第三夜
第14話 解剖立ち合い
『現代に吸血鬼か⁉』
『真夜中の悪夢』
『奪われた若いいのち』
四月三日未明、〇〇区××町にて若い女性の遺体が発見された。
遺体からは全身の血が抜かれており、警察は殺人事件と見て捜査を進めている。近隣住民の話では、"吸血鬼"の仕業として怯える者も多数おり、迅速な解決が急がれる――。
「なんだこれは!」
警視庁刑事部捜査第一課沢井龍之介警部補はいま、他人を寄せつけぬほどすこぶる機嫌がわるい。というより、彼は仕事モードとなるとつねに不機嫌なように見える。本人が大して苛立っていないときでさえも、だ。しかしいまはまちがいなく機嫌がわるかった。
手中の新聞記事を放り、椅子に身を投げる。
「吸血鬼だと?」
捜査会議室のホワイトボードをぎろりとねめつけた。
一枚の遺体写真がある。げっそりと痩せこけた若い女性が、歓楽街の植え込みに無造作に棄てられていた。この被写体の女性――中田聡美こそ、三日未明に体中の血を抜かれた状態で発見された被害者である。
現代ではそうそう見なくなった奇怪な死を遂げたこともあって、新聞各社はいっせいにセンセーショナルな見出しで報道をはじめた。報道の自由があるとはいえ、下劣なオカルト雑誌ならまだしも一般紙が『吸血鬼』などという単語を使うことに、沢井は怒りを隠せなかった。
被害者遺族の心情をなんだと心得る、と。
「ケッ。血も涙もねえ奴らだ」
「吸血鬼だけにねェ」
かすかなつぶやき。
背後をぐるりとにらみつけると、捜査一課の後輩である
「いま、くだらねえことぬかしたのはてめえか。三國」
「いやだって沢井さんが血もねえとかぬかすから」
「ぬかすとか言うな先輩に対してッ」
「おーこわ」
イライラ。
沢井の目はふたたびホワイトボードへ向けられた。先ほど終わった捜査会議、分かったことといえば被害者の身元のみ。死亡推定時刻等はこれからおこなわれる帝都中央医科大学での司法解剖次第である。
いまだに凶器も死亡推定時刻も、容疑者候補のひとりすら絞れていない。沢井はガシガシと頭を掻きむしり、机に広げられた手元の捜査資料をまとめる。その横で三國が新聞を読みながらくちびるを尖らせた。
「現実問題、身体中の血を抜くってなあ可能なんですかねェ。そりゃ病院施設の機材がありゃあできるんでしょうが……たとえばトーシロが大動脈掻っ切ったとして、ぜんぶ抜けるのかなァ」
「可能だからこういう状態で発見されたんでしょう」
と、缶コーヒーをふたつ手にした女が寄ってきた。
ゆるいパーマまじりのマッシュボブに溌剌とした眉と猫目、すらりと長い手足は黒いパンツスーツゆえかよく映える。彼女は沢井のすこしあとに警視庁捜査一課へ異動になった、三橋綾乃巡査部長である。
彼女はひょいと三國のうしろから新聞を覗く。
「それにしたって瀉血や献血じゃあるまいし……体内から血を抜いて、容疑者側になんのメリットがあるんだか」
「シャケツってなんです?」
「むかしまだ医療が発達していなかった時代に、西洋中心に流行った医療行為のことよ。熱が出たり咳が出たり……なんかわるいところがあったら、とにかく血を抜いとけばいいって思われてたんだって」
「こわ」
「さすがに全部抜き取るわけじゃないけどね。沢井さん、コーヒーです」
「ああ」
わるいな、と沢井はぶっきらぼうにつぶやいた。
刑事事件の捜査では基本的に二人一組で行動する。沢井の場合、この三橋がペアとなる。ちなみに三國は森谷のペアである。沢井がコーヒーを受け取ったのを確認した三橋は、車のキーをじゃらりと揺らして、
「司法解剖担当は藤宮先生ですよね。車、まわしてきます」
と軽足で会議室を出ていった。
おい、と沢井が三國を見た。
「森谷はどうした」
「便所でさァ」
「俺らは解剖立会に行ってくる。おまえらはガイシャの遺族に──」
「あ」
三國がひょこりと沢井のうしろを見た。
ちょうど森谷が帰ってくるところだった。彼は、ゆううつな顔で遺体写真を一瞥してから、
「オレらは中田聡美の関係者に聞き込みやろ」
と言った。
まったく、先日にようやくでかいヤマを終えたばかりだというに、なぜこうもすぐ死体が出てきてしまうのか──という彼のやるせない感情か。同情は禁じ得ない。が、そうも言ってはいられまい。沢井は一喝するようにその背中を強くたたいて部屋を出た。
