第7話 “それ”って、そんなに必要なの?


「嘘だろ…。」


 明は、手の中で無言で横たわる愛用の玩具を見ながら、打ちひしがれる。ただの玩具ではない。所謂、“大人の玩具”である。独身時代から数年、永らくお世話になった逸品であったが、ついに電池を使い果たしたのか、うんともすんとも言わなくなってしまったのだ。


「…終わった。」


 心からの絶望が、ポロリと口からこぼれ落ちる。これは困った事になった。今日は生憎、男性ホルモン注射を打ちたてホヤホヤなのだ。テストステロンにまみれたこの体では、“電動神器”なしに、ムラムラを鎮火させる事など出来ない。


 この大問題は、性同一性障害の明にとって、男性ホルモン注射を打ち始めてから常に共存する物である。明は、女性の体を持ち、男性の心を持つ性同一性障害だ。こうしたケースの人は俗に、FtM(Female to Man=女性から男性への移行)と呼ばれる。彼らFtMは、理想の体に近付ける(心理学的には、戻る)為に、男性ホルモン注射を投与する。男性ホルモン=テストステロンは、明の大学時代の恩師であるジェンダー論の先生のお言葉を借りれば、“魔の劇薬”であった。


「先生、僕、4月から男性ホルモン注射を投与し始めたんです。」


明が嬉しそうにそう告げた時、彼女の眉毛は心配そうに動いた。


「杉浦君、男性ホルモンは“魔の劇薬”ですからね。男性化を焦って、打ち過ぎたりしてはダメですよ。心配しなくても、私が投与している女性ホルモンと違って、貴方が投与する男性ホルモンは、凄まじいスピードで見た目や声を変化させます。必ず、男性化は起こりますが、スピードが早い分、副作用が女性ホルモンより強いように思います。侮ってはいけませんよ。」


 その先生は、明とは逆のMtF(Man to Female=男性から女性への移行)である。つまり、男性の体で生まれた先生は、女性ホルモンを投与していた訳だ。長年、自分の性別違和と向き合い、“性別越境者”としてジェンダー学を突き詰めてきた先生の“心ある助言”を、明は男性ホルモン投与を繰り返す事で身をもって知ることとなる。


 声変わりや、男臭さ、性器の形状の変化、筋肉と体毛の増量、髭が生えてきたこと。そうした目に見える異変と共に、想定外の大変化の壁に、明はぶち当たる。それは、“爆発的な性欲の増進”であった。加えて、育ち出した性器が意図せず、勃起したり傷んだりして、それはそれはもう、大変な“大学性活”の幕開けとなったのだ。元来、性欲が三大欲の中で八割を占める明にとって、気が狂いそうな“性活”の始まりだった。頭の中では常に、セクシーで魅力的な女性が、胸の谷間を見せつけながらウインクを繰り返しており、毎日AV片手に“自家発電”を営む日々が続く。


 しかし、ここで、更なる悲劇が生まれた。“自家発電”のし過ぎで腱鞘炎になってしまったのだ。だからと言って、“自家発電”なしにムラムラを抑える事などとても出来ない。背水の陣の明は、なけなしの“漢のプライド”を捨て、“苦渋の決断”を強いられる事となる。そして困り果て、当時親友であった裕美に、“恥ずかしいとある相談”をしたのだ。


「…あのね、ぼく、裕美に笑い事じゃなくて“真剣”な相談があるんだ…。」


ショボショボとくぐもった消え入りそうな声で明にそう言われた時、電話越しの裕美は、何となくそれが“ろくでもない相談”であろう事を察した。しかし、かといって邪険にするのも、気が引ける。


「なに?どうしたの?」


仕方なしにそう返すと、思った通り、明はおずおずと、想定通りに“ろくでもない相談”をしてきたのである。


「あのね、僕の腱鞘炎、ゲームだけが原因じゃなくてね…。」


「うん。」


「男性ホルモン注射のせいで、性欲がマジでヤバいの。ムラムラが抑えきれなくて、毎日“自家発電”してたら、手が痛くなっちゃった。」


「ふーん。」


やっぱり、お馬鹿な相談だった。裕美は、足の爪にネイルを丹念に塗りながら、そんな風に思った。うん、よく塗れてる。光が反射し、爪のネイルが所々キラキラと輝く。我ながら、良い出来だ。当時の裕美にとって、“明の哀しい自家発電事情”など、“自分の爪への興味”以下の話題であった。


「だからね、僕、思いきって“自家発電”の為に“大人の玩具”を買っちゃおうか悩んでるんだ…でも、男が一人で“大人の玩具”を“自家発電”に使うのって、何か格好悪いかな?どう思う…??」


 か細い声で放たれる明の“ろくでもないが、おそらく恥ずかしくて裕美にしか言えていない相談”を受けた裕美は、綺麗に塗られた自分の爪のネイルを眺めながら、暫し熟考した。はっきり言って、明が“大人の玩具”を使おうが使うまいが、知ったこっちゃない。だが、勇気を振り絞って、ない頭で一生懸命考えている明にそれをそのまま伝える程、裕美は鬼ではなかった。


「良いんじゃない?別に道具を使おうが使うまいが、性別は関係ないし。それで明が毎日楽しく過ごせるなら、良い買い物だと思うけど。」


ネイルだって、道具がなければ上手く塗れないし。そんな事をぼんやり考えながら、裕美は答えた。


「ほんと!?じゃあ、僕、“玩具”デビューしちゃうからね!」


「してみたら?」


気のない返事をしながら、その時の裕美は明の“大人の玩具デビュー”を肯定したのだった。



 話は冒頭の、明と裕美が結婚している現在に戻る。


「ああああ…どうしよう、今すぐ使いたいのに…完全に壊れてる。」


 相変わらず明は、諦め悪く息の根が止まった“大人の玩具”のスイッチをつけたり消したりを繰り返している。焦っているのには理由があった。もうすぐ、外出していた妻の裕美が帰ってきてしまうのだ。


(勿論、裕美なら、僕が“自家発電”をしているのを事故で見ちゃったとしても、静かに扉を閉めてくれると思うけど…恥ずかしいから見られたくないな。)


