Chase of 赤鼻 in the 聖夜

もちもちおさる

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 日雇いのサンタクロースのアルバイトに行ったら、おれのソリを引くトナカイたちがストライキを起こしたとかで、みんな逃げてしまったんだそうだ。バイトリーダーのサンタクロースが言うには、おれの乗る「赤鼻号」を引くトナカイに、あの赤鼻のトナカイがいて、とうとう羞恥に耐えきれず他のトナカイとともに脱走したんだと。そう、あの赤鼻のトナカイ。エリアマネージャーに連絡して代わりのトナカイを手配できないか聞いてみるけれど、日本エリアは慢性的なトナカイ不足だし、赤鼻のトナカイがいないと他のソリやトナカイも暗い空を飛べないし、もしかしたら今年のクリスマスプレゼントは無くなってしまうかもしれない、とのこと。お手当ては出してくれるらしいけど、とりあえず早急にトナカイたちを捕まえて、今夜中にプレゼントを配り終えなければならない。それはもう、無理なんじゃないすか、もう日が沈みますし、配送業者にお願いするしか、とか言ってみたけれど、やっぱり他の会社もいっぱいいっぱいで、なにより、サンタは子どもたちに信じてもらわないと存在できないんだよ、と説明された。正直よくわかんなかったけど、ああ、じゃあ、とりあえず捜しましょうと返事して、サンタクロースの赤い服を着て、帽子を被って髪を隠し、髭を付けた。私たちも頑張って捜すけれど、あんまり期待しないでね、ほら、もう歳だから、と先輩方が笑っている。なにのんきにホッホッホしてるんだよと思いつつも、そういえば、なんでそんな重要なソリをおれみたいな日雇いに任したんですか、と聞くと、ええ、だって、きみみたいな若い人が来てくれるの久々だから、照れくさそうに言った。「赤鼻号」は特別だから、一生の思い出にしてほしいでしょ、それで、きみが子どもにプレゼントを贈るようになってほしいから。


 おれの担当する、東京都渋谷区の分が入ったプレゼントの袋を「赤鼻号」に積むと、少し引っ張ってもびくとも動かなくなった。わかってはいたけれど、まずはトナカイを見つけないとどうしようもなさそうだ。先輩のサンタたちはまだ着替えておらず、よいしょよいしょと言いながら営業所から出てきた。まだ着替えないんですか、と聞くと、私たちは「赤鼻号」が出発してから着替えるんだよ、だって、サンタクロースは一人しかいないからね、とおれを指さして言う。


 さて、トナカイの行きそうな場所に心当たりもクソも無いので。スマホを取り出し、SNSで「トナカイ」と検索をかけてみる。すると、ああ現代人でよかった、ああ文明の利器ばんざい、「スクランブル交差点にトナカイいるんだけど笑笑」、そんな投稿を見つけたので早速向かう。今日ばかりはその野次馬根性に感謝したい。投稿時間は約五分前。渋谷駅方面へ歩きながら、他に情報がないか探す。ナショナルジオグラフィックの宣伝の他に、同じような投稿が複数あり、どうやら警察が交通規制と捕獲のために出動しているらしい。おれは走り出した。サンタクロースのまま走り出した。トナカイのために、子どもたちのために走り出した。なんだかおれ、今すごくサンタらしくないか?


 スクランブル交差点に着くと、既に何人もの警官が規制線を貼ったり車や通行人を誘導したり、おいおいハロウィンもワールドカップももう終わったんだぜ、もうやってこないんだぜとぼやいてしまうくらいに渋谷らしい光景だった。そして、人混みの奥、交差点の真ん中にぽつんと立つトナカイの姿を見つけた。あれだ! 背中と腹、脚は茶色く、首から頭までは白い。太い胴と太い首、大きな蹄に、そこらへんの街路樹の枝よりもずっと立派な角が乗っかっている。トナカイだ、本物のトナカイだ。生きている軽自動車みたいだった。いや確かにそのトナカイは生きていて、周りの建物をぼんやり見上げているのだけれど、なんだか、その存在の大きさと、ソリを引けるだけの力強さを持った質量に圧倒されてしまった。遠巻きに見ているだけなのに。どきどきと心臓が鳴る。あれを捕まえるのか、おれ。大丈夫か。だって、あの角、刺されたら、し、死んじゃうんじゃないか。

