第3話 ”イッカが聞いた”

「んーん」

 さっそく口いっぱいにカレーライスを頬張る一花。

 ふるふると首を振りながら咀嚼し、口内を空にしてから「あんねぇ」と甘えた声を出した。

「明日、大学の入学式なんよ」

「へ。大学? イッカちゃん大学行くの」

「そー。恭ちゃんと、さっき言ってた将臣と三人で、おんなしガッコ目指したん」

「どこの大学だよ」

 沢井が身を乗り出す。

 見た目にそぐわず上品にカレーを食べる恭太郎が、ふいに左手の人差し指をふらりとあげた。それは東南東方面を指しているようだが、いまいちふらふらと安定しない。沢井はその方向にあるものがなにかをかんがえる。ここから十五分ほどいった先には、……

「白泉大学?」

「そうッッ」

「へえ」

 おどろいた。

 白泉大学というと、学科にもよりけりながら偏差値が高いことで有名である。恭太郎はむかしから要領がよく勉強できたそうだから分かるが、まさか一花まで合格できたとは。もしかすると沢井が知らぬうち、高校受験のときから頑張っていたのかもしれない。口にこそ出さないが、沢井は内心で感動した。

 そんなもんだから、と恭太郎は柔和にわらった。

「むかし放蕩少女だった自分が、おかげ様で大学入学できたってみんなに言いに来たのダ。な、イッカ」

「うん」

「でもおまえ、イッカ。親とも話せたのか」

 とっさに口に出た。

 沢井はおっと、と唇を結ぶ。しかし中学のころの一花しか知らないのだから無理もない、と自分に言い訳も付す。

 当時、あまり自分のことを話したがらない彼女からなんとか聞き出した家出理由。彼女は昔から親と折合いがわるかったらしい。これといって衝突があったわけではない。ただ、放任主義でいながらつねに監視されているような視線がうっとうしくて、なんとなく家にいるのが嫌だった、と。

 しかし大学進学が出来たというのなら、それなりに和解もできたのかもしれない。

 ──と、おもったのだが。

「いまばあちゃんとふたりで暮らしてるんよ。親はお金だけ出してくれるって」

「…………そうか」

「あ、べつに捨てられたんじゃないよ。向こうの仕事が忙しいからってだけでね。あの人たちべつにあたしのこと嫌いなわけじゃないんだもん、だからだいじょーぶ」

「まあ、それをお前が分かってるなら、俺が口出すことでもねえな。もう少年刑事課でもないし」

 何の気なしに言ったことばに、一花はパッと顔をあげた。

「龍さんケーサツやめたの」

「なんでそうなる。異動したんだ、いまはこいつとおなじの警視庁刑事部捜査第一課だ」

「……ソーサイッカって、事件しらべるヒトでしょ?」

「おう、そうだよ。しらべたり、犯人捕まえたりな。よくドラマの主役になるだろ」

「じゃあ……さ、じゃあさ」

 一花はぐっと沢井の顔を覗き込む。

「いま、あっちの歓楽街でなんか事件起きてなーい?」

「えェ? いや──酔っぱらい同士の喧嘩なら日々起こっているだろうけど。事件ってなァ話は、いまは聞かねえな」

「ふうん。……」

 と。

 鼻をならしてから、なぜか一花は恭太郎を見た。

 恭太郎は、最後のカレーを食べ終えるところだった。コップ一杯の水を喉奥へと流し込み、ようやく一花と視線を合わせる。先ほどまでの呑気な空気から一変、ふたりの瞳にはわずかに緊張の色が見えた。あまりの緊迫感に口を挟むにも挟めず、沢井と森谷、千枝子までもが沈黙を崩せない。

「…………」

「…………」

「…………」

「……、…………」

 やがて恭太郎がフッと視線をカレーの空き皿へ落とす。それから「シゲさん」と、となりに座る森谷へ顔を向けた。

「な、なんや」

「!」

 森谷の眉がぴくりと動く。

 言い出した恭太郎は、しかし口を閉じて、ゆっくりと鼻歌でひとつの旋律を奏でた。


「♪────────♪」


 もの悲しい旋律。

 先ほど動画で聴いた激情猛々しい曲調とは対照的に、諦念の情をおもわせる。短いフレーズなのになんと気分の重たくなるメロディだろうか。

 沢井は眉を下げる。

「なんだそれは」

「だからイッカが聞いたんだって。一ヶ月くらい前から、あっちの歓楽街で」

 と、恭太郎はビー玉のような瞳をすうと細めた。

 意味を計りかね、沢井はおもわず森谷を見た。当の森谷は神妙な顔でいまの旋律を口内で口ずさむ。が、彼には少なくとも恭太郎の意図が分かっているようだ。確認しようと沢井が口を開きかけて、やめた。かすかに喉奥でわらう声が聞こえたからだ。

 一花。

「なに、わらってんだ。イッカ」

「あたし龍さんのことは信じてんだよ」

「……え?」

「だっていっつもあたしの話、ちゃんと聞いてくれたもん。おとななのにサ……」

「イッカ──?」

 彼女はそしておなじ旋律を口ずさむ。

 意味を聞こうとした矢先、森谷が立ち上がった。

「龍クン、行くで」

「はっ?」

「恭クン。いまのはまークンも知っとるんか」

 森谷が問う。

 恭太郎は返事の代わりににっこりと満面の笑みを返す。ほんなら、と森谷は沢井を見下ろした。

「今夜の食べ放題、龍クンも来てや」

「はあ? おい、いったいどういう」

「どういうことか知りたいんやったら、いっしょに来てくれ。オレがおごったるから」

「…………」

 ふざけているのか、という意味を込めて沢井がにらみつけるが、森谷はめずらしく真剣な面持ちである。瞳の奥で「あとで説明する」と語っている。あまり面白くはない展開だが、問いただそうにも、このようすじゃ恭太郎と一花も説明する気はなさそうだ。ふたりとも、先ほどまでのシリアスな空気はどこへやら。のんきに茶を啜っている。

 肩をすくめて立ち上がった。

 千枝子と典泰に声をかけ、ついでとばかりに子どもたちの分まで会計し、沢井と森谷は『ざくろ』を出る。

 間際、沢井はいま一度店内に目を向けた。

 一花と恭太郎はじっとこちらを見つめていた。

 逡巡し、

「キャンパスライフ、楽しめよ」

 とだけ伝えてみる。

 彼らは昔と寸分変わらぬ無邪気な笑みを浮かべて、「将臣によろしく」と手を振った。

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