 大学時代、“自家発電”の最中に、いきなり母親に部屋のドアをバンと開けられたのは苦い記憶だ。最も、顕著に目が悪いのに加えて、老眼と暗闇のフルコンボのおかげか、母にはバレなかったようだが。それ以来、“自家発電を目撃”される事が恐怖となった明は、裕美には事前に告げる事にした。裕美が家にいる時、明は“鶴の恩返し”よろしく、寝室のドアから首だけ伸ばして宣言する。


「僕は、今からエッチな動画を見て“自家発電”をします!決して、この扉を開けないでください!どうか、何も聞かないでください!」


「はいはい。」


すると妻は、スマホから目線も上げず、面倒臭そうにいつもそう答える。“自家発電”を黙認してくれる“心の広い”妻のその姿は、夫にとって有難い物であると同時に、少し切なさを感じさせる物であった。


(裕美は、僕に性的な“関心”がないのかな。僕は、裕美がコッソリ“自家発電”をしている所に出くわしたら、たまらない位興奮するし、嫌だって言われても扉を開けてじっくり見てみたいんだけどな。)


 肩を落として扉を閉めながら、明はそんな風にたびたび悶々とする。どんな時も涼しい顔をして過ごしているクールな妻の本心は、明には検討も付かなかった。そもそも、裕美は、初めて明の実家の“ゴミ屋敷”を訪れた際も、平然と“通りすがりのゴキブリの梅子”をチラ見する位に、適応能力が異常に高いのだ。妻にとっては、夫の“自家発電”など、“ゴミ屋敷のゴキブリ”並みに関心を持てないイベントなのだろう。そう結論づけた明は、がっかりしながらも、一方で、“もしかしたら妻も、僕にバレないように自家発電をしているかもしれない”というありもしない可能性を思い浮かべて一人興奮した。残念ながら、結婚して数年、一度もその現場に足を踏み入れた事はないが。



(まあ、裕美はどうせ僕の“自家発電”には無関心なんだし。新しい“大人の玩具”を買っちゃお。)


 裕美のどこ吹く風な涼しい表情を思い返し、ため息を付きながら、明はインターネットで新しい“大人の玩具”を検索し始めた。数年ぶりの新作は目から鱗の商品ばかりだ。


「え、これすごい!吸引型とか絶対気持ちいいじゃん!裕美の分も買っちゃおうっと。」


「わー、なにこれー。デザインが斬新!五千円かー、でもレビューの七割が星五なら、大分期待出来るかも。」


「色んな色があるから迷うなー。ショッキングピンクだと、品がないから、緑色にしようかなあ。」


 “大人の玩具”に“品性の欠片”など求めても仕方ない。それにも関わらず、久しぶりに検索したアダルトグッズの流行の変遷に感動した明は、ついつい、様々なページに飛んでは新たな“自家発電の友”を求めて、ネットサーフィンに夢中になっていた。


 

 時を同じくして。


(今日の食事会、有意義だったな。)


 電車に揺られながら、周防裕美はどこか満足気に吐息をつく。仕事関係の食事会には珍しく、終電になってしまった。さぞかし、夫が心配している事だろう。スマホを開けば、明からのメッセージが届いている。“何時に帰って来るの?お迎え行こうか?”という言葉の後に、ちょっととぼけた淋しそうな顔をしたカワウソのスタンプ。


(私が帰って来るのを、起きて待ってるんだろうな。)


夫がソファーにちょこんと腰掛けて、一人で待ちぼうけをしている姿が自然と浮かぶ。生活習慣が夜型なのもあるが、結婚してから一度も、明は裕美の帰りを待たないで寝てしまった事はない。



「眠かったら、先に寝てて良いよ?」



締め切り前で完徹をした日ですら、寝ぼけ眼を擦ってうつらうつらしながら待っていた明を、不憫に思った裕美がそう告げると、明は欠伸をしてニコニコ微笑んだ。


「おやすみのキスをして寝たいから、待ってた。夜型の僕が起きる時間には、次の日もう裕美が仕事に行ってるかもしれないし、二人の時間はちょっとでも大切にしたい。それに、世界の凶悪事件でもよくやってるじゃん。帰りが遅いと思ったその日から、妻は帰って来なかった…って。そんな事になったらやだし、心配だから待ってたいの。」


人によっては、“重い言葉”なのかもしれない。だが、幼少期、仕事で忙しいシングルマザーの母とすれ違う事も多かった裕美には、明の言葉はどこか嬉しい物に聞こえた。


(なんか、良いな。こういうやり取り。)


ラインのスタンプを見ながら、裕美は柄にもなく微笑む。そう思えたのは、今日の食事会の内容にも関係していた。



「いやー、“結婚は墓場”なんて、若い頃はオヤジの愚痴でしかないと思ってましたけど、最近はすごい分かりますよ。」


取引先の男性社員は、仕事の話が終わり、プライベートの飲み会に切り替わると、肩を落としながら愚痴を言った。


(典型的な男性目線の“ボヤキ”だな。)


染み一つないクリーニング仕立ての身綺麗なスーツを着ている彼の様子を見ながら、裕美はそんな風に思う。元スポーツマンと言った感じで、男性社会で生きてきたようなガサツな雰囲気のするその男が、自分でスーツにアイロンをかけたり、クリーニング屋に足を運んでいるようにはとてもじゃないが見えなかった。



「奥さんと上手く行ってないんですか?」



そう仕方なしに聞けば、待っていましたと言わんばかりに、男は食い付いた。



「もうね、アイツは女として駄目ですよ。子供の世話ばっかで化粧は全然しない、髪はボッサボサ。たまには遊びに行こうって気を使って、俺の実家に子供を預けようとせっかく持ちかけても、お義母さんに悪いしお金がもったいないからって、甘えなくて可愛くないし。弁当は、残り物かスーパーの揚げ物の詰め合わせ。挙げ句の果てには、俺の小遣いの使い道にまで口を出して。五月蝿くて敵わないっすよ。


 今時、専業で養ってあげてるだけ、多めに見てくれても良くないですか??ほんとうちの嫁も、周防さんみたいな、家庭も仕事も両立してるキャリアウーマンの女社長さんを見習って欲しいですわ。周防さん、お綺麗ですし、旦那さんが羨ましいですよ。」