 他のサンタたちに連絡しようとスマホを見るも、おれの指は行き場を失ってしまった。脳裏に先輩方の笑顔が浮かんだから。ぎゅっとしわの寄った目尻。おれより低い目線。ゆったりとした柔らかい声。おれはスマホをしまった。よくわからないけど、これはおれ自身がやるべきだと思った。誰かに任せたら、おれはきっとサンタクロースじゃないと思った。もしかしたら、これが責任感ってやつなのかな。これが大人になるってことなのかな。だとしたら随分、限定的な責任感だ。

 おれは人混みをかき分け、交差点のど真ん中へと向かう。追い払おうとする警官に、先輩から渡された社員証を見せた。すると、少し困ったような顔をして通してくれた。ぴかぴかの制服を着た、おれと同世代くらいの警官だ。面倒なことになりましたね、と言われたので、ああ、まぁそうですね、と返しておく。こんな作りたての社員証じゃ、なんにも証明できやしない。


 喧騒から離れ、そこだけ人と車が消えてしまった、交差点のど真ん中。まるで聖域だった。アスファルトには到底似合わない生き物が佇んでいる。おれが近づくと、トナカイはゆっくりとこちらを向いた。深い焦げ茶の瞳で、じっとおれを見つめている。おれは数メートルほどの間隔を保ち、よぉ、おれ、バイトなんだけどさ、と声をかけた。トナカイは黙っている。あの大きな身体で突進でもされたらひとたまりもない。おれの骨は全部粉々になってしまう。おれはいつでも逃げられるようにしつつ、迎えに来たんだ、と言った。するとトナカイは、

「ああ、そう。早いわね」

 と、ため息をついた。女の子の声だった。

 トナカイはおれの顔がこわばったのを見て、くす、と乾いた息を漏らした。あら、角があるからオスだと思ってた? トナカイはメスにも角があるの。そして、クリスマスの時期にまで角が生えてるのはメスだけなのよ。雪を掘り起こして食べ物を探すためにね。オスは、秋が終われば角が落ちてしまうの。だから、サンタクロースのソリを引くのはみんなメスのトナカイなの。あたしたちがいなきゃクリスマスはできないし、子どもたちも育てられないのよ、バイトくん。

 トナカイはゆっくりとおれに歩み寄り、鼻先をおれの手に近づけ、手綱を付けるよう促した。ああ、そうなんだ、確かにそうだ、だから迎えに来たんだ。トナカイがいなきゃおれはサンタクロースになれないんだ。硬くて鋭い角が目先にまで迫り、おれの脈は速くなる。トナカイの顔は氷のように冷たい。だけれど、かかる鼻息は仄かに温かい。僅かに震える手でなんとか手綱を付けると、おれはハッとした。黒い鼻。こいつは赤鼻のトナカイじゃない。そうだ、これで終わりじゃないし、赤鼻の奴を見つけなきゃどうにもならないんだ。アスファルトに、こつんこつんと蹄のぶつかる音がする。一頭のトナカイにビビってちゃあ仕事にならない。そうだ、おれはサンタクロースになるんだ。サンタクロースだから迎えに来たんだ。大きいからなんだ。角があるからなんだ。トナカイは、おれのソリを引くんだ。

 おれは帽子を深く被り直し、手綱をゆっくりと、けれども確かな力を込めて引いた。トナカイは歩き出した。さっきの警官に会釈をし、自然に拓けていく歩道を進んだ。人々はトナカイの身体と角を避けるように動いていた。おれたちの周りだけ、人も車も無い世界のようだった。渋谷じゃないみたいだ。おれは、なんとなく気になっていたことを口に出した。なんでスクランブル交差点にいたの。

