第19話 暗闇での一瞬

 さっきの男性が、古川智也さんです──。

 とは岩渕のことば。

 言いながら、テーブルに積まれたふたつの化粧箱を恭太郎と将臣へ手渡した。将臣の分は自前の黒スーツだが、恭太郎のは開かれるまでなにが入っていることやら。──と緊張する一同に反して、こちらもまた無難な黒スーツであった。

「なんだ。神楽さん分かってるじゃないか」

「ちがうちがう。どうせ僕の分はわざわざ兄貴を呼びつけて頼んだんだ。無難を好む兄貴がえらびそうな服だよ」

 と、恭太郎はつまらなそうに口を尖らせる。

 神楽とは藤宮家三女──つまり四人目──である。恭太郎とはいちばん歳が近く、加えて藤宮の血が流れていることもあり性格は強烈。しぜんと末弟恭太郎とは口喧嘩も多い。その性格も関係性も知り尽くした将臣からすれば、恭太郎の言い分にもうなずけた。あの三女が末弟のために気を利かせるなどやるわけもなし──と。

 着替えを化粧箱にもどしながら、将臣は岩渕に声をかけた。

「愛河先生は、真嶋さんのピアノ講師をされて長いんですか?」

「彼女が小学校の頃からです。自分は当時調律師見習いで、師匠についてゆく形で愛河先生の家を訪ねていました。真嶋さんを紹介された日のことは、よくおぼえています」

「岩渕さんの方が古川さんより、おふたりと長い付き合いなんですね。さっきのようすを見ていると、向こうもずいぶん親しいもんだとおもいましたが」

「自分は──あまり口数が多くありませんから」

 というと、岩渕は閉口する。

 しかしめずらしく将臣の口は止まらない。

「なんにせよ真嶋さん、文字通り愛河先生が育てあげたようなものなんだなぁ。このコンサートに力を入れるのもうなずけます」

「……真嶋は先生のことを、親以上に信頼しています」

「でも──真嶋さんが小学校からというと、先生ずいぶんお若いときから講師を」

「フ。あれで自分より二十は上ですよ」

「…………ほんとうに?」

「はい。自分があの家に初めて訪れたときから、先生はすこしも変わっちゃいない」

「ふうん」

 恭太郎はつっけんどんに相槌を打った。

 その首元にはぐしゃりと絡まったネクタイ。将臣が頭痛をこらえる顔をした。中学も高校も学ランだった恭太郎に、ネクタイを結ぶ機会はない。

 おまえ、と将臣がそれをほどいた。

「入学式のときは見事に締めてたろ」

「締めたのはうちのメイドさん」

「…………」

 言葉もない。

 が、教えるつもりもない将臣である。ちゃっちゃと結ぶと、黙っていれば正真正銘の財閥御曹司のできあがり。岩渕はふたりのスーツ姿をみじかく褒め、先ほどの楽屋へと再度案内をした。


 楽屋で雑談すること数十分。時刻はまもなく十七時半をまわる。

 けっきょく古川は最終確認に行ったままもどらなかった。受付には続々と聴衆が寄り集まっている。彼らはみな真嶋史織のチャンネルを登録し、五百倍の倍率を勝ち取った勝者たちである。ゆえにその顔は一様に満足げだ。

「お三方の席は二階中央にご用意しました」

 と、岩渕が三枚のチケットを将臣に手渡す。

 これから史織は簡単なリハーサルをおこなうのだという。初めての個人コンサートだというのに妙に落ち着き払っているのは、きっと愛河裕子がそばにいるためだろう。開演までの残り時間は集中してもらうべきだとして、三人組は指定の席へと向かった。