酔っ払った男性社員の愚痴は、“男性あるある”と言った類いの物であった。しかし、その場にいた女性社員と、裕美の気分を少し害したのは間違いない。


「ちょっと、舟木さん、飲み過ぎですよ?」


彼を嗜める女性社員の顔も、少し呆れた様子だ。


(“平均的な男の人”って、こんな感じなんだろうな。こういう人とうっかり結婚しなくて、本当に良かった。)


裕美は、グラスを傾けてワインを飲み干しながら、冷静にそう思う。名前も顔も知らない、ワンオペ状態で子育てをしているはずの舟木の奥さんが心から気の毒に思えた。

 

 

 将来を誓い合った伴侶である夫に、影でこき下ろされ馬鹿にされているのにも関わらず、何も知らずに生活に必死になり、その男の子供を育てている健気な妻。見ず知らずの彼女の事を思い浮かべるだけで、不思議と同じ“女”として、沸々と怒りを覚える。気づけば、いつの間にか、裕美お得意の“滅☆男性論破モード”に入ってしまっていた。



「…舟木さんは、何でその奥さんと結婚されたんですか?」



「…何でって。母が五月蝿くて、孫の顔を見せろって。当時出会いがなかったんで、流行りの婚活サイトに登録したら、一番可愛くて、母も気に入ったんで結婚しましたね。今は見る影もありませんけど。」



「…なるほど。」



(…いつかの“私”と同じ理由だ。)


過去の“歴戦の婚活”を思い返し、ぼんやりとそう思う。



「しかしまあ、母も、あんなに孫孫言っていたのに、最近は趣味に目覚めちゃって、全然子供の面倒を見てくれないんすよねー。嫁の悪口も言うし、嫁は嫁で俺の母親と仲良くしないし。もう親子なんだから、気を使わなきゃ良いのに。板挟みで本当にいい加減にして欲しいですよ。」



イイ気になって、そう続ける男の話を聞き流しながら、ふと裕美は思う。



(私のお母さんは、結婚結婚言ってきても、私の結婚相手を自分で決めたりしなかったな。お母さんが決めてって言っても、首を縦には振らなかった。こんな風に、母親のせいにしなくて済んで、自分で相手を決めて、本当に良かった。)



 調子を取り戻した裕美は、迎撃体制に移行する。足を組み換えて、気合いはバッチリだ。ワインも体中の血の巡りを良くしている気がする。



「…お言葉ですけど、お母様のお口添えがあっても、今の奥さんを妻にすると決めたのは、舟木さんですよね…?良い大人なんですから、親のせいにするのは、如何な物かと思いますけど。子供だって、“親が欲しがるから”なんて理由でもうけるのは、私には無責任に聞こえますね。


 親にも、親の楽しい老後の時間がありますし、親に迷惑をかける位なら、舟木さんが育児休暇を取って、奥さんのサポートをするべきでは??今時、男性の育児休暇は珍しくありませんよ。そもそも、親に奥さんと仲良くして欲しいなら、ご自分が間に立ってお願いしたらどうですか?他人の母親になんて、気を使うに決まっているんですから。」



 唐突に鎌首をもたげ、ジャングルの奥地に生息する獰猛なコブラのように襲いかかってきた裕美に、舟木は泡を食った様子だ。




「や、そんな、母のせいにだなんて、してないですよ。実は、その前に学生時代から付き合っていた元カノと結婚を考えていまして…ただ、母から猛烈な反対を受けて破談になっちゃって…そういう兼ね合いも合ってですね…。そ、それに、女同士の事に口なんて挟むなって父にも言われてますし、嫁と母の問題ですから…。」



 尻すぼみに言葉が消えていく舟木は、早くも戦闘不能のようだ。酔いもすっかり冷めたようで、おどおどしている。



(この人、典型的な日より見夫なんだな。自分の意志がなくて、親の言いなり。都合が悪くなったら、全部親と奥さんのせいなんだ。)



 弱い立場の女性である奥さんには粋がり、強い立場の女性の母親や裕美には頭が上がらない“卑怯者”である舟木の姿は、ひどく不愉快な気分にさせる。



「…舟木さんって、ご自分の意志がないんですね。私も、今の夫との結婚について相談した時、母からもろ手をあげて賛成された訳ではありません。でも結婚って、親とする訳でも、親に決められる訳でもないんですよ。私も、母の望み通りの結婚をしなきゃって思った時期はありました。


 だけど、それはもう違うな、これからは自分がしたい選択をして、親離れをするべきだなって分かったので、今の夫と結婚したんです。母にも認めて貰えるように、夫と母の仲を何回も取り持ちました。夫も、すごく努力をしてくれました。私の母は、外国人で日本語があまり得意じゃありません。それなのに、夫は、母の好きな趣味の話題や食べ物を持ってきたり、一生懸命母に歩み寄ってくれました。だからこそ、母も私達の結婚を認めてくれて、とても仲良くしています。


 舟木さんは、奥さんとお母様の仲を一度でも取り持つ努力をされたんですか?身内の自慢をするのは忍びないですが、私の夫は、私と母が二人で旅行に行く時は、実家の犬の散歩と世話まで請け負って、親子水入らずにしてくれますよ。そういうささやかな“努力”が“家族”を作るんじゃないですか?」




「や、まあ、そんな…仰る通りで…。」



 目を白黒させながら、項垂れる舟木。しかし、裕美は尚も容赦なく続ける。それだけ、なぜか無性に、舟木の“責任転嫁”した発言が許せなかったのだ。



「そもそも、舟木さんは、普段ご家庭の事をどれ位されていらっしゃるんですか?まさか今時、“何もしていない”なんて仰いませんよね?私の事、仕事と家庭を両立していて綺麗にしているって褒めてくださいましたよね。私は舟木さんの奥さんみたいに、一人で家庭の事を全てこなしている訳ではないから、余裕があるんですよ。


 

 我が家は、私の収入の方が上ですけど、夫も家で出来る仕事で、普通のサラリーマン位にはもらっています。私は、収入差で家庭の分担の比重を決めるのは“時代錯誤”で“アンフェア”だから反対したんですけど、夫は、私の方が外出が多いからと言って、喜んで家庭の事をこなしてくれているんです。



 舟木さん、“皿洗い”とかされた事あります??うちの夫は、私の手が荒れたり、ネイルをしなくなると本当に“悲しむ”んです。だから、率先して“皿洗い”を毎日してますよ。私は、結婚してから“一度”もしてません。だから、こんな爪の先まで綺麗に出来るんです。