 トナカイは言う。あたしもSHIBUYA109に入ってみたかったの。あの子たちみたいに。その焦げ茶の視線を追うと、女子高生らしき子どもたちがマフラーで必死に顔を温めながら、だけれどスカートは限りなく短く、肌のあちこちを赤く染めて、一生のうちの全ての言葉を使い切ってしまいそうなぐらいに話していた。トナカイは言う。でもやっぱり入れなかった。あたしはトナカイで、あの子たちとは違うんだもの。あれがもしトナカイのための建物だったとしても、あたしはきっと入れない。ここはそういう場所で、そういう匂いをしているから。トナカイは目を逸らさずに言う。それに、サンタクロースは子どもたちに姿を見せないわ。トナカイだって、きっとそう。


 あーあ、こんな面倒なことになるんなら、ケーキ販売のバイトにしとけばよかった。同じサンタの格好でも、クリスマスケーキは逃げたり文句を言ったりしないので。そう思いながら、五頭目のトナカイを捕まえる。もうすっかり夜だった。最初に捕まえたトナカイとSNSの目撃情報のおかげで、なんとか他のトナカイを捕まえることができた。恵比寿駅前のマクドナルドだとか、原宿の竹下通りだとか、池袋のサンシャインシティだとか。最初のトナカイが、心当たりのある場所を教えてくれた。他のトナカイはみんな、同じようなことを言っていた。あたしも、あたしも、あたしも。子どもたちみたいに、あの子みたいに。そんな憧れがあった。赤鼻のトナカイに誘われたそうだ。みんな自由になるべきなんだ、って。そう、赤鼻のトナカイ。恥ずかしがり屋のトナカイ。

 「赤鼻号」を引くトナカイは全部で六頭。捕まえた五頭は、みんな黒い鼻だった。残りの一頭は、赤鼻のトナカイ。先頭で夜空を照らすトナカイ。そのトナカイがいないと空を飛べない。おれは空を飛んで、今夜だけ貸与された、なんかものすごいサンタパワー(社外秘なので詳しくは書けない)を使って、東京の一般家庭に忍び込み、プレゼントを置いてこなければならない。でも先輩方みたいにベテランになれば、パワーをちょっと使うだけですぐにプレゼントを届けられるらしい。ほんとかよ。でも長時間外にいてもあんまり寒くないし、トナカイを引いて歩いてもあんまり疲れないし、これもそのサンタパワーのおかげみたいだ。

 おれはトナカイたちに尋ねた。赤鼻のトナカイはどこにいる? 赤鼻のトナカイの行方だけは、SNSで調べても警官に聞いてもわからなかった。あんなに目立つ鼻があるのに。トナカイたちは顔を見合わせ、くすくすと笑いだした。うわ、女子の苦手なノリだ。

「きっとあそこよ、バイトくん」

 トナカイの一頭が、鼻先で方向を示した。それを目で追えば、東京の夜空があった。黒い空が、細かにちらちらと光っている。あれはなんだ? ああ、星だ。東京にも星はあったんだ。どうして気づかなかったんだろう。ああ、空が照らされている。どうして、そこにいるって思わなかったんだろう。

 赤鼻のトナカイは、空を飛んでいた。東京の空なんて誰も見やしないから。


 まじかよ、と思わず呟く。空、飛んでるんだけど。いや、バイトマニュアルで空の飛び方とかソリの操縦方法とかはわかってるんだけど、空でトナカイを追いかける方法は載ってなかった。大丈夫なのか。だって、赤鼻のトナカイを見失ってしまったら、真っ暗な空に取り残されちゃうんじゃないか。

 周囲の空気が、ぐんと冷たくなった気がした。もしかしたら今夜は雪かもしれない。早く帰って、あったかくして寝よう。どこかの大人の声と、それに応える子どもの声が聞こえた。たぶんサンタパワーによるものだと思う。何年ぶりだろう。東京のクリスマスに雪なんて、奇跡みたいなもんだ。そう、奇跡みたいな。子どもたちにとっては一年に一度きりの奇跡で、それはサンタクロースにだって、トナカイにだってそうじゃないのか。そう、今夜だけの。