 二階にあがったところでイッカが、

「シゲさん!」

 とスーツの男に飛びついた。

 ビクッと肩を揺らして振り返ったのは、やはり森谷茂樹。コンサートのあいだだけ休憩時間をもらうことが叶ったらしい。彼は上機嫌に一花を抱きとめた。

「おーおー! なんやこの別嬪さんは。えらいかわいい恰好して、どないしたん」

「史織ちゃんに借りたの。ウフ、ウフフッ。ねーあたしかわいいでしょ。でもこいつらなアんも言ってくんないの。言うに事欠いて『馬子にも衣裳だ』って!」

「あかんでイッカ、察してやらにゃ。お年頃の男の子っちゅうんはな、女の子にかわいいってひと言言うのもえらい勇気のいるこっちゃ。心ン中では思うてんねん」

「ホント?」

「ホンマホンマ」

「テキトーこくな、似非ホスト」

 恭太郎は吐き捨てた。

 もはや将臣は相手にもしていない。席番号を確認し、自身の指定席へと歩く。方向感覚は麻痺している彼だが、席番号から所定の位置を割り出すのは問題ない。

 偶然にも、森谷の座席は将臣からふたつ空けたとなりであるらしい。これは奇遇とばかりに、すでに座っていた観客と交渉して将臣のとなりにまで移動してきた。

「いやァ。やっぱオレらは切っても切り離せへん縁で結ばれとるんやろか」

「そうですねえ。……あっ、そういえば『縁切り鋏』という怪談知ってますか。とある地方に伝わる縁切りの道具なんですが、そもそもその由縁というのが──」

「知らんし聞きたないし傷付いたし! なんやねん『あっ』て。白々しい……」

「森谷さんにも縁を切りたいお人がいれば、いつでもお教えしますよ」

 といって、将臣がうっそりとほくそ笑む。

 コイツ──と口内でつぶやいた森谷の顔は、ホールの暗い照明でよく見えない。彼がそれについて口を開く前に、将臣の右隣に座る恭太郎が目を細めて首をかしげた。が、すぐにブルルッと首を振る。

 どうした、と将臣が確認するも、

「こりゃいかん。人が多すぎる……」

 と恨めしそうにつぶやいて、すぐに押し黙る。入ってくる声が多かったのだろうか。

 会場の照明がゆっくりと落とされた。

 公演開始十分前。

 これまで二度、開演前の注意事項がアナウンスされた。すでに観客は口を閉ざしている。ホール内の静けさはさらに高まった。しかし、恭太郎はいまも数多の雑音を聞き届けているのだろう。その証拠に、彼の顔はいつにもまして険しく歪む。

 開演三分前。

 マイクのスイッチが入る音。同時に照明が舞台袖を照らす。光の導くままに、青いドレスを着用した愛河裕子がマイクを片手に出てきた。


「──大変お待たせいたしました。 ただいまより、真嶋史織演奏会を開演いたします。本日は、当演奏会へのご来場まことにありがとうございます」


 いま一度、開演中の注意事項を並べてから、裕子は一瞬うつむきをつくると、ふたたび顔を上げて晴れやかな笑みを浮かべた。

「それではピアノコンサートを開演いたします」

 照明が落とされる。

 ホールには非常口マークだけがぼんやりと浮かぶのみ。観客一同は固唾を呑んでつづく展開を見守った。

 淡い青色照明が、ピアノに注がれる。

 やがて舞台袖からあらわれたのは、シャンパンゴールドのロングドレスを着用した真嶋史織──。

 彼女はピアノの前まで歩み来ると、正面、左右、それから上階席に向かって四度のお辞儀をした。割れんばかりの拍手が起こる。

 史織はゆっくりとピアノの前に座った。

 シン。

 時として、静寂すらも煩く感じるときがある。いまがそうだった。史織のすがたを見てようやく恭太郎の顔に笑みがもどる。

 愛河裕子の声で、曲名が紹介される。


『ベートーヴェン ソナタ 第二十九番「ハンマークラヴィーア」 変ロ長調』


 史織の手が鍵盤に置かれた。

 初めの一音、指が低音を弾いた直後、開幕にふさわしい明るい旋律が流れ出す。一拍ののちつづくメロディは奥ゆかしく無邪気な、徐々に鍵盤を躍りまわる妖精が高ぶるように、曲調は壮大さを増してゆく。ところどころに音の強弱がつけられるこの曲は、まるで作曲家ベートーヴェンの音楽に対する情熱がふつふつと噴き出すようで、観客はみな食い入るように演奏者へ視線を注ぐ。

 時間が経つごとに楽章が移り、曲調も変化する。時に穏やかに、無邪気に、寂しげに。彼女の世界が、音の波に乗って会場全体を包み込む。将臣と一花も目を閉じ、すっかり聴き入っていたそのときだった。

「ん? …………」

 ふと、恭太郎がキョロキョロとホールを見回した。なにかを探している。

 曲はしずかにクライマックスへ。将臣と一花、森谷は演奏に気を取られて、恭太郎の動きに気付かない。

 鍵盤を叩く史織のからだが前後に揺れる。

 その時。


 バツンッ。


 大きな音がホールに響き渡ったと同時に、全照明が落ちた。ピアノの演奏はかまわず続く。さすがはプロの卵、多少のアクシデントには目もくれぬ。が──。


 ガタンッ。ボトッ。


 暗闇のなか、耳慣れぬ異音がした。

 さすがに演奏が止まる。

 会場がざわつく。

 分からない。

 こうも暗くてはいったい何が起きたのか──。

 会場が闇に包まれてからおよそ一分。


「キャアーーーーッ」


 突如あがった悲鳴。

 直後、非常電源による照明が点灯した。悲鳴のもとは舞台中央、ピアノの椅子に腰かけたままの真嶋史織。その視線の先。屋根が閉じられたグランドピアノ。閉じた原因は、ピアノの脚もとにころがる不恰好な女の人形──いや。


 死体によるもの、か。

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