 ところで、お小遣い、おいくら位使っていらっしゃるんですか?うちの夫は、たった三万ぽっちで、お給料は全部預けてくれますよ。その三万ぽっちから、少しずつ貯金して、私の誕生日やクリスマスには、数万円のプレゼントを贈ってくれます。このパンプスだって、夫からの去年のプレゼントです。“そこそこ”の値段はしたみたいですよ。



 舟木さんも、奥さんに“身綺麗”にして欲しいなら、そういう“思いやり”を持つべきじゃないんですか?お子さんもいらっしゃって、旦那さんにも多めにお小遣いを渡しているなら、奥さんには“身綺麗”にする余裕なんてないはずですよ。」



 裕美は、舟木の前でこれ見よがしに、テラテラと黒光りする数万円のパンプスのハイヒールをわざとらしく見せびらかす。すっかりぐうの音も出ずに静まり返った舟木をよそに、勝利の凱歌をあげた。久しぶりに、一方的に身勝手な男性を“処刑”した後は、気分の高揚が抑えきれない。我ながら、少し“やり過ぎた”感は否めないが、罪悪感は一切感じなかった。


 

 そして、舟木がトイレに逃亡した後、裕美の理路整然とした正論に感銘を受けたのか、尊敬の眼差しをした女性社員が話しかけて来たのだった。



「周防さん、ありがとうございます。私も横で聞いていてイライラしたので、すごくスッキリしました。舟木さん、ちょっと男尊女卑気味なんで、実は話してて疲れるんですよね…。


 ところで、旦那さん、すごくお優しいんですね…!良いなあ、私も旦那に、“ネイルして欲しいから、もう皿洗いしないで”なんて言われたいですよお。結婚前は、家事分担の約束だったのに、会社から帰ったら、縦の物を横にもしないんですもん。そういう男の人、多いですよねえ…。」




「いやいや、旦那さん、営業マンでしたよね?営業マンは仕方ないですよ…毎日お忙しいでしょうし…。うちの夫は、お家で出来る仕事なので、余裕があるから出来るんだと思います。」



 謙遜し返しつつ、裕美は悪い気がしなかった。たまには外に出て、選ばなかった“普通の典型的な男”を眺めるのも良い物だ。そうする事で、普段は気付かない、“明の夫としての良さ”が際立つ気がする。皿洗いの話だって、明から提案された時は、理由が“子供っぽい”と思ったけれども、こうして人前で話してみれば、明の“愛の大きさ”として素直に評価出来る。




「あー!ダメダメ!何してるの!?」


 


 ある日、食事を終えた裕美が続けて皿洗いをしようとすると、トイレから戻ってきた明が飛んできてその手を止めた。



「何って、汚いから皿洗いをするんだけど。」




「ダメ!皿洗いは僕が全部するから、二度としないでって、約束したじゃん!一生やらないで。」




「えー。明、皿洗いトロいじゃん。私が洗った方が早いんだから、今日は良くない?私、早くお湯を沸かしてコーヒーを飲みたいんだよね。」




「ダメなの!やだ!裕美の手が荒れたりしたら、僕の“至福の時間”が失われるし、綺麗な“おてて”が荒れたら悲しい。」




「何?“至福の時間”って。私の手は、君のために存在している訳じゃないんだけど。」



 訝しむ裕美の前に、はにかみながら、明は顔を突き出した。




「両手で、僕の顔を包んでくれるやつ!アレ、めっちゃ気持ちいい!裕美の手が優しくて、もちもちしてて、最高なの。だから、荒れたりしたら、本当に悲しい。」




「あー…。アレ、本当に好きだよね…。」


 

 裕美は、両手で顔を包んでやった時の明の表情を思い出す。その“至福の時間”を味わっている時の夫は、本当にうっとりとしてしまって、まともな会話が続かなくなるのだ。何を聞いても、“うん”しか答えなくなるし、毎晩せがまれるその時間は、まるで猫が“麻薬おやつ”を味わっている様子によく似ている。その時の夫の姿は、目をつぶってうっとりと“話題のにゃんこおやつ”を舐めている飼い猫のタマと大差ない。



「だから、ダメ!裕美の手が大好きだから、皿洗いもトイレ掃除もお風呂掃除も絶対しないで!頼むから!コーヒーも僕が沸かすから!!」



 必死にそう繰り返す明を、裕美は、“何かこの人、子供っぽい理由に真剣になるなあ”と当時思った。勿論、家事で楽ができるのはありがたいが、明らしい“謎な理由”に共感は出来なかった。最も、危なっかしい手つきで、自身は飲めもしないコーヒーを注ぐ明を、“少しばかり”可愛らしくは感じたが。


 


 このような過去の回想すらも、先ほどの“不愉快な舟木という男の言い分”から鑑みれば、より一層、“うちの夫の可愛らしさ”を引き立てる。こうした“身勝手な男を言い負かした快感”と、“ほろ酔い”も相まって、今日の裕美は、いつもよりも“我が夫への愛しさ”に浸りながら、すっかり“満ち足りた気分”でいそいそと家路に着いたのであった。



(…あれ、いつもなら終電の時はお迎えに来てくれるんだけどな。)


 改札を抜けた裕美は、辺りを見回す。終電ともあって、人はまばらだ。疲れはてたサラリーマンが数人、とぼとぼと歩いている。スマホを見てみるが、先ほど送ったメッセージは、まだ未読のようだ。普段ならば、ニコニコしながら駆け寄ってくるはずの夫の姿はなかった。珍しい。



(…お風呂にでも入っているのかな。ま、家は駅から徒歩五分だから、わざわざお迎えに来てくれなくても、別に良いんだけどね。)


 

 そう納得しながらも、ついさっきまで盛り上がっていた夫への“愛”に対して、肩透かしを食らった気分になる。一抹の寂しさを抱えながら、裕美はマンションのエレベーターに乗った。




「ただいま。」



 

 ガチャリと家の鍵を開ける。家の中は電気すら付いていない。リビングは真っ暗だ。夜型の明が寝ている訳もない。一体、何が起こっているのだろう。訝しく思った裕美は、真っ直ぐ寝室に向かう。こういう場合、妻の“女の勘”は大体当たる。もし、不倫ドラマだったら、ドアの先には“最悪の光景”が広がっているはずだ。