 おれはその、奇跡になれるだろうか。


 ソリにトナカイたちを繋いだ。サンタパワーを使う。ソリがふわふわと浮き上がり、トナカイたちが脚を泳がせる。すーっと地面が離れ、トナカイたちの足並みが揃う頃、「赤鼻号」はまさしく空を飛んでいた。赤鼻のトナカイの光が厚くて黒い雲を透かし、埋もれた星々を映し出す。真下に視線を落とすと、東京の夜景が広がっている。暗闇を埋め尽くす銀色の光。優しく輝いていた。上からも下からも、夜空に挟まれたようだった。

 おれは静かに赤鼻のトナカイへと近づいた。ソリを引くトナカイたちも、黙って空を駆けた。赤鼻のトナカイは、とっくにおれに気づいているようで、逃げずにゆるく走っていた。おい、と呼びかけると、ぼんやりとおれを見た。何度もおれを見てきたかのような目だ。その目のすぐ先に、赤く発光する鼻があった。不思議な光だった。蛍のそれのように柔らかいのに、どこまでも照らすほどに明るい。


 おれは、迎えに来たんだ、と呼びかけた。すると赤鼻のトナカイは、そんなの知ってるよ、と言って顔を背けた。前だけ見据えて駆けだした。その姿はぐんぐん小さくなっていく。身軽な一頭のトナカイと、一人とソリを引く五頭のトナカイ。どちらが速く走れるだろうか。おれは、まじか、とぼやいてサンタパワーを使う。ソリのスピードが上がり、真下の輝きが次々と変わっていく。でも、どれも星空のようなことに変わりはなかった。風がびゅうびゅう鳴っている。初めての高速道路よりスリリングだ。赤鼻のトナカイの背中が、段々と近づいてくる。おれは、なにか言わなきゃいけない気がした。だって、赤鼻のトナカイにもあるはずなんだ。SHIBUYA109に入りたかったとか、そういうことが。そういう、諦めてきたいろいろが。鼻が恥ずかしいとか、たぶんそれだけの、そういう程度じゃないんだ。

 おい、おい、とおれは声を張り上げた。冷たい風が喉に入り込んで、乾いた、変な咳が出た。そしたら赤鼻のトナカイはこちらを見て、うるさい、と返した。わたしが逃げてる理由はわかってるんでしょ、なのになんでほっといてくれないの。そんなにクリスマスが大事なの。

 ああ大事だよ、でも、それはきみより大事かと言われたら、おれは答えられないんだ。サンタクロースになるには、あまりにも青いんだ。こんな問答を続けていても、もうどうにもならないんだ。それは、おれときみ以外の誰かが散々繰り返してきたもので、きみ自身が、いつか全てと向き合わなきゃいけなくて。だから、おれはもっと違うことを知りたいと思った。もしかしたら、きみと一緒に向き合えるかもしれないんだ。おれは「赤鼻号」に乗っているのだから。

 なんで一頭だけで空が飛べるんだよ、と聞くと、赤鼻のトナカイは少し面食らったような顔をして、

「トナカイパワー」

 と言った。トナカイパワー。おれの顔を見て、彼女は続ける。

「わたしは赤鼻のトナカイだから、そのパワーが強いんだ。それに、クリスマスにはもっと強くなる。だから空が飛べる。きみのサンタパワーと同じ」

 そうなんだ。じゃあ、今夜だけのパワーってことなのか。赤鼻のトナカイは、今夜が終われば飛べなくなるのか。

「そう。だから、逃げ出すには今しかないんだ! わたしは故郷に帰るんだ!」

 空に吠えるような声だった。それから、

「きみがサンタクロースになればなるほど、サンタパワーはますます強くなる。そうすれば、わたしを捕まえられるかもね」

 と言って、またぐんぐんスピードを上げていく。おれも負けじとソリを走らせる。星空がびゅんびゅん過ぎ去っていく。おれが、サンタクロースになればなるほど。それはつまり、どういうことなんだよ。

