


 和也は、シンデレラの王子のセリフを冗談めかして言った。


 みがいた硝子玉のように透き通る瞳が目の前にある。つるりとした肌には、ヒゲなど生えそうにもない。和也は、小さい頃、憧れていた童話の王子さまそのものだった。


「僕だけのお姫様になってくれない?」


 和也は、肩にのった奈々子の両手を取った。


「…真衣が……」


 今さらながら、奈々子は真衣が気にかかった。


真衣は和也が気に入ったと宣言した。奈々子に、和也には手を出すなと釘を刺したのだ。真衣が和也に狙いを定めたと知っていながら、映画を観るだけだからと、奈々子は言い訳をして、和也の誘いに乗ってしまった。ふと人恋しくなったのと、太一への腹いせのつもりだったのかもしれない。その太一は美香とデートを楽しんでいた。


「真衣ちゃんのクツの片方は、別の男が持っているんだ。僕じゃない」


 和也は首を横に振った。


「僕が持っていたクツの片方は、君にぴったりなんだ―」

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