「…明?いるの?」



勢いよく寝室の扉を開けると、真っ暗な部屋の中で、パソコンの光にぼうっと照らされた人影が、ビクッと跳ねた。その拍子に、人影の手から“何か”が転げ落ちる。




「わあ!!びっくりした!!」




驚く明をよそに、寝室の電気をパチンと付けた裕美は、床に転がった“何か”を拾いあげる。




「ふーーん。」


 


 手の中で、“大人の玩具”が満面の笑みを浮かべながら、こんにちはをしている。裕美は、“それ”と暫し見つめ合う。謎が全て解けた。夫が返信をくれなかった訳も、お迎えに来なかった訳も、“こいつとの密会”が原因だ。勿論、どこかのドラマのように、どこぞの馬の骨ともしれない女と“浮気”をされていた訳ではない。しかし、お酒が入り、すっかりいい気分で盛り上がった裕美の“女心”は、これは“妻への裏切り”である、と“警報”を鳴らしていた。

 




「わ、わー!ち、違うんだよ!誤解!誤解だから!!」




「ごめんね、気が利かなくて。一人でシタいなら、思う存分“お一人”でどうぞ。」




(何か“ムカつく”から、“一週間”は“抱かせて”やらない。)



“可愛さ”余って“憎さ”百倍とはこの事。無論、妻の今夜の出来事を把握している訳ではない夫に、罪などない。だが裕美は、“膨れ上がった我が夫への愛しさ”を踏みにじられた気分になった。“盛り上がった気分”を即刻、“利子”も揃えて返して欲しい。




「ま、待って!待って!違うから!ショッピングしてただけなの!!」




「そういう言い訳良いから。」




「違う!しようとしたけど、してないの!!“免罪”だから!」




「別に良いよ、“何とも!”思ってないから。」



 


鼻息荒く踵を返そうとする裕美に気圧された明は、今にも泣きそうな小さな声で呟く。




「…スイッチ。」



「は?何?」



「スイッチを押して下さい…。」



(…一体何なのだろうか。言い訳が見苦しい。“怒ってない(大嘘)”のだから、素直に認めれば良いのに。かといって、開き直られたら“許さない”けれども。)




裕美は素直に“大人の玩具”のスイッチを押す。カチッカチッと、間の抜けた音が鳴るだけで、何も起こらない。




「あれ?」




「…それ、壊れちゃったから、新しいやつを探してたの。ほら、これ。」




 ホッとしたように、明が呟く。裕美は、パソコンの画面を覗く。てっきり、アダルト動画が写し出されていると思ったが、広がっているのはアダルトグッズのショッピングサイトだ。…と言う事は、つまり、“自家発電”をしようとしていたというのは“事実”な訳で。




「でも、一人でシタかったから、新しい“玩具”を探してた訳でしょ…?」




「…裕美の分も買ったよ…?ほら、これ!絶対気持ちいいよ!」


 

 

 最新のアダルトグッズを、ニコニコしている明に、嬉しそうに見せつけられた裕美は、思った。“違う、そういう意味じゃない。”




「そういうんじゃないから。一人でシタかったから、メッセージも見てなかったし、お迎えも来てくれなかったんでしょ??」




「…え?ああ、ごめん。久しぶりにショッピングしてみたら夢中になっちゃって、スマホ全然見てなかった。今時はすごいね、色々なグッズが増えてて、迷っちゃった。」



 

照れながらはにかむ明の笑顔には、“一点の曇り”もない。恐らく、“嘘”は言っていないのだろう。夫に悪気がないのは、重々分かっていた。けれども裕美の中では、むくむくと、嫉妬のような“黒い感情”が台風の目のように渦巻き始めている。


 

 

 自分の中のそうした“汚い感情”を、裕美は昔から酷く嫌っていた。だからこそ、大抵の事は、何でもないようにポーカーフェイスで受け流すし、聞き分けの良い大人のように、“そういうものだよね”というスタンスを取っている。



 そうでもしなければ、自分の中の隠している“子供っぽい自分”が、今にも暴れだしそうだからだ。そして何回も、今までの恋愛で、その“子供”を制御出来ずに、失敗してきた。シスコンの元カレの時は、“彼女”である自分よりも“姉”を優先する彼氏が許せなかった。でも、そんな“子供っぽい自分”の“本音”の方が、裕美は“彼氏”よりもずっと許せなかった。




(裕美ちゃんは、“我が儘”だよ。)



 

 何度も、元カレ達の声がこだまする。その声は、今度は、裕美自身の声になって、裕美を責める。




(“子供っぽい我が儘”を言ってはダメ。“我が儘”を言ったら、嫌われる。でも本当は、“我が儘”を言いたい。どんな時だって、“私だけ”を見てくれる人が、“夫”であって欲しい。そんなの“夢物語”かもしれないけれど、いつか、今までみたいに“子供の自分”を“封印”するんじゃなくて、自分で“子供の自分”を“許せる”位、穏やかで幸せな生活を送りたい。“我が儘な私”が“許される相手”が欲しい。)



 


ずっと、そんな風に懸命に我慢をしつつ、裕美は“子供の自分”を抱えながら生きてきた。“子供の自分”を隠し、“大人”を装っていると、ある日、こんな事を言ってくる男がいた。




「僕は、裕美がたまに爆発しちゃって、“罵詈雑言”を言ってきても、僕に“甘えてる”んだなって思ってるんだ。確かに僕も“人間”だから傷付くけれど、それだけ、裕美が“信頼”してくれてるって考えてる。だって他の人には、ここまで酷い事を言わないでしょ。僕には、どんな酷い事を言っても、自分から逃げていかないか、裕美が僕の“愛を試してる”ように見える。今までの元カレみたいに、僕が逃げないから。」




「うん。明には、悪いと思ってるよ…。」


 

 


 何回目の“自分から吹っ掛けた理不尽な喧嘩”の時だっただろうか。その時も、“子供の自分”が制御出来なかった裕美は、半狂乱になり、言葉で明を“タコ殴り”にした。まだ“友達”だった明が、なぜ、そこまでして自分のそばにいてくれるのか、裕美には全然分からなかった。分からないから、怖くて“試していた”のかもしれない。今振り返ってみれば、他の“友達”には、“しない行動”だった。