「サンタクロースっていうのは、そういうものだよ。自分が信じれば、子どもたちが信じれば、サンタクロースはサンタクロースになる」

 トナカイだって! 彼女の言葉に、ソリを引くトナカイたちは声を漏らして笑った。そして、もうすぐ東京から出てしまうわよ、バイトくん、と呼びかけてきた。それはまずい。おれは真っ直ぐ追うのを止め、大きく迂回するようにソリを操縦した。赤鼻のトナカイは向きを変え、東京の夜空をぐるぐると走り始める。本当の持久戦の始まりだった。おれのパワーが尽きるか、夜が明けるかの戦いだった。それを彼女も察したようで、ソリとの距離を確認し、体力を調節しながら走るようになった。そうだ、持久戦であり、おれのバイト代がかかった時給戦なんだ。どうせ今夜だけのサンタクロースなんだから、パワーだろうがトナカイだろうが使えるもんは使っておく方がいいだろ。だから、おれがパワー全部を使い切るために、おれはサンタクロースにもっとならなきゃいけない。おれは大きく息を吸った。

 なぁその、帰りたい故郷ってどこなんだよ、と聞くと、赤鼻のトナカイは振り返らずに、

「フィンランド」

 フィンランド。

「か、ノルウェー」

 ノルウェー。

「もしくは、カナダ!」

 急に北米じゃん。

「本当の故郷がどこかなんて覚えてないし、どこでもいいの! 今夜が終わったら、北海道の牧場に帰されちゃう! そこじゃなかったら、どこでも! 人の目を気にしながら生きるのはもうこりごり!」

 赤鼻のトナカイの顔から、きらきら光る雫が空に散っていく。今にも消えてしまいそうな星屑のようで、おれはなにも返せなかった。だって、おれも帰りたかったから。おれの中の、サンタクロースのところと、その気持ちが混じりあっていて、そんなはっきり言葉にされてしまうと、どうしても共感してしまうし、気づかない振りをしていたところがくっきり色づいてしまうものだ。おれは視線を落としてしまった。


 上空で騒ぐ成人男性と赤鼻のトナカイがよほどうるさかったのだろうか、ちらと近くのマンションを見てみると、窓から子どもたちがこちらを見上げている。まずい、起こしてしまった。姿を見られる!

 おれの中のいろいろは、再び、焦りと驚きで混ぜこぜになった。それでいいのかはわからないけど、今はそれでいいと、なんとなく思った。そう、サンタクロースで。

 サンタクロースが真っ白な髪と髭をたくわえた小太りのおじいさんじゃないことを知ったら、子どもたちはきっとショックを受けるだろう。全然サイレントナイトじゃないしホーリーナイトじゃない。おれは帽子を深く被り、大きく息を吸って胸と腹を膨らませ、中学の合唱コンクール以来の低くて大きな声を腹の底から出した。備え付けの鈴とハンドベルを鳴らし、メリークリスマース、ホゥホゥホゥとも言ってみた。おれが疑われてしまったら、サンタの先輩方も、東京の親御さんたちも、みんな困るんだ。子どもたちはなにを信じていくんだ。おれは、今夜だけはサンタクロースでいなくちゃならない。そうだ、おれは今、サンタクロースなんだ!