扉が閉まる直前に聞こえた、痛みに悶える彼の断末魔を背に。
※
桜の代紋を背負った警視庁前には、すでに三橋がまわした車が停車している。助手席に乗った沢井を確認して彼女はゆっくりと車を発進させた。
コンビを組んで一年ほどになる。
その気遣いや冷静な判断力、くわえて尋常じゃない肝の据わりようにはこれまでもずいぶん信頼をおぼえてきた。三橋もまた、ここへ異動してくる前から、うわさに聞いていた沢井のやり方、考え方を憧憬し、いつかこうして肩を並べたいとおもっていたとか。酒の席でそう熱弁をふるわれたときはさすがに照れくさかったが、いまではすっかり頼れるバディとなった。
カッチ、カッチとウインカーが右を指す。
「沢井さんは藤宮先生にお会いしたことありますか?」
「一回。つっても解剖所見を近くで聞いただけだがよ。半年くれえ前に、前任と入れ替わりで法医学教室にやってきたんだ」
「へえ──なんか、聞くかぎりじゃすごく美人さんだと聞いたんです。ほんとかな」
「…………」
先日、森谷と交わした会話を思い出している。
──彼女もえらい別嬪さんらしいやん。
と。
やはりだれが見ても美人の類には入るらしい。沢井はいまいち、むかしからそういった美醜に対する感度がにぶい。男でも女でも、どちらかというと一本芯の通った人間に魅力を感じる節がある。もちろん恋愛感情は女に対してだけだが。
「さあな、マスクしてたから顔はよく見てねえ。が、腕はたしかだ。見逃しはないうえに彼女の見解にたすけられたデカも少なくねえんだと」
「美人で仕事もデキるって──もうなんか、やばい性癖のひとつでも持ってなくちゃ割に合いませんね」
「ああ? たとえば」
「
「……代償がでかすぎるな」
「でもそういう美人辣腕監察医っていうのは、たいてい嬉々として死体を切り刻むっていうのが定石だとおもいませんか?」
「おまえはドラマの見過ぎだ」
「そうかなァ」
「さいあく、たしかな検死結果さえ出してくれりゃァ、嬉々として死体刻むようなやつでもいいや──」
「なるほど。割り切りも大事ですね、勉強になります」
三橋はカラカラとわらってハンドルを切った。
帝都中央医科大学は、警視庁からもそう遠くはない。車はまもなく関係者用駐車場へと流れるように入っていった。
「集まった?」
執刀医・
解剖室に押し掛けた人数は延べ十数人。
執刀医や担当刑事のほか、解剖には多くの人間がかかわることになる。法医学教室側からは解剖助手やカメラ撮影、検体採取に口述筆記係など。それに加えて警察側からも、検視官や解剖助手警察官、カメラ撮影係などがぞろりと詰めるのである。
沢井が若かりし頃、初めて解剖立会いをしたのが助手役だった。目前にころがる凄惨な遺体から目をそらさずに、執刀医の指示どおりに遺体を動かすことのなんと緊張することか──。この分だと、今日の警察側解剖助手は三橋かな、なんて考えていると、むこうの助手がストレッチャーに乗せた遺体を運んできた。
干からびた女の遺骸。
腹部には三本の裂傷が走っており、そこに乾いた血液が付着しているのが見られる。
執刀医──神来のかけ声にて、まずは合掌。そののち、解剖は粛々とおこなわれた。今回の解剖助手はかなりのベテランらしく、それはもう見事なほどスムーズに進行してゆく。
解剖初期段階で、沢井から被害者の身元や発見状況などを報告。それをもとに執刀医は遺体と向き合うのである。
所々で所見をこぼす執刀医のことばを、つぶさに書き留める筆記係。解剖台のそばに控えて、執刀医の指示どおりに箇所を撮影する撮影係。まったく無駄がない。撮影については警察側も参加しているが、この流れを塞き止めぬよう、必死についていっている。
「三橋さん──背中を、このかたちで持っていて」
「はい」
とつぜん声をかけられた三橋だが、解剖中の遺体もなんのその。怯むようすは微塵もない。こういうものへの耐性は女の方が強いと聞くが、あながち嘘でもないらしい。
「血が……あまりにも少なすぎる」
これは神来の独り言らしい。
しかし三橋はこっくりとうなずき、いまのうちと言わんばかりにまじまじと遺体を眺めまわす。
遺体の体内を覗いたまま、神来は沢井を呼んだ。
「被害者の発見状況についてもう少し教えてくださる?」
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