「何かさ、僕はいつも思うんだけど。今のような“甘え方”は、裕美も自己嫌悪になって、すごく苦しいと思う。だからいつか、苦しくなく、“自然と甘えられる”ようになるといいね。」



 

 明はその時、柄にもなく落ち着き払って、静かに言った。普段子供っぽい明が、大人びた事を言う場面になると、裕美は思う。“まるで、いつもとあべこべだ。”そしてそんな時に限って、裕美は、普段隠している“子供の自分”が素直に実体化する事を不思議に感じる。だから、蚊の鳴くような小さな声で、つい本音をポロリと言ってしまった。




「“甘え方”が、分からない…。」




その途方にくれたような一言が、不器用な裕美にとっては精一杯の“甘え方”だった。





「…そっか。じゃあ、これからゆっくり、探していこう。僕も手伝うから。」





明は、裕美の“小さな勇気”を振り絞った一言を、見透かしているかのように優しく微笑んだ。



 

 あれから数年して、いつの間にか、それが二人の“当たり前”のように、明と裕美は結婚している。“友達”だった時は、そんな事になるなんて“夢”にも思わなかった。だが、その“夢”にすら思わなかった事が、“現実”となった時、裕美の中で“何か”が大きく変わる。



 

 

 裕美は元々、自身の“独占欲”が強い事を、とっくの昔に気付いていた。そして、その“独占欲”が暴れだすと、必ず恋人と上手くいかなくなる。だからこそ、“子供の自分”を抑えつけ、“聞き分けの良い大人の自分”を装ってきた。でも明は、いつも裕美に“素直に甘える事”を求めてくる。今までの、自らに“我慢を強いたやり方”では、明にはバレてしまう。ならばもういっそのこと、自分の出来る範囲で、“子供の自分の独占欲”を、素直にさらけ出し、甘えた方が良いのではないだろうか。


 

 

 目を輝かせて“新しい玩具のムーブメント”を一人語っている明の話を聞き流しながら、裕美はふと、自分の中で急に腑に落ちたように納得した。気が付けば、“友達”の頃、“玩具相談”された時に言えなかった、素直な本音が口をついたように出ている。





「“それ”って、そんなに必要なの?」




「え…?」




突然話をぶったぎり、ぶっきらぼうに“大人の玩具”を指差す妻に、夫は間の抜けた返事をする。




「…前にさ、友達の時、“それ”を使うか、明が相談してきた事があったじゃん。」





「う、うん。した。」





「あの時さ、友達だったし、勝手にすればって言ったけど、“それ”って、彼女と毎日セックスするんだったら、いらなくない?って私が言ったの、覚えてる?」



 


 明は暫し、過去の追憶に思いを巡らせる。確かに、そんな事を言われたような…気がしないでもない。そして、首を傾げる。そうだ。あの時、何だかいつもクールな裕美にしては、“女の子のような事”を言ってるなあと、不思議に思ったのだ。だから、明は大真面目な顔で、無邪気に返す。




「…覚えてるよ!何か、裕美が“女の子みたいな事”を言ってたやつだよね!珍しいと思った。あ、でも、その時僕、十年位彼女いなかったから、その台詞は“リアリティー”に欠けてるなって思った。」




この“悪気”はないが、“空気を読めない夫”の発言を聞いて、妻は些か気を悪くした。この男は、“空気”を読んで欲しい時に限って、“空気”を読んでくれない。




「いや、私、“女”だから。」




「??うん、知ってるよ。」





裕美が“察して欲しい女心”は、どうやら明にとっては、つかみ所がない“フワフワしたもの”であるらしい。キョトンとした明の脳内に、疑問符が沢山浮かんでいるであろう事は、聞かなくてもよく分かった。




(ぜんっぜん、伝わってない。)



 


 深いため息をついた裕美は、一気にこの状況が面倒臭くなる。もう良い、全部ぶちまけてやろう。




「だから!!“それ”を使って一人でするのと、私と毎日セックスするのと、どっちが良いの?!」





「え、そんなの、裕美と毎日シタいに決まってるじゃん。」




至極当然に、最もらしく、夫は言う。どうやら、“浮気相手”には余裕で勝利のようだ。第一関門クリア。




「でも、裕美は毎日お仕事で疲れてるし、僕の“我が儘”で無理して欲しくない。生理でお腹痛い時にそういう事するのは論外だし、かといって、僕もテストステロンで物凄くムラムラしちゃうと、苦しくて眠れなくなるから、迷惑をかけないように、自分で処理してるだけだよ。 


 勿論、性欲って汚い物だと思われがちだし、“自家発電”している僕を見たら、不愉快な気持ちにさせちゃう時も、あると思う。それは本当にごめん。いつも見てみぬ振りをしてくれてありがとう。裕美の“心の広さ”に感謝してるよ。」



 


明は特に動揺する様子もなく、堂々と言う。それが明の“思いやりある本心”である事は見てとれた。聡明な裕美には、明の言い分にも“一理”ある事など、とうに理解出来ている。



 



 もし、今目の前にいる夫が、“明”ではなく、“舟木のような、婚活で適当に結婚したどうでも良い男”だったならば、こんなに“感情”が揺れる事もないのだろう。そんな“その他大勢の男”相手なら、今までの裕美お得意の“大人”のスタンスのまま、“ご自由にどうぞ。何なら、私達レスですし、風俗でプロの方にして頂いたら?お小遣いの範疇で、ですけど。”などと、涼しい顔で言えたのかもしれない。けれども、“現実で裕美が選んだ夫”は、“その他大勢のどうでも良い男”ではなく、“明その人”なのだ。



 


 深呼吸をした裕美は、明をじっと見つめる。明は、穏やかな表情で、裕美の言葉をただ待っている。“甘え方が分からない”。そんな風に、一人ぼっちで、途方にくれたように思っている自分がまだ存在しているのか、裕美には分からなかった。



 一方で、はっきりしている事が一つある。それは、裕美がどんな“甘え方”をしたとしても、明なら、“逃げずに必ず受け止めてくれる”という事だ。その“事実”だけは、“確固たる信頼”の元、二人の間に存在している。だから、裕美は拳をギュッと握りしめながら、思い切って言ってみた。