 十二月の東京の夜空だ、風はごうごう唸りおれの体温を奪っていく。サンタの格好でも寒いもんは寒い。サンタパワーがあっても寒いもんは寒い。白い息が、吐いたそばから後ろに流れていく。指の感覚が無くなっていく。トナカイたちは勢いを緩めずに駆けていく。手綱に全てもっていかれてしまいそうだ。普段使わない筋肉が、ぎしぎしと軋む音がする。さっきの決意がどんどんしぼんでいく感じがする。ああこれで、いくらもらえるんだっけ。時給。おれはまた下を見た。高所恐怖症ではないので別に怖いとかはなく、辛くなってしまったから下を見た。渋谷は夜でも明るかった。夜空までその明るさに侵食されないようにと、なんとなく思う。見下ろしたところにちょうど、おれの通う大学、おれの通うキャンパスがあって、そこで大きなクリスマスツリーがきらきらと輝いていた。サークルのクリスマスパーティーに誘われたけど、バイトがあるからと断った記憶が蘇る。ああきっと、みんな今頃は、家族とか恋人とか、友人とか。ケーキとかチキンとか酒とか、思い思いに過ごしてるんだろうな。おれはなんだ? おれは今、なにをしている? 馬鹿みたいに虚しくなってきた。もうなにをしたいのか、なにになりたいのかもわからない。というかそれって、一生考えてもわからないくらい、とんでもないくらいに難しい話じゃないか。目が濡れてきて、すぐに凍ってしまいそうだ。目からも心からも、それが溢れてしまいそうになった瞬間、ひときわ強い風が、ぶわ、とおれの涙を吹き飛ばした。

「――よく頑張ったね! もう少しの辛抱だよ!」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、おれのソリの周りには、サンタの先輩方のソリがあった。渋谷の空に、無数のサンタクロース。彼らは自分のトナカイを操り、おれたちをぐるりと取り囲むように空を駆けている。赤鼻のトナカイの行き先を誘導しているんだ。ぴかぴかの赤い鼻が夜空を照らし、飛べるようになったから。先輩方は柔らかい笑顔を浮かべ、赤鼻のトナカイを追いながらも、サンタパワーで各家庭にプレゼントを届けていく。その光景に、どきどきと心臓が鳴っている。おれも彼らの真似をして、パワーを使ってみる。かじかんだ指先に、血の通ったような気がした。すると、窓から空を見上げる子どもたちの後ろに、プレゼントがそっと届けられた。夜空さえ照らされていれば、赤鼻のトナカイを捕まえる必要はないんだ。このままプレゼントを配り終えてしまえばいい。そうすれば子どもたちは、無事にいい子でメリークリスマスなんだ。サンタクロースはサンタクロースのままでいられるんだ。みんな、自由に生きられればいい。ああ、そうだ。そうだ、そうだ。おれの頬が僅かに濡れているのはきっと、雪だ。


 それでも今、おれはサンタクロースなんだ。おれは喉と肺を凍らせるつもりで、息を大きく大きく吸い、声を日本中に届けるつもりで、大きく大きく張り上げた。

 おい、きみの鼻、おれはすごいと思うよ、おれは毎日スマホに頼りっぱなしだけど、スマホの光じゃ夜空を照らせないし、サーチライトだって敵わないんだ、きみの鼻はみんながなりたくてしょうがない唯一無二なんだ。そんなことを言っても、トナカイは振り向かずに逃げていく。わたしの鼻にしか価値がないんだ、みんなわたしの鼻しか見てくれない! そんなことを言う。じゃあ立ち止まってきみのことを教えてくれよ、次の夏は北海道に行くよ、おれは来年のクリスマスも「赤鼻号」に乗るよ、と言うと、トナカイはパッと振り向き、一瞬スピードを緩めた。けれど、また泣きながら逃げ出した。

 おれは、おいまてよ、きみの人生、じゃなくてトナカイ生、まだ捨てたもんじゃないぜ、とか言いながら追いかけるんだけども、トナカイは聞く耳持たずに、もうほっといて、きみみたいな若造に生きることのなにがわかるの、きみが赤鼻のトナカイじゃない限り、なに言っても慰めにしかならないよ、とか言いながら空を駆けていく。だから、おれも負けじと、そうだ、おれは年寄りと違って体力があるから、きみが疲れて立ち止まるまで追いかけることができる、きみをフィンランドだってノルウェーだって、カナダだって連れていけるぜ、このまま行ってもいいんだぜ、おれたちはきっと、夜が明けても空を飛べるよ、なんて言い返してもトナカイは止まらないので、なんだかその夜は今までよりずっと、ぴかぴかしていたんだと。

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