「これは、私の“我が儘”なのかもしれない。明の言い分が最もなのも分かるし、現実的に考えて、私が毎日明の相手を出来る体力があるかと言われたら、微妙だと思う。生理で具合悪い時もあるし、明とセックスするのは好きだけど、疲れてる時は難しいと思う。でも明が、私の知らない所で、“私以外”の女の人のアダルト動画を見てるのも、“これ”で一人でシテるのも、本当は、“やだ”。」



 


 震えるような声で、やっと言い終わった裕美は、すかさず、夫の顔を盗み見てみる。“我が儘で面倒くせー女”などと思われたら、どうしよう。本当に傷付く。もう、心を開く事が二度と出来ない位に。過去の恋愛の経験から、そんな風に怯えている自分が、心のどこかにまだいた。だが、それは“明相手には”、全くの“杞憂”であったのだ。




「…えーと、つまり、“裕美ちゃん”は、僕が“裕美ちゃん以外の女の子”の動画に興奮して、“スッキリ”している事に、“焼き餅”を妬いてしまったと…?それを、ずっと言い出せなかった、と今、仰ってる訳で…?」





どこか状況を掴めていない様子で、目をぱちくりさせながら、聞いてくる我が夫。その姿は少し“間抜け”に見えた。が、言っている事は、そう間違っていない。




「…うん、まあ、そう。」




少し考えてから、ぼそりと呟くように答えた裕美は、その瞬間に、思い切り抱き締められた。




「可愛いよー可愛いよー!“僕の裕美ちゃん”!!なんだー、そんな風に思ってたなら、結婚する前から、言ってくれれば良かったのに!!それに僕、毎回わざわざ“裕美に似ている体型で顔が映ってない人”のアダルト動画ばかり見て、裕美だと思って妄想してたんだよ。裕美以外とシタい訳ないじゃん!僕、裕美にしか体を見せた事ないし、体を触って欲しいのも、触りたいのも、“裕美だけ”だよ!本当だよ!」




 

 悪い想像の斜め上の、“物凄いハイテンション”で抱き締められた裕美は、少し面食らった。いつも、明はこうなのだ。裕美が想像する悪い対応と、全く同じ対応をしてきた事がない。明の考えている事は、裕美には予想出来ないのだ。必死で本心を打ち明けた“恥ずかしさ”も相まって、少し、“あまのじゃくな普段の自分”が顔を出してきそうな事に、裕美は気づく。





「うるさい。苦しい。“私”を想像したとしても、その人は“私じゃない”もん。」






「うん、うん、そうだね、ごめんね。ずっと我慢してたんだね、偉いね。」





「…本当に、“すごい嫌”だったの。でも、そういう風に、“嫉妬深い子供っぽい自分”は、もっと、“やだ”。」



 


 明に頭を優しく撫でられながら、その腕の中で裕美は俯き、拗ねた子供のように、ポツリと本音をこぼす。明の手は、自分が想像していたよりもずっと、温かく、優しくて、なぜか不思議と泣きたくなった。




「じゃあさ、裕美は、“勇気”を出して、僕に“本当の気持ち”を打ち明けてくれたんだね、ありがとう。」




「…うん。」




覗き込んでくる明の優しい目から、顔を逸らしながら、裕美は頷く。すると明は、裕美のおでこにキスをして、背中を擦りながらこんな事を言った。





「裕美はすごいね。ちゃんと、今までみたいに“我慢”をして“自分”を“傷付ける”んじゃなくて、“勇気”を出して、“自分”を“許せた”ね。それって、すごい“成長”だよ。昔は、“甘え方が分からない”なんて言ってたけど、今は“上手”に甘えられるようになって、偉いね。僕も、そういう風にしてくれた方が、分かりやすくて助かるし、嬉しいよ。ありがとう。」





(…あ、覚えていたんだ、“甘え方”の話。)




 

 夫に褒めちぎられながら、その腕の中で、ぼんやりと裕美は気付く。同じ記憶を覚えてくれていた事が、ただ何となく、嬉しかった。そう感じながらも、“あまのじゃくな裕美”は思う。




(…明って、本当に私に“甘過ぎる”。砂糖が二リットル入った一杯のコーヒー位甘い。まるで、そう、死んだ私の“おじいちゃん”みたいに。)



 

 亡くなった祖父の優しい笑顔が、ふと浮かぶ。どんな時でも、裕美を目の中に入れても痛くない位に、可愛がってくれた祖父。祖父と生きていた時、きっと自分は、もっと自然に、“我が儘”を“我が儘”とも思わずに、“甘える”事が出来ていた。祖父を失って、周りの顔色ばかり伺う“聞き分けの良い大人”を装うようになってから、長い年月が過ぎた。ずっと、祖父に会いたかった“あの日の子供の自分”を封印していた。その“甘い優しい記憶”を思い出すと、“現実”が苦しくて苦しくて、息が出来なかった。



 


 裕美は、顔を上げる。明は相変わらず、裕美を撫でたり、キスをしたり、頬擦りをするのに忙しそうだ。誰がどの方向のどの角度から見ても、この夫は、“甘々な上に優し過ぎる”。…“矛盾”している。と、裕美は思った。“甘い優しい記憶”が“現実”にならないから、そこから目を逸らして、強がって逃げてきたつもりだった。しかしいつの間にか、その“記憶”と同じか、それ以上に“甘い優しい現実”が、裕美の物となっている。それは、明の言葉を借りれば、裕美が“勇気”を出して“成長”したから、なのだろう。



 

 

 裕美は、“現実”なんて、と“絶望”を言い訳にする事で、“希望”を見ない振りをして、生きてきた。しかし、人間はどんな状況下にあっても、“希望”を失う事はない。そして、たった一つの、小さな灯火のような“勇気”が、“奇跡”を生み出す。“奇跡”とは、“偶然”で起こる物ではない。“奇跡”とは、“必然”が起こす“希望”の産物なのだ。


 



 “絶望”から這い上がり、愛する夫を“自分”で選んだ。“幸せ”を、“我が儘”を、“甘える”事を、“自分”に“許した”からこそ、今の“甘い優しい現実”がある。そのような事を、“心の奥底から沸き上がってくるような、満ち足りた気分”で裕美は思った。





「…ねえ、ところでさ、まだ裕美に言ってない事があるんだ。」



 


“満足”している裕美をよそに、もぞもぞしながら、すまなさそうに明が言う。





「…何?」



 


何となく、この“優しい穏やかな時間”が“ぶち壊し”になる気配がする。もうちょっと、“甘い幸せ”に浸っていたかったのに。この夫の難点は、何てったって、“シリアスブレイカー”な所である。





「…あのね、最新の“大人の玩具”を“裕美の分も”買ったらね、“八千円”になっちゃった…。明日届くんだけど…。」





「はー!?何で“そんなモン”に、“八千円”も使っちゃうの!?バカなんじゃないの!?“それ”ってそんなに必要!?てか、二個もいらないから。あーあー、“八千円”あったら、“美味しいお寿司屋さん”に一緒に行けたのにねー…。」



 


呆れ果てた夫の“愚行”に、思わず嫌味を言ったその瞬間、今までの“甘い時間”が一気に吹き飛ぶ。妻は、頭の中の算盤で“今月の家計簿”を凄まじい早さでつけ始めた。これ以上の“無駄遣い”は厳禁だ。





「…だって、裕美も“自分用”のが欲しいかなと思ったから…。一緒に、脳ミソが溶けちゃう位、気持ち良くなりたかったんだもん…。」



 

妻は、泣き出しそうな顔でうなだれる夫を、冷たく一瞥した。この男、大分テストステロンに脳ミソを犯されているらしい。“理性”が完全に“崩壊”している。





「いや、百歩譲って、一個あれば良いから。夫婦なんだから、共有すれば良いでしょ…それに、“そんなの”なくったって、“私”が気持ち良くしてあげるから。」



 


憎々しげに、壊れた“大人の玩具(ライバル)”を見つめながら、吐き捨てた裕美は、ハッとする。しまった、言わなくて良い事まで、つい言ってしまったではないか。





「え!?ほんと!?“今から”気持ち良くしてくれるの??」



 


背中に、“金閣寺並み”に輝く、夫の凄まじい“期待の眼差し”が突き刺さる。裕美は、時計をチラリと見た。現在、夜中の二時。冗談じゃない。“夜型”で“テストステロンの化け物”となった明の相手などしていたら、明日の仕事に明らかに“支障”が生じる。ここを切り抜ける打開策は、そう、“アレ”だ。裕美は、明の方へクルッと向き直る。





「ん、おいで。」





「??」



 


 腕を広げると、不思議そうな表情を浮かべたまま、嬉しそうに駆け寄ってきた夫の顔を、優しく両手で包む。しめしめ、本当に上手く行った。“単純”で“素直な”夫で良かった。そう思いながら、裕美は猫なで声で続ける。





「あのね、明君。私は明日も“大事なお仕事”があるの。分かってるよね?」





「…うん。」



 


裕美の手にすっかり“骨抜き”になってしまった明は、“うっとり”として子供のように頷く。




「だからね、もう今日は君の“お相手”は出来ないの。私が寝ても、今日“約束した事”を守って、“大人しく”出来るよね?“AV”なんて見ないで、“自分のお仕事”をするよね?」




「うん。」



 


明が、裕美の手の感触に“蕩けきって”、全神経を行き渡らせているのを良い事に、裕美は、ちゃっかりと“先ほどの約束”にまで釘を差す。我ながら、“策士”だ。




「“いい子”にしてたら、明日は必ず明の“相手”をしてあげるから。分かった?」




「…うん。」



 

明がすっかり“手の温もり”にうとうとしながら相槌を打つや否や、裕美は納得し、パッと両手を夫の頬から放す。その途端、明は愕然として騒ぎ出した。





「あー!また裕美に、煙に巻かれた!僕の事“騙した”でしょ??」



 


“勘の良い”ガキは、これだから嫌いだよ。どこかで聞いた事のあるような台詞がつい、頭をよぎる。裕美はため息をつきながら、明日の“保証”をした。





「騙してない、騙してない。明日は“相手”してあげるから。“約束”。だから、明も“いい子”にする“約束”、忘れないでね。」





そう念を押すと、明はすぐさま納得したようだ。





「分かった!楽しみにしてる。」



 


とことこと部屋からおもむろに出ていったかと思うと、戻ってきた夫は、“どや顔”で胸を張って言う。





「あのね、今日裕美の帰りが遅いかもって、分かってたから、お風呂はもう沸かしてあるよ!今追い焚きをしたから、すぐ入って寝れるよ!」



 


鼻高々で得意げなその表情に、裕美は思わず吹き出した。





「えらい。」



 

 妻の“就寝”に“協力的”なその姿勢に、一言労って褒めてやると、夫は心底嬉しそうな顔をした。明のお尻から、あるはずのない“犬の尻尾のようなフサフサしたもの”が生えて、高速回転しているように見える。本当に、うちの夫は“チョロすぎ”て、飼っている“チワワ”のチャロと“良い勝負”だ。猫のタマの方がよっぽど、“手強い”。



 

そんな事を思いながら、裕美は一人、湯船にゆっくりと浸かった。温かい湯気が、白く立ち上っていく。今夜は、色々な事があり過ぎた。




(…ちょっと疲れたけど、でも…。)



 


“舟木をやり込めた瞬間”や、明の“優しい”手、そして、“甘い時間”、“大人の玩具”のせいで“お金”をどぶに捨てた事件…“チョロすぎる”夫…。様々な事が思い起こされ、いつの間にか、クスクスと笑っている自分がいる。その時、裕美は気付いた。




(ああ、私、“今”に、すごく“満足”してる。それはきっと…。)




「タオルと着替え、ここにあるからね~!」


 

 明の声が、突然風呂場に響く。妻が寝てしまう前に、少しでも言葉を交わしたいのだろう。今日はいつもより“過干渉”だ。分かりやすくて、笑ってしまう。




(そういう所も、“可愛く”て、“好き”。)



 

本人には気が向いたら、伝えてあげよう。そう決めて、裕美は湯船にゆったりと体を預けた。天井の水滴が落ちてきて、ポタリと睫毛にかかる。それは“ぬるま湯”のように、とても暖かかった。非常に心地好い、今この瞬間の、“甘い優しい現実”のように。





















































 









 














 





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